いろはに踊る

 シルバー社交ダンス風景・娘のエッセイ・心に留めた言葉を中心にキーボード上で気の向くままに踊ってみたい。

女性化する男達(第32編)

2005年08月02日 09時03分00秒 | 娘のエッセイ
 私の女友達のほとんどは同い歳なので、今年で二十七歳になる。独身・人妻・
ママありと賑やかだが、その中でも独身の友人同士が集まると、必ずと言ってい
いほど話題は男である。そんな彼女達の話と私自身の体験から、ふと面白い
発見?をした。

 私は、今おつきあいしている彼から、当初よく言われた言葉があった。それは、
『男まさりのともちゃん』である。何故かと言うと、私は港の女の子達のように、

”可愛く”男の腕にまとわりついたりしない。届くはずのない相手の肩に無理やり
手を回して肩を組んだりしてしまう。

 つまり、普通の男が女の子に対してする仕種を、いつのまにかしているからな
のだ。で、それを男が嫌がるか、というとそうでもない。結構楽しくやっていけたり
する。これは、女が強くなったというより、男が女性化したからではないか?
と私は思う。

 二十七にして自由の身である女達は、ほとんど一回以上は男で嫌な目にあっ
ている。そして、その相手はというと、女性化している男達なのである。
それも、変な所が女性化している男だ。

 友人のC子は、年下の男に別れを告げた時『金をくれ』と言われたそうだ。金で
カタをつけようという発想、これは本来、女のものではなかったか? 

また、私もある男に別れてほしいと言った時『俺の三年間を返してくれ!』と叫ば
れた。『私の青春を返して!』なんて台詞、女にだけ許された言葉ではなかった
のか?

 けれど、皮肉なことに、そんな女性達に安らぎを与え、優しく受け止めてくれる
のは、やはり女性化した男達であったりする。

 うまい具合に女性化して、心に柔軟性を持った新しい男達。彼らの存在は、
とても嬉しい。でも、ほんのちょっと「物足りない」気もする。

 だから、優しい男がなにかのひようしに『~しろよな』とか『~しようぜ』なんて
言葉を使うと、きゅん、と胸が痛んでしまうのかもしれない。
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初夏の病 (第31編)

2005年08月01日 08時15分02秒 | 娘のエッセイ
 今年の春、歯科技工学校を卒業したばかりの新入社員のA君が、限りなく解雇
に近いい形で、先日退職した。

 A君が身体の調子が悪くて休んだ日の翌日に、彼の母親から電話があった。
「しばらく休ませます。仕事もきついようですし……」

 そして、A君は会社に来なくなった。二日経っても三日経っても、彼から会社に
連絡は入らなかった。最初は、何故、休んでいるのか、結局のところ誰も本当の
理由を知らなかった。

 そして、会社側が最終通告の電話を入れた翌日、A君の母親が会社にやってき
た。彼女は、濃く強烈な臭い(あれは香りとは言えない)を漂わせ、手土産に風月
堂のゴーフルを持ってきた。

ある病院の総婦長をしているという彼女は、「看護婦さん」というより「勇ましく、
気の強いママゴン」という感じの女性だった。その上、J君の母親が持ってきた
「退職届」は、どう見ても本人の字とは思えない女性的な字体をしていたのであっ
た。

 「あれは、母親が絶対的存在で、強すぎるんだな」。彼女が帰った後、専務が
言った。

 A君は、たぶん母親にとても可愛がられていたのだろう。今までその母に守られ
た家庭という温室と、学校という温室しか知らなかった。

そんな彼がその温室から放り出され、いきなり雑草ばかりで隙間風の入る技工所
に入ってきたわけだから、そのカルチャーショックは小さくなかったに違いない。

 五月病は昔からあった。でも、今の五月病は、昔とは症状が違うようだ。気持ち
のよい初夏の風が吹く頃、この季節、子離れできない母親と、親離れできない子
供にとって、ひとつの試練の季節なのかもしれない。

