森岡 周のブログ

脳の講座や講演スケジュールなど・・・

待ちわびる脳

2009年03月01日 01時34分05秒 | 過去ログ
実に充実していた2日間が終わった。
この2日間は私にとって、
いや、今後の私の人生にとってかけがえのない日になることであろう。

金曜日、近鉄の脱線事故でスケジュールがくるうが、
それも経験。
とくに取り乱すことなく、東京に向かった。
東京は小雪舞う雲模様。
寒さが苦手な私にとって、
この寒さはこたえる。
アイスランドで1週間いたときの吹雪の冷たさ・寒さとは、
日本の寒さは違う。
湿度が暑さも寒さもこたえさせる。

御茶ノ水に向かい、文京区の古きよき情緒あふれる小道を通り、
協同医書出版社へ。
中村編集長と「脳を学ぶ(2)」の今後のスケジュールを確認しつつ、
対談準備を自然体で行う。
自然のなかから、自然に生まれる言葉遊びを対談では楽しみたいと思う。
人間が持つ機能である「表裏」というものを棚上げし、
そのまま、というものが引き出され、引き出すことができれば、
また新たな自分に出会うのかもしれない。
3月から始まる半年間は「ワクワク」だ。
「待つ脳」という意味を考えた。
また龍馬語録から、現状を確認した。

その他、2つほどのアイデアを確認し、
この2年間ほどで、進めて生きたいと思う。
創作するということは、
夏休みの工作に近いものがあり、
どうでもよいものには、なんら興味は惹かれないが、
どうでもよいものでないものには、熱中する。

小雨フル御茶ノ水を出て、
新宿まで。
高島屋で首都大の池田先生と合流し、
メールをいただいていた40歳代の患者さんのご夫人とお話させてもらう。
体をただ動かすだけのリハの???意味性をよくご存知だ。
脳がやられているのなら、脳に働きかけないといけない。
という視点も自らのスポーツの体験からメタファーを用いて語ってくれる。
とても頭の良い方と率直に思った。
そんじょそこらの(教養のない)セラピストは太刀打ちできないであろう。

医療のもどかしさの現状を知りつつ、
それに対抗しても何もはじまらない。
だったら、何が援助できるかを考え、
いくつかの今後の進め方について対話した。
脳幹のダメージで意識混濁であるが、
自らの興味に関連することは合図を示す。
大脳皮質の記憶は人格そのもの。
それはちょっとやそっとなダメージでは消し去ることができない。
意識障害があるからといって、
感覚が情報処理できないわけではない。
「知覚は終わらない」
「終わらすわけにはいかない」

ご夫人が送られた勇気あるメール、
そしてその行動に、私はどれだけ期待にこたえることができるかはわからないが、
その思い・行動・情動(その辺のセラピストよりもずっと身体と脳の関係性に教養面から詳しいと思う)に私は感動し、
この頼りない心(知・情・意)でよければ、
グリア細胞となって、お二人のニューロン同士の結合のともし火を消さないよう、
栄養を供給したいと決意した。

現状の医療体制の枠組みで考えるからよくないのだ。
人と人とのつながりというものは、
その小さな枠組みだけでとらえるべきではない。
自分の心(知・情・意)によって、
少ないながらも他者を援助することができれば、
この上ない幸せである。

小さな、ほんの些細な変化を楽しんでもらいたい。


池田先生と今後のことを確認しあい、
また、他の研究のことなどを話し合い、
19時に別れ、少し時間が空いたので、
角川学芸出版の小島さんと会い、
ある企画のことについて話し合う。
そこでは「脳とリハビリテーション」から「脳のリハビリテーション」への視点について話し合い、
「文脈を待つ脳」の意味、そしてその人間らしさについて意見交換した。
音楽や生い立ちのたわいもない話をしながらも、
右派、左派問題の視点から、今のリハの体制・思想についていくつか意見をいただいた。

典型的な理学療法だの、EBMだの、CIだの、ボバースだの、PNFだの、認知運動療法だの、
お互いを知ろうとせずに、
知ったかぶりのみで、自分たちの防御の意味で攻撃し、
自分たちの正当性を示すやり方にはもう僕はこりごりだ。
そして、同士間での傷のなめあい的展開にもいやけがさす。
「あいつは駄目だ、だから俺と付き合え」といっているメタファーでなく、
そのよさを気づかせるよう、
他人を批判せず、その壮大かつ奥行きを示すのみでよい。

先日の「闘うリハビリ」について、
もちろん僕自身にも「腹立たしさ」は情動面から感じたが、
そういった(例えば脳科学)知識に関して教育を受けていなかれば、
単純な思考に基づく介入をやってしまうであろう。
それを批判しても何も始まらない。
知らない人にはその魅力を他人を批判せずに教えてあげる。
これにつきると思う。

ただし、この世の中には、「知ろうとしない」人もいるのも事実である。
その人たちに邪魔されることがあれば、
真っ向勝負となるが、
そのまま体当たりしても両者ともに傷つくだけ。
壮大な知識、そして、技術で結果を残すよう、
手をつけることができないぐらい、
結果を残し、業績、実績を積むしかない。
それがないながらも、真っ向勝負しても、
経験という名だけで、駆逐されてしまう。

