火曜、水曜と授業・会議が目白押しであったが
すべての仕事をキャンセルし
一路、高知に向かった。
こんなことで帰郷するとは思いもしなかった。
私には人生の師匠が3名いる。
そのうち研究者としての道を拓いてくれたのが
八木文雄先生である。
今の自分の学者としての存在は
先生の存在なくしてありえない。
八木先生の背中をいつも見ながら
自分も大学で研究をする人間になりたいと思った。
八木先生からは原著を読むことの大切さを
学んだ。
先生の名著「神経心理学」(放送大学教科書)は
すべての原著を読み
そして確認するという途方もないプロセスから生まれた。
誰かのレビューや本からの引用は決してしなく
オリジナルをすべて確認し
日本、あるいは欧米の名だたる研究者の
総説論文には解釈の間違いがあるとの説明を受けた。
自分の目で見て読んで確認するという
研究者として最も基本的なものを自らの背中で教えてくれた。
文字通り学会出張以外は365日大学の研究室にいる研究者であった。
元旦にもいつもいたのを記憶している。
生真面目なまでの研究者。
まさに字義通りの研究者である。
(その辺のセラピスト教授に垢を煎じて飲ましたい)
すべての仕事を背負い
そして自分の仕事を2の次にしてでも
大学の誰もが嫌がりそうな事務的仕事を一手に引き受けて処理する教授であった。
私の学位審査においては
密には指導を受けなかったが要所で適切かつ明確な指摘をもらった。
軽くインパクトファクター4はいるからな!
と入学早々にいわれたことを今でも覚えている。
運よく、博士課程3年時に2本の原著論文が国際雑誌に掲載され
ノルマを達成した直後
掲載されたのなら、1年早く出るか!?と問われ困惑したのを覚えている。
医学部の博士課程(医学博士)は4年であり
3年で修了するというのは1年早く出るということであり
それまで高知医科大学では
バンクラディシュ人の医師のみであることを聞き
さらに困惑した。
研究者ではあるがセラピストである私を
医師の同期を差し置いて1年早く出るというのは
まさに八木先生の決断によるものである。
いろんな軋轢ややじを一手に受け
それでも気丈に振る舞い
私の学位取得の後押しをしてくれた。
その甲斐あってか、日本人で最初の早期修了となった。
今でもあの時、
前歴がないため、
八木先生はその手続きなどに大変だっただろうと察する。
上智大学文学部のご出身で
実験心理学をもともとはご専門にされていた。
上智大学ということもあってか
英語、フランス語、スペイン語も堪能で
ネイティブを修正するような人でもあった。
視覚心理学で有名な東大の鳥居修晃先生のお弟子さんでもある。
文学博士ながら、佐賀医大を経由して
高知医大で神経心理学の教室をお開きになり、
41歳の若さで国立大学の医学部医学科の教授にご就任された。
さらに医師でもなければ医学博士でもない。
まさに実力をもってのご着任である。
単刀直入に物事を語る人であり
教授会などでも一目置かれる人物であったとお聞きしている。
神経心理学の改訂作業をされていたが
先日、60歳で急逝された。
突然の訃報を高知大学医学部認知行動神経科学教室の面々から
次々に聞き
まさにそれを真実として受け入れることができなかった。
そんなはずはない。
まだいろいろと教えてもらわなければならないことがある。
最後に何かひとこと俺に言ってくれないのか。
今となってはどうしてもっと頻繁に研究室にいかなかったのか
と後悔している。
もう一度でいいから研究室に入りたい。