 A君は今、何もせずに家にいるようだ。彼の五月病はいつ、

                           治癒するのだろうか……。
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出る杭は打たれるが出すぎた杭は打たれない(第30編)

2005年07月30日 15時48分24秒 | 娘のエッセイ
 つい先日会社の先輩男性から、私が入社した時「すごい奴が入ってきた」と思っ
たと聞かされた。『さわらぬ神に祟りなし』や『長い物には巻かれろ』を教訓とする
 
サラリーマンには、上司や先輩にポンポンものを言う私の存在が奇妙にみえたか
らかもしれない。

 十代の頃から人と同じことをするのが大嫌いで、高校生になり周りの女の子達
がパーマをかけだした時は、断固としてストレートヘアを保っていたり、その逆をし
たり。

 とにかく皆と異なることばかりしていた。別に目立ちたいと思ってそうしていた訳
ではなかったのだが、「なぜ、皆と同じにしないの?」という疑問を人に抱かせて
しまい、結果として目立ってしまったようだ。

 「出る杭は打たれるが、出すぎた杭は打たれない、私はそうなりたい」とコメント
したのは、確か田丸美寿々さんだったと思う。

 その言葉を聞いた時、「そうか、出る杭は打たれてしまうけれど、打たれない為
には出すぎてしまえばいいのか!」と私は悟った。それからは、その言葉を胸に
秘め、口先だけに終わらないように各種の資格を取得し、趣味を広げ、意欲的に

仕事もこなした。努力の甲斐あってか、友人達からも「趣味が広いね」とか「専門
職でいいな」等と最近は言われている。

 入社当時「すごい奴」だった私は、勤続四年目の現在、社内ではCADオペレー
ターの第一人者となり、十代のウラ若き後輩からひとまわり以上も年上の男性ま
で、CADについてのオペレーションや機能を教える立場でもある。

 彼らから「CADについてわからないことはない」と思われている私の愛読書は、
いまでも『CADオペレーションマニュアル』だ。

 そして、相変わらず「出すぎた杭」になろうと、心のアンテナを絶えず緊張させ
て、街で電車内で、目をキョロキョロさせている。
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酒 (29編)

2005年07月29日 18時12分58秒 | 娘のエッセイ
 ビジネスと切っても切り離せないもの、それが「酒」である。
親睦を深めるための酒、商談などの付き合いの酒、ストレス解消

の酒、色々な飲み方があるが、親睦を深めるための酒というのが、
結構やっかいなものなのである。

 私の勤務している会社は、社員25名のうち、女性は4名とい
う完全な男性優位の会社なので、お酒を飲む機会が多い。なにか
というと、すぐに飲み会、ということになる。

 それでも、社内でテーブルをくっけて、皆で飲む時は、まだいい。
皆、比較的おとなしく飲んでいる。

しかし、外で飲むと、少々様子が違ってくる。とりわけ遠慮した
いのは、泊りでの飲み会である。

 先月も、年に一度行っている「安全大会」と称する一泊宴会が
あった。行けば、宴会の時、女性の社員はホステス役をさせられ
るのがわかっていたので、行きたくなかったが、渋々出席した。 

出席している下請けさんや、協力業者の方々とは、顔見知りで
ある。いやだ、といいながらも、さしつさされつ、結構楽しく過
ごしていた。

そのうち男性群の顔も赤くなってきたころ、私と仲の良い職人の
kさんが私に「キスをしたい」と言い出した。しかも、それを誰
かに写真をとってもらおう、というのである。「ほっぺですょー」

と言いながら私が頬を人差し指でさすと、「リハーサルしようョ」
と言い出し、結局二度も頬にキスされてしまった。

 ここに入社してから、ほっぺにキスはもう三人目である。同じ
社員なのに、男性はいい気分で楽しみ、女性はサービス役のホス
テス。完全な男女差別の世界ですね。ほんとに。