知恵というものがいる。


夜がふけ、「ホムンクルス」というキーワードの宿題をもらい、
今度は焼酎バーでと約束して、
ホテルに帰った。

翌朝、新幹線に乗り、
一路、姫路へ。
メールをいただいいていた、20歳代の頸損(C4レベル)の方のお家に向かうために。
姫路駅には一緒に脊損の運動イメージについて研究している佐藤君と、
私が24歳のときの私の教え子である楢崎君が改札で待ってくれていた。

途中、現状を確認しあい、
お家につき、お話させていただいた。
また、身体と神経系について評価させていただき、
可能性を探った。
とてもクレバーな方であり、
「廃用性症候群」一辺倒のリハへの不信感は相当に強い。
だからこそ、自分の身体を感じることの意味を追求しようとしている。
C4完全損傷といわれながらも、完全でない自分の身体に意味を見出そうとしている。
痙性についての記述も詳しい。
だからこそ、運動イメージや予測を使うと自らの筋緊張が緩和される体験を語ってくれ、
その現象を見せてくれた。
上肢の身体知覚もあるし、下肢の身体知覚も記述する感覚モダリティに問題は残しつつも、
どのように動かされているかを目でみなくても、判断できる。
前頭葉の注意トップダウン機能がいかに身体や運動の知覚に彩を与えてくれるのかを間のあたりに知ることができた。

「知覚は終わらない」
Gibison J、佐々木正人氏の言葉である。

ただ、廃用性の予防だけでは、気づかなかった身体。
それを気づくことができる、そして、その変化を感じることができる。
そして、変化が起こるかもしれないという期待を待つことができる脳。
脳は前向きモデル。

【待つことができる脳】

自分のなかで巻き起こる連続なる知覚の変化によって、
私の生きる世界を感じることができる。

イチローもいうように、まずは「感じること」
感じられない世界は想像できない。
生きているということは内と外の知覚の連続である。

ところ変われば、ひとが変われば思考も変わる。
まだまだ人間関係捨てたモンじゃない。
社会への閉塞感はつのるが、
どこかでつながっていられるこの関係性は、
とっても希望を与える。
それは私が一方向に与える関係でなく、
こうした皆さんから色んな希望をもらえる。
私に人間らしさを与えてくれる。
自分が何のために、だれのために「理学療法士」になろうとしたかを、
気づきを与えてくれる。

ロマンティック・リハビリテーションを具現化していきたい。
口先だけ、こて先だけ、はこもの(ハード)だけを与えて、
社会・地域貢献しようとしている人たちばかりみてきた。
それは、自分(たち)を主張するだけで、
ロマンティック・リハビリテーションとはいわない。
こころを鍛えること。
これが人間としての生涯のテーマである。

彼からこんなうれしいメールをもらった。
「考え方、見方で差がかわるんだと認識できました。」

「絶望感に追い詰められていたけど、まさか会えるとはびっくりでした。」

「プラス思考で取り組んでいきたいです。僕でも読めるような資料あったら、少しでも理解をもっと深めたいのですが!?教えてもらえないでしょうか。」

「今日のことは先生のブログを通して知ってもらいたいのでぜひ書いてください。」

先日、坂本龍馬の言葉をことばを挙げた。
やはり、今の医療者、そして患者や患者の皆様に対して次の言葉を再度挙げたい。

「『・・・しかない』というものは世の中にはない。人よりも一尺高いところから物事を見れば、道は常に幾通りもある。」

「俺は昨日の俺ならず」

「世に絶望ということはない」

そうは思いつつも、ある枠組みに落とし込んで視野を狭くしているセラピストが多い。



自分も変化を楽しみたいし、関係する(した)人みんなにも楽しんでもらいたい。


それでも私はこの世に存在している。
存在していること自体、奇跡である。


一通のメールが、人と人とをつなげてくれる。
それは、その思いがあるからだと思う。


1日メールが100件ほどあり、
セラピストたちからもメールが1日数十件送られてくるが、
その精神の質とは大いに違う。



あとは、実習で苦労している学生諸君に色んな受け売りメッセージを送りたい。

「自信ないとかあるとか、言ってられない」、そういう経験をしているうちに、自分が変わったんです。自信がある、とか、自信ない、とか、ほんとに、どうでもいいことなんですよね。 糸井重里

最悪なのは、挑戦もせず最初からあきらめて逃げてしまうことです。失敗を恐れず「本気」で立ち向かえば、少なくとも自分自身は納得できるでしょう。 安藤忠雄

他人を信じない者は、自分自身が信頼されていないことを知っている。 パレット



いよいよ、4年生は国家試験。

あとは運命に従うのみ。
ジタバタせず、目の前の問題を淡々とやることだ。
国家試験の出来事なんか、その後の人生の出来事に比べて、
ほんのひとかけらな、ささいなプロセスである。
そんなに「ビビル」ことはない(までのことはない)。

緊張があって、それがほぐれるとき、幸せを感じる。
人生なんてその繰り返しである。