しばらくぶりのUPだ。
月曜日は協同医書にて新著の打ち合わせ。
御茶ノ水から本郷までの下町を歩き、感慨に浸る。
いや~東京はいい。
専門書出版社から専門書ならぬ一般書ともいえず、そのラインで、「脳」について語る、見る、学ぶ。
私は脳の標本を見ると、愛おしさを感じる。
この「脳」はあなたからみて、そうとは感じないだろう。
ヒトが人間である所以だが、その表現についてこれから悩みたい。
帰りの新幹線の中で、私が見ている世界の安定性について考えた。
目の前のこの世界が明日崩れたなら・・・
この現実がたとえば阪神大震災であったり、大事な人がいなくなったり、など「私自身」の目(世界、脳)なんだろう。
毎日、ニュースではいろんな事件が放送されており、それについて腹が立ったり、同情したりと脳は賦活しているが、私の見ている世界にはやはり大きな乱れた揺らぎは起らない。
明日も私の見ている世界、感じる世界は同じであろうという予測が立つからだ。
いろんな不安定性はあろうが、所詮、予測の範疇であり、それは本質的な「不安」とは言わない。
すなわち、揺らぎの周期が安定しているんだ。
揺れているには違いない。
心は常に揺れている。
しかし、その世界が今崩れ落ちることは無い。
診療報酬が変わろうが、そこまでの揺らぎの周期の乱れは起っていないのも実情なんだろう、セラピスト諸君は。
この揺らぎが不安定になれば、自分の見ている世界を他人に押し付けようとするんだろう。感情的になるとはそういうことかもしれない。
セラピスト業界にすむ人たちも、まだまだ、多様性の中から選択できる社会観があるんだろう。
これはこの実習期間中に面談した学生にも感じた。
「甘さ」とは、「多様性」のなかの「選択性」にも感じるが、これは豊かさゆえの社会の現実なんだろう。
社会が多様で膨らんだんだ。
大脳と一緒かも。
逆に本当の哺乳類らしさが失われているのかもしれない。
学生との面談のなかで、仕事に向いているとか、やさしさの定義だとかが出たが、ある仕事に向いているだとかいうのは、自分で決めるものでない。そんな明白な選択で、枠組みで、社会が成り立っているのでない。いつのまにかその仕事についているのも事実である。そういう世の中だ。いろんな選択肢があったが、なんとなくこの道にきているのも事実だ。
また、「やさしさ」なんかも他人が感じるもの。必ずしも言語コミュニケーションに長け、患者と対話しているセラピストが優しいとか限らない。「心の目」とはそんな単純なものでない。
人格も、それは相手が決めるものだと感じた。
前も言ったが、QOLとは選択性、そしてその選択の自由、秩序の中の自由なんだろう。
鼻がかゆいときにかける(運動)。
富士山を車窓から見たいときに見れる。
好きな音楽を聴ける。
好きな職業につくための努力を行う。
いろんな自由だ。
それがひとつも無い。それが人間は怖いんだ。
発展途上国の人たちはどうなんだろう。
軽はずみにハングリー精神というが、その一線をほとんどの人は超えていないのだろう。
靴下を履きたいときにはけない、脱ぎたいときに脱げない、そんな母親は、自らで自らの時間(意識)をとめていたように感じた。
その意識の休止によって、記憶がモザイク化あるいは歪んでおり、その断片化を埋めるように空想が付け加えられていた。これを通常は錯話とかいったりするんだろう。そんな単純なものじゃないんだろう。人間の脳の保障システムかもしれない。
母親の「私自身」がなくなりつつある。
脳って難しい。
そんなことを考えながら、月曜は2回生の試験打ち上げに出て、遅くまでいたりするから、翌日から、全身脱力、喉は激痛、全身は鞭打ちのように硬直、痛みなどから、ほとんどの仕事を止め、ただ、大学に出て学生の実習のことや、事務的処理、そして実習地訪問のアポなどの仕事(これが通常の教官の仕事)のみにとどめ、研究はぴたっと止めていた。
タイプするのも上半身がきつく、やっと向き合ったしだいである。
昨日あたりから徐々に復活した。
今週末(今日からだが)の久しぶりの休みで、気が抜けたんだろう。
これが本当の身体なんだろう。
気でなんとか乗り切っていた。
週末が週末らしいってすばらしい。
自分がこけてしまえば、研修会・講習会・講義がすべてストップするのは心身ともに、やはりつかれるんだな。
芸能人・スポーツ選手は、これに加えて競争ストレスともたたかってるんだろう。
少なからず大学にもあるが。
昨日復活したのはわけがある。
おとといの夜中から、ヤードバーズのビデオを見たのだ。
久しぶりに。
Keith Relf のハーモニカはいい。ボーカルは・・・だが、やっぱり、ハーモニカはいい。