 などと、お気に入りのピアノバーのカウンターで、好きな男相
手に、話をするのってわるくない。

静かなバーにきれいなカクテル、渋いマスターと心地よいジャズ
ピアノ、隣にいい男、これだけ揃えば、例えノンアルコール派で
も、ほんのり酔ってしまいそう。

 そういう状況で飲むお酒が、私は一番好き。

 
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守護霊はご先祖サマ(第28編)

2005年07月29日 08時45分43秒 | 娘のエッセイ
 誰にでも、守護霊はついているそうだ。そして、その霊はほと
んどの場合、自分の先祖の霊だという話である。

テレビを見ていると、芸能人が有名な霊能者に、守護霊を見て
もらっている場面がよくある。けれど私達一般ピープルの場合、
守護霊を知りたいと思っても、有名な霊能者に見て貰える機会

はほとんど無い。そんな時、自分の守護霊が簡単に判る方法と
いうのが、ある雑誌に紹介されていた。

 その方法とは、実に簡単であった。

まず部屋に独りで座り、心を静かに落ち着けて、自分の父方・
母方の亡くなった方達の顔をひとりずつ思い浮かべ、心の中で
その相手に向かい『あなたは、私の守護霊ですか』と聞いてゆく。

もし、自分の守護霊だった場合には、なんとも言えぬ感情が体に
走り、じーんと涙がでてくるのだそうである。

 さっそく、私はこの方法を実行してみた。知っている限りの亡
くなった祖父や祖母その他の顔を思い浮かべていった。

そして、母方の祖母に、問いかけた時、前述のような現象が、私
の身に起きたのである。ボロボロと流れる涙は止まらなかった。
その時、私は思った。(やっぱり)と。

 三人兄弟の長女である私は、完璧なおばあちゃんっ子であっ
た。私の幼少の頃の思い出の中にいるのは、いつも母ではなく
祖母だった。

 母が育児で忙しい時、私は祖母と一緒に縁側に座り、梅干に砂
糖をまぶしたものをお茶受けにして、大人びた時間を過ごしてい
たのだった。ある時、母に言われた。

 「口をすぼめる癖、おばあちゃんにそっくり」そう、私はいつ
の間にか祖母の癖まで、自分のものにしてしまっていたのだった。

 法事の際、お寺でお経を聞いているとき、故人を思い、一番たくさ
んの涙が滲んでくるのは、祖母に対してである。もう20年経ってい

るというのに、だから、私は今でも時々祖母を思い出しながら、
ひとり、梅干に砂糖をまぶして、食べている。
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このごろの世相 (第27編)

2005年07月23日 16時24分22秒 | 娘のエッセイ
 あのお立ち台と派手なボディコンで一世を風靡した”ジュリアナ東京”が閉店し
た。けれど、ジュリアナを遊び場としていた女の子達「また、他を探すだけ」と、
至って淡白かつ元気である。

 ところがこんなに元気な女の子達も、仕事社会というカチカチの世界のなかで
は、すっかり元気をなくしてしまった。『セクハラ』という言葉の出現で、一時あ

んなに自己主張していたワーキングウーマン及びワーキングウーマン予備軍が
今、哀しい悲鳴をあげている。

 会社の面接。そこでは平然と”ポケベルの番号を教えて”とか”彼氏いるのか”
とか ”制服のサイズがないから痩せてくれるか”などという、おぞましい質問
がなされているのである。

 そのうえ就職したらしたで、宴会の度にホステスに変身させられる(それはま
だいいほうで、私の知人には宴会で水着姿にさせられた女の子もいる)などと

いう現実が待ち受けていたりもする。それなのに多くの女性達は、それらと戦う
すべもなく、ただ黙ってその場を去ることしかできない。

 最近、”コギャル”などと言って女子中・高生の行動が話題になっている。
ブルセラショップでおこずかい稼ぎをする子。テレクラで知り合った男性に洋服
や小物をかってもらう子たち。

