たからのうみの、たからもの
体調という言葉はあるけど、
心調がすぐれないままに東京に向かった。
東京はまさに嵐のさまで、
私の心をかき乱したが、
新幹線の中で聴いたRockに癒された。
「新しい何かが俺のなかで生まれる」と・・・
土曜日は写真家 古谷千佳子さん との対話。
対談前の顔合わせ的&フィーリング確認のようなジャブ的雑談。
古谷さんの口から発せられる「夢」や「目標」という言葉、
それは、とっても前を向いている。
色んなところで自問されていると思うが、
その表情からはそれをエネルギーに変えている。
「夢」や「希望」そして「目標」という単語は
難しい言葉であり、概して、表面だけで発せられるが
古谷さんはそれを自らのからだで実践している。
そして、皮膚感覚で感じる毎日をいき、
そこから生まれる現象から「希望」を見出している。
内に向かわず、外に向かう、その行動力に
気持ちよさを感じる。
色んなことを小難しく語る評論家的人物はテレビでよく見るが、
そうでなく、自分の体で動いて感じた言葉を紡ぎだしている。
同年代を生きていることから、
ジェネレーション的話題になると方向性がそれるそれる。
それが心地よさを感じる。
自分を知り続けるという言葉は
古谷さんの言葉を借りると「細部を知ろうとしつづける」という言葉になる。
脳を学ぶ(1)では、
対象者の脳を知るために学ぶという視点で創作した。
つまり、リハビリテーションのための脳・神経科学入門などでは、
文献の羅列でいわゆる実学に直結するような情報を提供したが、
脳を学ぶ(1)ではその根本の脳は何のために存在するのかということを平易にかいたつもりである。
しかしながら、それはあくまでも対象者(患者)の脳や、
観ている人の脳を想定している。
すなわち、他者を観察する視点でしか描けていない。
脳科学が発展すればするほど、
脳の何が何の機能をしているかはわかるが、
それがわかればわかるほど、「私(私の脳)」とは何かが不明になる。
脳科学の進歩は逆に私とは何者なのかという答えを難しくしている。
すなわち、どこどことどこどこが働いていても
それを結んでも私にはなりえないことが明らかになってしまった。
時間と空間が変われば違う現象が起こる。
つまり、脳科学がいくら発展しても
現在のような導入の仕方であれば、
応用科学である教育やリハビリテーションの現場はまったく変わらないのである。
だとすれば、脳を学ぶ、脳を知るという手続きは、
私自身を知ろうとするプロセスをふまないといけないのではないか。
すぐれた科学者はいつもそれを自問しているのだと思う。
つまり、相手の脳を知ろうとする手続きという面だけでなく、
自分の脳を知ろうとする手続きを提供してあげないといけないのではないかと思ったのである。
脳を学ぶ(2)~古谷千佳子さんとの対話~では、
30枚の写真を観ながらお互いに対話を楽しみながら原稿に変えていく作業を行う。
つまり、1枚の写真からもいかようにも言葉を紡ぎだす人間は想像力を持っているということを紹介したい。
「そうとも見える」「そうとも読み取れる」「そうかも?」など、
人間があるモノをみたときの私自身の視点を提供することで、
読者にもその視点を喚起することで、
私の脳に気づいてもらいたい。
従来の医学書の戦略であれば、
想像力をそぎ落としてしまう。
それが医学だといわれればもともこうもないが、
私は「人間」と「人間」を研究している者であるため、
そんな小さな意見には動揺しない。
想像力は創造力の源。
美しい写真を見て、ただ美しいと感じるのでなく(だけでなく)、
そこの細部まで見て取れる(これは決して空間だけを言っているのでなく、時間、そして自らの経験、記憶なども含んでいる)ことが人間らしさ、そして私らしさを作っている。
そのことに気づいてもらいたい。
患者さんは何を感じているのだろう、子どもは何を感じているのだろう?