Clapton 時代よりも、Jeff Beck 時代がやはりいいな。
Train Kept A Rollin'はもちろん最高。
そのあと、すかさずaeroバージョンもCDで聴いてしまい、ベースを弾いた。
Jimmy Page とのツインギターでHappenings 10 Years Time Agoをやっているビデオを見ると、ZeppelinはやっぱりThe Yardbirdsなんだなとつくづく思う。
そのあと、Creamのベスト、そしてZeppelinのⅠ、Ⅱ、Ⅲ、Ⅳをすべて聴いた。
徹夜・・・
今日はJohnny Winterのサム・ピッキングのJamping Jack Flashを見て、janisのSumer time、ZeppelinのComunication breakdownを観て、思わず、aeroのライブアルバム、そして、なぜかBlack Sabbathをかけたが、何曲か聴いてやめた。
そのあと、Boléroを聴き、Rhapsody in Blueのオーケストラを聴き、今は、Simon and Garfunkelを聴き終わり、イパネマの娘を聴きながらブログを書いた。
その前に遅れていた非常勤の試験の作成、そして、もうひとつの非常勤の試験の採点を行い、終わったところ。やっと向き合った。
今はキャロルキングのYou've Got a Friendを聴きながら、ルネ・マグリットの人間の条件(http://cgfa.sunsite.dk/magritte/p-magritte8.htm)を眺めている。そろそろ就寝モードか・・・最後にGilbert O'sullivanでも聴いておこう。
なんか曲が乱れているが、乱読も大好き、乱聴きも大好きということで。
僕の中の脳では乱れてはいない。
私の脳とあなたの脳の違いだ。
no music、no life、あるショップはそう書いているが、やっと今年度これだけ音楽が聴けて自分の生活を取り戻せたような気がした。
しばらく難しい~文章は書かない、1週間は。
3月末に2本の原稿(ひとつは原稿用紙50枚だぜ~~)を仕上げないと。
本はその合間にしよう。4月にはなんとかしたい。
休みまっせ~ やりまっせ~
Koji ! お帰りなさい。
少し話したいことがある。my motherの件で。
月曜日は協同医書にて新著の打ち合わせ。
御茶ノ水から本郷までの下町を歩き、感慨に浸る。
いや~東京はいい。
専門書出版社から専門書ならぬ一般書ともいえず、そのラインで、「脳」について語る、見る、学ぶ。
私は脳の標本を見ると、愛おしさを感じる。
この「脳」はあなたからみて、そうとは感じないだろう。
ヒトが人間である所以だが、その表現についてこれから悩みたい。
帰りの新幹線の中で、私が見ている世界の安定性について考えた。
目の前のこの世界が明日崩れたなら・・・
この現実がたとえば阪神大震災であったり、大事な人がいなくなったり、など「私自身」の目(世界、脳)なんだろう。
毎日、ニュースではいろんな事件が放送されており、それについて腹が立ったり、同情したりと脳は賦活しているが、私の見ている世界にはやはり大きな乱れた揺らぎは起らない。
明日も私の見ている世界、感じる世界は同じであろうという予測が立つからだ。
いろんな不安定性はあろうが、所詮、予測の範疇であり、それは本質的な「不安」とは言わない。
すなわち、揺らぎの周期が安定しているんだ。
揺れているには違いない。
心は常に揺れている。
しかし、その世界が今崩れ落ちることは無い。
診療報酬が変わろうが、そこまでの揺らぎの周期の乱れは起っていないのも実情なんだろう、セラピスト諸君は。
この揺らぎが不安定になれば、自分の見ている世界を他人に押し付けようとするんだろう。感情的になるとはそういうことかもしれない。
セラピスト業界にすむ人たちも、まだまだ、多様性の中から選択できる社会観があるんだろう。
これはこの実習期間中に面談した学生にも感じた。
「甘さ」とは、「多様性」のなかの「選択性」にも感じるが、これは豊かさゆえの社会の現実なんだろう。
社会が多様で膨らんだんだ。
大脳と一緒かも。
逆に本当の哺乳類らしさが失われているのかもしれない。
学生との面談のなかで、仕事に向いているとか、やさしさの定義だとかが出たが、ある仕事に向いているだとかいうのは、自分で決めるものでない。そんな明白な選択で、枠組みで、社会が成り立っているのでない。いつのまにかその仕事についているのも事実である。そういう世の中だ。いろんな選択肢があったが、なんとなくこの道にきているのも事実だ。