 そういう現象に世の大人達は眉をひそめるけれど、そういった知恵? を少女
達に与えたのは世間であり、大人達である。

 彼女達の行動は、褒められたものではないけれど、この自由奔放さ、大胆さ、
したたかさには感心させられる面もなきにしも非ずと言った気がする。

 彼女達なら、こんな時代でもしたたかに強く乗り切っていけるだろう。十代の
少女たちのそうした世渡り術を少し分けてあげたい。

 駅で紺色のスーツをみかけたり、新聞で彼女達の苦戦ぶりが報道されるたび、
そう思う。

 負けるな、ワーキングウーマン予備軍!
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嫉 妬 (26編)

2005年07月22日 08時20分43秒 | 娘のエッセイ
 私は会社で4年間、三歳年下の女の子の嫉妬に悩まされ続けた。彼女の女性
上司は「彼女は劣等感が強くて、意地が悪いから」と慰めてくれたりしたが、と
にかく彼女の行動は私の友人達さえ「異常じゃないの?」と声を曇らせるくらい
常識を超えたものだった。

 しかも、被害者は私だけではなかった。仕事関係の男性○さんは、「彼女が夜
中に、泣きながら家に電話を掛けてくるので困る」とこぼした。もちろん彼には
妻がいて、彼女とは愛人関係でもなんでもなかったのに、である。

また、彼女抜きで会社の人達と飲みに行った時も、○さんは「きっと、今日のこと
も何処からか洩れて、あの子が泣きながら電話を掛けてきそうで嫌だ」と苦笑して
いた。

 嫉妬という複雑な感情は、時として人間の精神を異常にするのだろうか? 彼
女の行動は、完全に理性のストッパーがはずれてしまっているとしか思えない。

しかし、彼女自身は自分のしていることを、異常だと思ってはいなかった気がす
る。それは彼女が、嫉妬の矛先を、次々と多数の人間に向けていったことからも
わかる。

 妬み深い人というのは『自分が幸福になることより、他人が不幸になることのほ
うが重要』なのだそうだ。

たしかに、彼女は自分にとってはマイナスにしかならないような方法で、私に対応
していた。彼女には、私が嫌な思いをすることが何よりも嬉しかったのだろうか?
 『妬みとは偽造された賞賛、感嘆である』
とはキュルゴールの言葉である。

 そういえば、彼女は化粧品のメーカーを私と同じものに変え、私の服を批判しな
がらも同じようなコートを買い、私と同じアクセサリーを使うなど、何でも私の真似
をしていた。

 彼女はいつ、眼を覚ますのだろうか?
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今日という日 (第25編)

2005年07月21日 08時44分53秒 | 娘のエッセイ
 私はその日、知り合ってまだ半年ほどの友人に、お金を貸す約束をしていた。
数日前に会って、その時に今日のことを約束したのだが、その当日になっても

まだ、私は迷っていた。『貸していいものだろうか?』と。なぜって、お金を貸
すときには、「あげた」と思って貸さなければならないものだから。しかも、そ
の額は小さくはなく、私の月給の半分近い額だったから。

 けれど8時40分に待ち合わせ場所に現れた彼は、とてもせわしなくて、ゆっく
り私の気持ちを説明する時間さえ与えてくれなかった。

 理由のひとつは、彼の職場関係の人と彼が待ち合わせをしていたこと。もうひ
とつの理由は、彼のお母さんが入院していて、病院にいく為に、8時54分○○発

の電車に乗りたかったこと。『時間が無いから』と言い続ける彼と、迷い続ける
私。彼の言葉も空回りし、ふたりの会話は平行線のままだった。

 何の形も残さない、ただ信用だけで貸すということ、それは私しにとってあま
りにも不安が多すぎた。それなのに、時計に何度も目を走らす彼に私は、とう
とう、きつい言葉を投げつけてしまった。