だけでなく、
それを観ている私は何を思っているのだろう、
私の感情は?など、私(自身)に興味を持ってもらいたい。
私を知る旅は、他者を知る旅になる。
一見、何を考えて写真家と?と思うかもしれないが、
他の領域の人たちから学ぶことは多い。
他者から私自身の愚かさを知ることも可能である。
こんなことをかいている私自身も大変脆弱な心をときにもつことがある。
今まさに自分の心の弱さを体感している。
このように生きていることも偶然なのかもしれない。
脳を学ぶ(1)も売れているが何人の方が付録を作成してくれたであろうか。
付録を作成するプロセスにおいて、私を知る。
そして、紙の弱さから心の儚さ、そして、作成した脳の軽さから脳の脆さを感じてもらいたい。
目の前の患者さん、そしてその周辺家族の脳(こころ)の儚さを推し量ってもらいたい。
一方、たくましく生きようとする脳の強さを感じてもらいたい。
大西さんの「ロマンティックリハビリテーション」の意味性も同時に感じてもらいたい。
そこに登場している人々は、未来のあなた、明日のあなた、愛すべき人の明日かもしれない。
セラピストは目の前の患者さんを常に自分自身に置き換える想像力を磨いてもらいたい。
そして、患者の家族をも自分に置き換える能力を。
イマジネーションはそういうときにも大いに役立つ。
リハビリテーションとはメディアなどであたかも美しいと表現されるが、
その現状は本当に美しいといえるのか?
「共同注意」の関係性は、いつも家族と患者ではないか?
自分の臨床・理念を正当化しすぎる嫌いが今の療法士にはあるのではないか?
ひょっとすると明日の私が目の前の患者さんかもしれない。
その覚悟を持つことが未来を切り開く精神エネルギーになるだろう。
本来はそのような教育を大学や養成学校でしないといけないが、
人体を切り刻んだ知識のみで終わってしまう。
これでは人間を観る知恵はわかない。
知恵は現場で得るものしかなければ、
4年間も教育はいるのか?と疑問が沸き立つ。
臨床実習指導者の方々にはその心を学生たちに教えてほしい。
さて、重くなるので・・・
古谷千佳子さんのブログに風景が掲載されています(私の顔はぼやかしてもらっている、ありがたい)。
彼女は海人写真家としてメディア「情熱大陸」にも取り上げられています。
今は、人とは?人と人との関係は?という視点で陸の撮影もしています。
しかし、それは別離なのものでなく、すべて自然という視点でつながっています。
人も地球上の生物であるし、その行為自体が自然なのだから。
オープン対談としては、京都の安楽寺で
「祈りのかたち。」をテーマに対談を行います。
2009年4月18日の午後2時から4時まで[入場料500円]を予定しています。
追って、このブログでも紹介します。
遊び感覚でどうか!来てください。
医学モデルでない脳とは何かを探索する機会になるかもしれませんし、
まず、そのお堅い脳(たとえばセラピスト脳や教師脳や学者脳、はたまた母親・父親脳など・・・・)をやわらかくするのにもいいかもしれません。
普段、芸術や自然に戯れているひとはやわらかい脳を持っているかもしれませんが、
そうでない人はぜひとも来館していただき、
そして哲学の道をゆっくりと大地を踏みしめながら、
そして息吹を感じならが歩いてください。
なお、5月か6月にも畿央大学にて「冬木学園プロジェクト」でも行う予定です。
自然の中で暮らしている人たちの暮らしの中には、先祖供養、家族親戚の健康祈願、大漁・豊穣祈願、自然崇拝といったいろいろな行事の形式をとった「祈り」や「願い」の営みが連綿と織り込まれてきました。自分を超えた大きな存在を信じる気持ちを心の中にもった人たち。祈ることは自然と繋がることであると同時に、祈る人たちどうしが人間として繋がることでもあるのです。
私は…私たちは、そんなふうに祈ることができるのかな?
人の心のなかに自然と現れる「祈り」とは?
心のなかの自然とは?
まあ、基本的には写真を観ての「おしゃべり(強調)」です。
男と女の脳の話になるかもしれませんし・・・
明日は「脳ドック」に入ってきます。