昨日(月)は今年度最後の講演を行う。
今年度も週末を駆け巡った。
こうした外部受託講演は自らの学術(のみ)活動の一環としては
決して意味深いものではないが、
人とふれあい、話し合うことで、
自らに叱咤激励することができる。
すなわち、自らの感情を揺さぶることができる。
昨日は200名以上の学生たちが神戸大学に集結し、
「脳のリハビリテーション」について知った。
最後の質疑応答の1時間半に意味があるのだが、
その前に講演は終了したものとして帰った学生が残念だ。
アフターに意味を持つことが世の中には概して多い。
双方向性になることは、
実は自分の感情に出会うきっかけになる。
世間に流れている「認知運動療法」
それが人の脳を介して伝達されると、
本来の意味を失っていることをよく感じる。
人の受け売りで導入し、
自らを護身する人が増えると、
ゆがんだ情報になる。
それも脳と行為の仕業である。
意識の志向性についても意識を言語により
なんでも顕在化すれば良いのだという風潮もある。
これも本来の原著を知らないのに
誤った解釈のもとなんでも記述するということになる。
一方、それを逆説的にとらえる人も
自らがそのような認知問題にも解答できないのに、
どうして患者に導入するのだという視点もある。
これもバイアスである。
それはもはや大人の脳と身体を持っているからだ。
子どもの脳と身体はそのようにはまとめない。
いずれにしても、よきわるきも「カスケード」現象である。
「ハブ」となる人の解釈が断定型であればネガティブカスケードを起こすし、
「ハブ」となる人の解釈が仮説証明型であればポジティブカスケードになる。
昨日は途中、神経科学の実験を紹介したために難しさが出たが、
軌道修正し、あとはメッセージを伝えた。
本来ならば、その難しさについてきてもらいたいが、
まだ近接していなく、自分で勉強して欲しい。
先日、学生の症例レポートを見て、
19年前の実習中の自分のかいたレポートと変わらないことを話した。
「変わらない」ということはいいことなのか?
良くないことなのか?
自分の胸に手をあてて考えて欲しい。
現象(病態)の観察手法が変わらない(一方向)であると、
治療は変わらない。
小脳に病態があっても、大脳に病態があっても、
結局出てくる障害像は「支持性低下」であったり「バランス能力低下」であったりする。
この「細分化」ない観察手法で果たしてリハビリテーションは科学といえるのか?
「知」とはあらゆる角度・視点からも考察できる頭脳から生まれる。
何かを知る、あるいは知るという手続きは「細分化」作業である。
これは要素還元的意味でない「細分化」だ。
「ウルトラマン」についてあらゆる角度から語れるということと、
「椅子」について語れるということ、
そして、「立位」や「運動」制御についてあらゆる角度から語れるということ、
それは同じである。
患者さんに興味を持つということはもちろん大事だが、
私たちの「動き(人間だけでなく生物全体を含めて)」に興味を持ち、
単なる関節運動学だけの知識でなく、
いろんな視点からその「運動」を細分化して語れる頭脳を自らに課して養成してもらいたい。
学生はおおむね楽しそうだったのでよかったと思う。
感じるから楽しいのである。
驚くから楽しいのである。
そういう豊かな感情は自分の身体(反応)を通じて生まれる。
また感想をお聞かせください。
レセプションでは、畿央大学の学生だけでなく、
兵庫医療大学、京都大学、神戸大学、佛教大学の学生たちと談笑した。
色んな「大学に来て、教えてください!」
というありがたい言葉をちょうだした。
「理学療法学科」っていうものは必修ばかりで自由度がない。
講座を開放性にすれば、もっと学生がクリエイティブになるかもしれないのに。
ある狭い範囲の「知識」は、広い範囲の「創造」を奪ってしまう。
う~ん、難しいものだ。
もぐりで授業を受けるっていうのが古きよき時代の大学であった。
それぞれの大学に看板の人たちがいるので、なんとか実現できないものか・・・
例えば、循環なら兵庫医療大っていうように。
以前にそんな話をした記憶がある。
帰りは、うちの大学の学生と熱い話をして、
これからを託すメッセージを言って、少しのみ、帰った。
今日は会議&会議&会議な一日であった。
対談準備が滞っていること、執筆がまるっきり進んでいないことが気になる。
しかし、本格的に実験して原著論文を書き、
それなりの国際誌に新年度も投稿するという自分自身に約束をした。
今年は講演、総説はもちろんのこと、
著書として表現したい仕事が5つほどある。
さらに、原著も2本はと思っている。
大学院生の指導ももちろんするが、
あえて「自力」とでもメッセージを送っておこう。
メールでよく質問が来るが、
自分に甘いとでも言葉を送っておこう。
質問すればするほど、「自力」が失われるのも事実だ。
相手に実力をさらけ出すことも必要だが、
時に、それをふせ、自分で解決することも大事だ。
それが自信につながる。
学位とはそういうものである。
やさしいのが「仇」になることもあるといつも僕は痛感している。
が、それが私らしさでもあるので、なかなか変えられない。
まだ教育がわかっていないから、「変えられない」のだろう。
わかったときが変わったときなのかもしれない。