 「54分の電車と、私から8万円のお金を借りることと、どっちが大事なの
よ!」間髪いれず、予想外の言葉が戻ってきた。

 「5万や10万でお袋を見捨てられるかよ!」思いもよらない口調に、私は、はっ
として一瞬言葉を失った。

そしてその数十秒後、私は彼に銀行の封筒を渡していた。
そのあと、ふたりで駅に向かって少しだけ一緒に歩き、彼は私の前から走り去っ
て行った。

 彼の後を追わず、私はゆっくりと自分の行くべきホームへ行った。電車に乗って
シートに腰掛けた時、私は初めて冷静になった。『もし、彼が間に合わなかったら
どうしょう』そんなことを考えていたら、目の前が霞んできた。

 だから、仕方なく私は駅につくまでずっと車両内の中吊り広告を擬視し続け
ていた。



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合鍵 (第24編)

2005年07月20日 08時23分24秒 | 娘のエッセイ
 『女は、それを手にした時、男が自分にすべてを許してくれたと思う。けれど、
それは錯覚だ。しかし、その錯覚は甘美なものだ』

 ここでいう『それ』とは、男(恋人もしくは愛人)の部屋の鍵のことである。
ひとり暮らしの男とつきあった場合、ほとんどの女は、その部屋の合鍵を渡される
ことを切に願う。

 合鍵は、その男の部屋にいつでも出入りできる自由を与えてくれると共に、
”自分がその男の一番身近にいる女なのだ”という安心感をもたらしてくれる。

だから女は、男から合鍵を渡されると、とても幸せな気持ちになれるのだ。私も
何度、男達から合鍵をもらったことだろう。その鍵は、私の手の中でキラキラと
黄金色に輝いていた。

その輝きの陰にはさまざまな面倒なことが絡み付いていたというのに、当時、私
はそのことについてまったく気が付かなかった。

 そう、鍵を受け取ったあとに私を待っていたものは、ただの日常の雑事だった。
会社帰りに買い物をし、合鍵で部屋に入る。夕食の準備をし、時間があまると

洗濯物をたたみ、掃除する。そしてふたりで食事して、洗い物。そんな毎日に、
いつしか私はクタクタに疲れ果てていた。

「私は、あなたの家政婦じゃないっ!」

「家政婦扱いなんか、していないだろっ!」

そんな言い争いを何度したことか。結局、ふたりの間に訪れたものは『別れ』
だった。

 ところで、私の友人のひとりは、結婚の必要性を男に意識させるために、部屋
に行っても家事は絶対にしないという。彼女にとって、合鍵はただの「うっとお
しいだけのモノ」なのかもしれない。そんな彼女が「お帰りなさい」のキスの優し
さを知るのは、いつだろうか。

 今日もどこかで、合鍵を渡された女達は、幸せそうに微笑んでいるに違いない。
それがふたりのはかない関係の末に訪れる”思い出の箱”の鍵にすぎないという
ことも知らないままに……。



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古典的育児観 (第23編)

2005年07月19日 09時58分45秒 | 娘のエッセイ
 先日、ある新聞の人生相談をよんでいたら気分が悪くなった。三十代の息子の
疲れがひどいと心配する母親からの相談だったが、そのなかの”息子は、日曜日
 
も育児をさせられているようで……”という一節が妙にひっかかった。育児をさせ
られているなんて! だって彼は子供の父親であるのだから、育児は親としての

権利であり義務であるのではないの? なんだか悲しかった。そんなふうに息子
の育児をとらえている母親のいることが。

 父親が大黒柱と言われ、一目置かれていたのは遥か昔のこと。現代の中年
の父親たちは家庭に居場所がない。妻には「亭主元気で留守がいい」と言われ、
やがて年をとるにつれて『粗大ごみ』とか『濡れ落ち葉』というニックネームで
呼ばれる。

 そして娘からは「お父さんと同じぬり薬はつかいたくな~い」と抗議され、一回
使い切りのぬり薬が製薬会社から発売される。

 これは、今まで男性が家庭ときちんと向き合わなかった(向き合えない時代だっ
たのかもしれないが)、あるいは育児に参加しなかった結果ではないだろうか?