いつも先生の研究室にノックするのは緊張していた。
今でも緊張し、一瞬ためらう場合もある。
大学教授としての厳しさをもっていた。
今の自分には到底ない。
しばらくは茫然と立ち尽くすのみであり
今、このブログを打っている自分をフィードバックしても
それが続いている。
火曜日に通夜、本日、本葬を受け、
御出棺まではまだ信じられなかったが、
教室生の代表としてそれを受け止め
八木文雄先生が志そうとした学問を受け継ぎ
発展させていかなければならないと強く思った。
まだまだ、実力が満たない煩悩な自分であるが
研究者としての精神・信念を引き継ぎ
私らしく研究を続けていこうと思う。
可及的速やかに今自分がやろうと思う物書きを
妥協なく進める決心がついた。
完璧主義な先生には到底追いつくことができないかもしれないが
目標とする人物があまりにも大きいと
こっちも張り合いが出る。
天国で叱咤激励してほしい。
心配なのは高知大学認知行動神経科学教室にいる
博士課程・修士課程のメンバーです。
どうか見まもってあげてください。
そして皆が無事に学位をとることができるよう
天国から力を注いでください。
今日は教授陣も声を上げながら泣いていた。
中でも倉本附属病院長と奥谷先生は印象的だった。
八木先生の人柄が出ている葬儀であった。
身内よりも身内
恩師というものはそういうものであると
先生のご遺体を前にした
自らの嗚咽をあげながらの涙の量からもそれを感じた。
今日の葬儀では10年分の涙が出たのではないかと思う。
今でも「エピソード記憶」が随時蘇ってくる。
人は人の脳のなかで生きるというが
先生、これはつらいよ。
本当につらいよ。
先生の遺影の笑顔が脳裏の奥底に焼き付いてしまった。
先生、見返り笑顔はないよ・・・どこか遠くへいくみたいじゃないか!
ただただ、ご冥福をお祈りするばかりであり
現世で休めなかった分を取り返すように休んでください。
これは僕からの切な願いです。
しばらくは何も手につかないが
同僚の援助をもらいながら進めていこうと思う。
すべての仕事をキャンセルし
一路、高知に向かった。
こんなことで帰郷するとは思いもしなかった。
私には人生の師匠が3名いる。
そのうち研究者としての道を拓いてくれたのが
八木文雄先生である。
今の自分の学者としての存在は
先生の存在なくしてありえない。
八木先生の背中をいつも見ながら
自分も大学で研究をする人間になりたいと思った。
八木先生からは原著を読むことの大切さを
学んだ。
先生の名著「神経心理学」(放送大学教科書)は
すべての原著を読み
そして確認するという途方もないプロセスから生まれた。
誰かのレビューや本からの引用は決してしなく
オリジナルをすべて確認し
日本、あるいは欧米の名だたる研究者の
総説論文には解釈の間違いがあるとの説明を受けた。
自分の目で見て読んで確認するという
研究者として最も基本的なものを自らの背中で教えてくれた。
文字通り学会出張以外は365日大学の研究室にいる研究者であった。
元旦にもいつもいたのを記憶している。
生真面目なまでの研究者。
まさに字義通りの研究者である。
(その辺のセラピスト教授に垢を煎じて飲ましたい)
すべての仕事を背負い
そして自分の仕事を2の次にしてでも
大学の誰もが嫌がりそうな事務的仕事を一手に引き受けて処理する教授であった。
私の学位審査においては
密には指導を受けなかったが要所で適切かつ明確な指摘をもらった。
軽くインパクトファクター4はいるからな!