また、「やさしさ」なんかも他人が感じるもの。必ずしも言語コミュニケーションに長け、患者と対話しているセラピストが優しいとか限らない。「心の目」とはそんな単純なものでない。
人格も、それは相手が決めるものだと感じた。
前も言ったが、QOLとは選択性、そしてその選択の自由、秩序の中の自由なんだろう。
鼻がかゆいときにかける(運動)。
富士山を車窓から見たいときに見れる。
好きな音楽を聴ける。
好きな職業につくための努力を行う。
いろんな自由だ。
それがひとつも無い。それが人間は怖いんだ。
発展途上国の人たちはどうなんだろう。
軽はずみにハングリー精神というが、その一線をほとんどの人は超えていないのだろう。
靴下を履きたいときにはけない、脱ぎたいときに脱げない、そんな母親は、自らで自らの時間(意識)をとめていたように感じた。
その意識の休止によって、記憶がモザイク化あるいは歪んでおり、その断片化を埋めるように空想が付け加えられていた。これを通常は錯話とかいったりするんだろう。そんな単純なものじゃないんだろう。人間の脳の保障システムかもしれない。
母親の「私自身」がなくなりつつある。
脳って難しい。
そんなことを考えながら、月曜は2回生の試験打ち上げに出て、遅くまでいたりするから、翌日から、全身脱力、喉は激痛、全身は鞭打ちのように硬直、痛みなどから、ほとんどの仕事を止め、ただ、大学に出て学生の実習のことや、事務的処理、そして実習地訪問のアポなどの仕事(これが通常の教官の仕事)のみにとどめ、研究はぴたっと止めていた。
タイプするのも上半身がきつく、やっと向き合ったしだいである。
昨日あたりから徐々に復活した。
今週末(今日からだが)の久しぶりの休みで、気が抜けたんだろう。
これが本当の身体なんだろう。
気でなんとか乗り切っていた。
週末が週末らしいってすばらしい。
自分がこけてしまえば、研修会・講習会・講義がすべてストップするのは心身ともに、やはりつかれるんだな。
芸能人・スポーツ選手は、これに加えて競争ストレスともたたかってるんだろう。
少なからず大学にもあるが。
昨日復活したのはわけがある。
おとといの夜中から、ヤードバーズのビデオを見たのだ。
久しぶりに。
Keith Relf のハーモニカはいい。ボーカルは・・・だが、やっぱり、ハーモニカはいい。
Clapton 時代よりも、Jeff Beck 時代がやはりいいな。
Train Kept A Rollin'はもちろん最高。
そのあと、すかさずaeroバージョンもCDで聴いてしまい、ベースを弾いた。
Jimmy Page とのツインギターでHappenings 10 Years Time Agoをやっているビデオを見ると、ZeppelinはやっぱりThe Yardbirdsなんだなとつくづく思う。
そのあと、Creamのベスト、そしてZeppelinのⅠ、Ⅱ、Ⅲ、Ⅳをすべて聴いた。
徹夜・・・
今日はJohnny Winterのサム・ピッキングのJamping Jack Flashを見て、janisのSumer time、ZeppelinのComunication breakdownを観て、思わず、aeroのライブアルバム、そして、なぜかBlack Sabbathをかけたが、何曲か聴いてやめた。
そのあと、Boléroを聴き、Rhapsody in Blueのオーケストラを聴き、今は、Simon and Garfunkelを聴き終わり、イパネマの娘を聴きながらブログを書いた。
その前に遅れていた非常勤の試験の作成、そして、もうひとつの非常勤の試験の採点を行い、終わったところ。やっと向き合った。
今はキャロルキングのYou've Got a Friendを聴きながら、ルネ・マグリットの人間の条件(http://cgfa.sunsite.dk/magritte/p-magritte8.htm)を眺めている。そろそろ就寝モードか・・・最後にGilbert O'sullivanでも聴いておこう。
なんか曲が乱れているが、乱読も大好き、乱聴きも大好きということで。
僕の中の脳では乱れてはいない。
私の脳とあなたの脳の違いだ。
no music、no life、あるショップはそう書いているが、やっと今年度これだけ音楽が聴けて自分の生活を取り戻せたような気がした。
しばらく難しい~文章は書かない、1週間は。
3月末に2本の原稿(ひとつは原稿用紙50枚だぜ~~)を仕上げないと。
本はその合間にしよう。4月にはなんとかしたい。
休みまっせ~ やりまっせ~
Koji ! お帰りなさい。
少し話したいことがある。my motherの件で。