 昨年出産した友人は、夫の帰りを待って、ふたりで赤ちゃんを入浴させたそう
だ。おしめを取り替える父親、子供の食事の世話をする父親、そういう父親像も
今は珍しくなくなっている。

「夫の参加」をそれほどに勤めていても、ダンナの仕事が忙しく、現実は母子家
庭状態なので、彼女はふたりめは産まないつもりという。

 でも夫がもっと育児に時間がとれるならふたりめも考えると言っていた。夫の
育児参加は当たり前と思う妻、時間の許す限り育児に関わる夫。そういう家庭な
らば、娘も父親と同じぬり薬を抵抗なく使うのかもしれない。

 若い夫婦の育児観は変わっていく。それなのに、周りの先輩が古い考えのまま
では新しい家庭の形は生まれない。

 父親の居場所の復活も困難だ。ならば古典を尊ぶのは文学にまかせて、古典
的育児観はそろそろ脱ぎ捨てたほうがいい。

 まあ、家庭以外のほうが居心地がよいというなら話は別だけれども……?
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見栄か美学か?(第22編)

2005年07月18日 08時19分16秒 | 娘のエッセイ
 日曜日午後、サンシャイン60内のレストラン、ひとりで昼食をとっていた女性A
のテーブルに、待ち合わせをしていたらしき女性Bがやって来た。

 女性Bは、オーダーを済ませるとおもむろにハンドバックを開く。中から取り
出したファンデーションのコンパクト。無心にお顔パタパタを始めた。彼女の前に

アイスコーヒーとサラダが置かれる。でもパタパタは止まらない。そればかりか、
今度はアイシャドーを取り出した。フオーク片手に、口をもぐもぐ動かしながら鏡
を見ている。もう、私の目は彼女に釘づけだ。

 ランチがきても、片手にフォーク、片手に化粧道具の態勢は変わらない。
あららっ、とうとう彼女は、ビューラーまで取り出しました! 小さな鏡を見なが
ら一生懸命まつげをカールさせようと試みています。

 そしてお次は…なんとマスカラの登場です。上下のまつげを少しでも伸ばそうと
しているようです。あつ、立ち上がりました。化粧室で最後の仕上げか?

どうやら私の読みは間違っているようです。再び腰をおろした彼女、またコンパク
トを開きます。さて、仕上げは口紅です。今っ、たった今、化粧のフルコースを彼
女は終えました。澄ました顔でレジへ向かったようです……。

 あまりの迫力に私は途中で隣の連れを肘で突っついて、最後はふたりで観察
した。

 昔は、人前で化粧を直すもんじゃないって言われたもんだけどねぇ。優雅な白鳥
だって、水面下を見れば優雅じゃなくなる。どんな澄まし顔の化粧美人だって、
舞台裏まで見せられちゃったら幻滅だ。

 しかし、彼は言った。「あの澄ました女、足がすっげー太かったぞ」。あぁ、あ
んたにとってはそっちの方が問題なのね。

 果たして、人前で化粧を直すなというのは女の美学か、それともただの見栄な
のか…?
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見えない川 (第21編)

2005年07月17日 14時54分28秒 | 娘のエッセイ
 また、あの目だ。私服に着替えた途端、ジロリと上から下まで値踏ぶみする様な
C恵の目つき。いつものことながら決してなじめない。C恵に「疎まれている」と

感じ始めたのは、転職後まもない頃だった。嫉妬の内容も仕事・男性・服装など実
に豊富で、あきれるばかり。だからかえって気にはならなかった。それに、現実に

は疎まれる程よいことばかりではなく『下心付きフランス料理』を断り続けた結果、
一年間仕事をくれなかった男性管理職もいたくらいであった。が、私が知らない間
に、C恵のそれらの感情は大きく膨れあがっていたのである。