今年度も週末を駆け巡った。
こうした外部受託講演は自らの学術(のみ)活動の一環としては
決して意味深いものではないが、
人とふれあい、話し合うことで、
自らに叱咤激励することができる。
すなわち、自らの感情を揺さぶることができる。
昨日は200名以上の学生たちが神戸大学に集結し、
「脳のリハビリテーション」について知った。
最後の質疑応答の1時間半に意味があるのだが、
その前に講演は終了したものとして帰った学生が残念だ。
アフターに意味を持つことが世の中には概して多い。
双方向性になることは、
実は自分の感情に出会うきっかけになる。
世間に流れている「認知運動療法」
それが人の脳を介して伝達されると、
本来の意味を失っていることをよく感じる。
人の受け売りで導入し、
自らを護身する人が増えると、
ゆがんだ情報になる。
それも脳と行為の仕業である。
意識の志向性についても意識を言語により
なんでも顕在化すれば良いのだという風潮もある。
これも本来の原著を知らないのに
誤った解釈のもとなんでも記述するということになる。
一方、それを逆説的にとらえる人も
自らがそのような認知問題にも解答できないのに、
どうして患者に導入するのだという視点もある。
これもバイアスである。
それはもはや大人の脳と身体を持っているからだ。
子どもの脳と身体はそのようにはまとめない。
いずれにしても、よきわるきも「カスケード」現象である。
「ハブ」となる人の解釈が断定型であればネガティブカスケードを起こすし、
「ハブ」となる人の解釈が仮説証明型であればポジティブカスケードになる。
昨日は途中、神経科学の実験を紹介したために難しさが出たが、
軌道修正し、あとはメッセージを伝えた。
本来ならば、その難しさについてきてもらいたいが、
まだ近接していなく、自分で勉強して欲しい。
先日、学生の症例レポートを見て、
19年前の実習中の自分のかいたレポートと変わらないことを話した。
「変わらない」ということはいいことなのか?
良くないことなのか?
自分の胸に手をあてて考えて欲しい。
現象(病態)の観察手法が変わらない(一方向)であると、
治療は変わらない。
小脳に病態があっても、大脳に病態があっても、
結局出てくる障害像は「支持性低下」であったり「バランス能力低下」であったりする。
この「細分化」ない観察手法で果たしてリハビリテーションは科学といえるのか?
「知」とはあらゆる角度・視点からも考察できる頭脳から生まれる。
何かを知る、あるいは知るという手続きは「細分化」作業である。
これは要素還元的意味でない「細分化」だ。
「ウルトラマン」についてあらゆる角度から語れるということと、
「椅子」について語れるということ、
そして、「立位」や「運動」制御についてあらゆる角度から語れるということ、
それは同じである。
患者さんに興味を持つということはもちろん大事だが、
私たちの「動き(人間だけでなく生物全体を含めて)」に興味を持ち、
単なる関節運動学だけの知識でなく、
いろんな視点からその「運動」を細分化して語れる頭脳を自らに課して養成してもらいたい。
学生はおおむね楽しそうだったのでよかったと思う。
感じるから楽しいのである。
驚くから楽しいのである。
そういう豊かな感情は自分の身体(反応)を通じて生まれる。
また感想をお聞かせください。
レセプションでは、畿央大学の学生だけでなく、
兵庫医療大学、京都大学、神戸大学、佛教大学の学生たちと談笑した。
色んな「大学に来て、教えてください!」
というありがたい言葉をちょうだした。
「理学療法学科」っていうものは必修ばかりで自由度がない。
講座を開放性にすれば、もっと学生がクリエイティブになるかもしれないのに。
ある狭い範囲の「知識」は、広い範囲の「創造」を奪ってしまう。
う~ん、難しいものだ。
もぐりで授業を受けるっていうのが古きよき時代の大学であった。
それぞれの大学に看板の人たちがいるので、なんとか実現できないものか・・・
例えば、循環なら兵庫医療大っていうように。
以前にそんな話をした記憶がある。
帰りは、うちの大学の学生と熱い話をして、
これからを託すメッセージを言って、少しのみ、帰った。
今日は会議&会議&会議な一日であった。
対談準備が滞っていること、執筆がまるっきり進んでいないことが気になる。
しかし、本格的に実験して原著論文を書き、
それなりの国際誌に新年度も投稿するという自分自身に約束をした。
今年は講演、総説はもちろんのこと、
著書として表現したい仕事が5つほどある。
さらに、原著も2本はと思っている。
大学院生の指導ももちろんするが、
あえて「自力」とでもメッセージを送っておこう。
メールでよく質問が来るが、
自分に甘いとでも言葉を送っておこう。
質問すればするほど、「自力」が失われるのも事実だ。
相手に実力をさらけ出すことも必要だが、
時に、それをふせ、自分で解決することも大事だ。
それが自信につながる。
学位とはそういうものである。
やさしいのが「仇」になることもあるといつも僕は痛感している。
が、それが私らしさでもあるので、なかなか変えられない。
まだ教育がわかっていないから、「変えられない」のだろう。
わかったときが変わったときなのかもしれない。