と入学早々にいわれたことを今でも覚えている。
運よく、博士課程3年時に2本の原著論文が国際雑誌に掲載され
ノルマを達成した直後
掲載されたのなら、1年早く出るか!?と問われ困惑したのを覚えている。
医学部の博士課程(医学博士)は4年であり
3年で修了するというのは1年早く出るということであり
それまで高知医科大学では
バンクラディシュ人の医師のみであることを聞き
さらに困惑した。
研究者ではあるがセラピストである私を
医師の同期を差し置いて1年早く出るというのは
まさに八木先生の決断によるものである。
いろんな軋轢ややじを一手に受け
それでも気丈に振る舞い
私の学位取得の後押しをしてくれた。
その甲斐あってか、日本人で最初の早期修了となった。
今でもあの時、
前歴がないため、
八木先生はその手続きなどに大変だっただろうと察する。
上智大学文学部のご出身で
実験心理学をもともとはご専門にされていた。
上智大学ということもあってか
英語、フランス語、スペイン語も堪能で
ネイティブを修正するような人でもあった。
視覚心理学で有名な東大の鳥居修晃先生のお弟子さんでもある。
文学博士ながら、佐賀医大を経由して
高知医大で神経心理学の教室をお開きになり、
41歳の若さで国立大学の医学部医学科の教授にご就任された。
さらに医師でもなければ医学博士でもない。
まさに実力をもってのご着任である。
単刀直入に物事を語る人であり
教授会などでも一目置かれる人物であったとお聞きしている。
神経心理学の改訂作業をされていたが
先日、60歳で急逝された。
突然の訃報を高知大学医学部認知行動神経科学教室の面々から
次々に聞き
まさにそれを真実として受け入れることができなかった。
そんなはずはない。
まだいろいろと教えてもらわなければならないことがある。
最後に何かひとこと俺に言ってくれないのか。
今となってはどうしてもっと頻繁に研究室にいかなかったのか
と後悔している。
もう一度でいいから研究室に入りたい。
いつも先生の研究室にノックするのは緊張していた。
今でも緊張し、一瞬ためらう場合もある。
大学教授としての厳しさをもっていた。
今の自分には到底ない。
しばらくは茫然と立ち尽くすのみであり
今、このブログを打っている自分をフィードバックしても
それが続いている。
火曜日に通夜、本日、本葬を受け、
御出棺まではまだ信じられなかったが、
教室生の代表としてそれを受け止め
八木文雄先生が志そうとした学問を受け継ぎ
発展させていかなければならないと強く思った。
まだまだ、実力が満たない煩悩な自分であるが
研究者としての精神・信念を引き継ぎ
私らしく研究を続けていこうと思う。
可及的速やかに今自分がやろうと思う物書きを
妥協なく進める決心がついた。
完璧主義な先生には到底追いつくことができないかもしれないが
目標とする人物があまりにも大きいと
こっちも張り合いが出る。
天国で叱咤激励してほしい。
心配なのは高知大学認知行動神経科学教室にいる
博士課程・修士課程のメンバーです。
どうか見まもってあげてください。
そして皆が無事に学位をとることができるよう
天国から力を注いでください。
今日は教授陣も声を上げながら泣いていた。
中でも倉本附属病院長と奥谷先生は印象的だった。
八木先生の人柄が出ている葬儀であった。
身内よりも身内
恩師というものはそういうものであると
先生のご遺体を前にした
自らの嗚咽をあげながらの涙の量からもそれを感じた。
今日の葬儀では10年分の涙が出たのではないかと思う。
今でも「エピソード記憶」が随時蘇ってくる。
人は人の脳のなかで生きるというが
先生、これはつらいよ。
本当につらいよ。
先生の遺影の笑顔が脳裏の奥底に焼き付いてしまった。
先生、見返り笑顔はないよ・・・どこか遠くへいくみたいじゃないか!
ただただ、ご冥福をお祈りするばかりであり
現世で休めなかった分を取り返すように休んでください。
これは僕からの切な願いです。
しばらくは何も手につかないが
同僚の援助をもらいながら進めていこうと思う。
私は大切な人を半年前に亡くしました。八木教授のような社会的に偉大な人ではないけれど、私にとってはかけがえのない人でした。人のいのちが永久でないことはわかってはいます。しかし、今でもどんな姿であれ生きて欲しい。生きていてくれるだけでいい…と。先生の心中は想像を越えるものだろうと思います。
ただ大切な人を亡くしたものとして、八木教授のご冥福をお祈りします。
先生のお立場ではそうもいかないかもしれませんが、今は心のままにお過ごしください。