 今年の二月、ある事件が起きた。女子更衣室のロッカーにあった私のコートの裏
地、右脇付近の合計四ヵ所がハサミによって無残にも切り取られていた。

 悩んだ末、女性の先輩であるTさんに相談した。Tさんも、すぐにC恵の仕業と思
ったらしい。それほど彼女の私に対する嫌がらせは、最近ひどかったのである。

それ以後、会社にお洒落をしていくのはやめようかと思ったこともある。けれど、
お洒落大好き人間の私にとって、それは実行不可能なことだった。

 そして、あの疎ましげなC恵の目を見るたびに、負けを自覚している彼女を知る。
「あわれだ」ある日、ふとそんな感情が心を横切った。

 先日、社内のある男性に切られたコートの写真を見せた。事情を知った後で
「かわいそうだな」と彼が言った。

「どっちが?」と私が聞くと、

「うーん」と唸ったまま彼は黙ってしまった。

 思うに、人と人との間には必ず川がながれていて、川の大きさや形はその人同士
の関係によって、運河だったり小川だったり、橋があったりなかったりするのでは
ないだろうか?

 今、私とC恵の間には大きな川が流れている。その川は日毎に川幅を広げている
ようだ。目に見えないその大きな川に、C恵の岸へ向かって橋をかける気は、
私にはもうない。



 
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喧嘩するほど仲がいい、でも怒ってはダメ?(第20編)

2005年07月16日 11時43分48秒 | 娘のエッセイ
 私は、気が短い。自分でも、嫌になるほど本当に短い。もっと、気が長い人間に
なりたい!と常々思っていたところ、ミョーな話を耳にしてしまった。気が短い人
と、長い人というのは、その体の機能からして違う? というのだ。

 古い話なので、少し記憶に自信がないが、確か、アドレナリンの分泌量が違うら
しいとのことである。(ちなみにアドレナリンとはホルモンの一種で、血圧や血糖量
を高める作用がある)。そのうえ頭に血が上がりやすい人は、のんびりしている人

に比べて"寿命が短い”という情報まで、ある日私は入手してしまった。(判る気も
するが…)

 でも、”怒る”ということは、本当にマイナスでしかない行為なのだろうか?私は、
よく喧嘩する。女友達とはほとんどしたことがないが、男とはよくする。恋人でも会
社の同僚でも男友達でも。

 特に相手が恋人ともなれば、延々と数時間に渡る口喧嘩に、平手打ちのおまけ
までついてしまったりもする。それを二ヶ月に一回ぐらいの割合でやってしまうの
だから、たまったものではない。

 しかしこの話を女友達にすると、「喧嘩するの?いいなァ」という声が多いのに
驚く。彼女達は、恋人や夫とは喧嘩ができない、いや、喧嘩にならないと言う。

 何故かというと、自分が怒ると相手の男性が黙りこんでしまう”からだそうだ。
友人のT子は、夫と喧嘩して、一週間も口をきかなかったことがあったと、ぼやい
ていた。

そういう話を聞くと、長い冷戦より、熱い争いの後に「ごめんね」の一言で仲直り
できる喧嘩のほうがいいのかな?とも思えてしまう。

 ところが、最近ある女性のエッセイに『怒ってはだめ。怒ったら彼は逃げて行っ
てしまうわ』と書いてあった。

うーん。そうかと反省し、それを今実行している。

 とりあえず、一日一回かかってくるラブコールがその成果だろうか。

でも、この策略を彼は知らない。
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鶏のいた夏 (第19編)

2005年07月15日 12時30分24秒 | 娘のエッセイ
 夏の初めの頃、家の近くにある○○商店街では毎年福引が行われる。
ある年のこと。その福引所で「ひよこ」を無料でくれるという噂が流れた。その噂

を聞いた少女は、その可愛いひよこが欲しくて、福引所へと急いだ。「ひよこ、下
さい」と言うと、男の人は小さなひよこを少女に一羽、渡してくれた。

 ひよこは、少女の手の中で温かかった。レモンイエローのふわふわした羽を少
女の掌に押しつけるようにして、「ピヨピヨ」と頼りなげに鳴いていた。

 近所の男の子もひよこを貰ったのだが、数日後、そのひよこを踏んで殺してしま
ったという話を母親から聞く。

少女は少年の残酷さを知った。

 少女のひよこは、すくすくと元気に育っていった。「雄だろうか、雌だろうか?」
と楽しみにする少女は、なんて世間知らずだったのだろう。

当然のことながら、成長したひよこの頭には、小さな鶏冠がいつの間にか揺れ
ていた。

 そして、朝早い時間に大きな声で鳴くようになった頃、少女は両親から鶏を手
放すように言われた。その当時、少女の家の近くには、鶏を何羽か飼っている

家があったのだ。「あの家なら、きっと飼ってくれるに違いない」。母親の言葉に
少女は頷き、鳥を抱えてその家を訪れた。少女の鶏はこうして貰われていった。
鶏の頭の鶏冠は、もうすっかり大人の鶏のものになっていた。

 少女の鶏が殺され、貰われていった家の食卓に上がったといことを、少女が
母親から聞かされたのは、それから一週間もしないころだった。少女は、大人の

無神経さと残酷さを知った。それと同時に、そんな家に鶏を渡さざるを得なかっ
た自分の無力さも知った。

 早く大人になりたいと思いつつも、綺麗な水晶玉のような心に傷をつけながら、
輝きを失っていく大人にはなりたくないと願っていた少女も、いつしか化粧と
スーツが似合う歳になった。

 いま、かっての少女は、無数の傷がついた水晶玉を「さめた目」でみつめて
いる。



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苦手意識 (第18編)

2005年07月14日 08時33分28秒 | 娘のエッセイ
 「え~っ、自分で直すの?」
これは、私が図面台のスケールをドライバーを使って直そうとした時の男性社員
の台詞である。

 私にとっては、たかがドライバーを使うくらいで何故そんなに驚くのよ! という
感じだったのだが、彼らにとっては、”女の子がドライバーを使う!”という事実が
まるで信じられないことらしいのである。

 常々思うのだが、どうして世の男性方は『女は機械に弱い』と思い込んでいる
のだろう。あるいは『大工仕事は苦手』でもいい。
他にも、女はこれが苦手と、男達に信じられている事柄や物が数多くある。

 まず昆虫類。おかしなことに、子供の頃は平気で様々な昆虫を手掴みしていた
女の子供達も、大人になると皆『昆虫苦手』という顔をしたがる。けれど、そんな
の嘘。だって台所でゴキブリを見た時の表情の変化。

そしてその後の、怖いぐらいまで執拗に続けるゴキブリ叩き。それで『昆虫怖い』
なんて言うんじゃないよ! かくいう私だって、部屋に出没した子グモなら、手で
つかんで外に逃がしてしまう。ほーら、事実がだんだん見えてくる。

 たぶん男性達は、怖い顔をしてゴキブリを叩き続ける女性や、トンカチ片手に大
工仕事をしてしまう勇ましい女性の姿なんて、見たくないに違いない。だからこそ、
無意識のうちに『偏見に満ちた苦手意識』を信じてしまうのではないだろうか?

 でも、それって、どちらにしてもつまらないことなのでは? だってほら、苦手と
思っていた食べ物が食べたら美味しかった、っていう経験は誰にもあるでしょう。
食わず嫌いは、何事によらず損。もちろん男性にとってもしかり。

今まで苦手と思っていた事柄、一度経験したら病み付きになってしまうかも。

 妻が日曜大工をする最中、「お昼できたよぉ」と声を張り上げる夫。そんな光景
だって、けっこうサマになると思うんだけれど。

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