金曜日、いつもなら岡山に向かうとき、
岡山の講義はすでに終了しており、
いつもと反対方向の新幹線に乗る。
私の体からの声がグリーン席をと、訴え、ついついグリーンにする。
毎週の全国各地の移動に伴う体の緊張は少しピークになりつつある。
今年度は延べ52の講演を行った(行う)ことになる。
浅草の下町を抜け、
ノスタルジーな場所に。
東京都リハビリテーション病院では水口先生に案内され、
1時間半の講義を行う。
理学療法のための脳科学と題して、
序論となる運動学習、可塑性、そして臨床でまず導入してほしいこと、
心がけてもらいたいことを話した。
訓練室での講義は懐かしい感じがあり、
みなさんとの距離が近い反面、
顔色を直接的にうかがうために、少し遠慮しながら話す。
また、上下の距離を感じ、新鮮だったが、
私がたち、みなさんはマット上で座りとなれば、結構目線を上から下へとなり、
見下ろす感があったので、少々恐縮した。
講義後、皆さんと鐘ヶ淵のリヨンに行く。
ここは記憶に鮮明に残る場所となった。
そのボリューム、雰囲気、まさに和洋折衷を地で行くレストラン。
恰好つけているレストランが増える中、
表面だけのきれいさだけを追求し、かつ全国同じチェーン店ばかり、
そんななか、ここはまさに時代を感じ、そして感情を動かす場所であった。
感情が動かないと記憶に残らない。
どこでも同じでしか満足できない現代社会。
違いを感じることに鈍くなるはずだ。
そうすれば、人と自分の心が一緒でないと気が済まないというストレス社会を作る。
人間はみんな違うのである。
イオン化、ファミレス化、コンビニ化、機能性ばかり追求すると、
機械になってしまうぞ、人間。
統一・一貫性で脳を休めてしまう日本。
効率でなく、違いを楽しむ、そのこころがこの国を発展させ、そして守る手続きであると思う。
話の中、都リハの田村先生と同級生であることがわかった。
長崎大学の話題になった。
品川で泊まり、早朝に出て、
仕事をした。
とりたてて、Clinical Neurophysiologyの査読期限になっていたために、
M2のこうむら君に少し手伝ってもらい、
コメントをタイプし、
自分の英語に少し嫌気がさしながら、送信した。
最近は査読もネット上であるため、便利である。
便利さを追求してしまえば、私が機械になってしまうぞ。。
その日はフレンチで過ごす。
翌日、奈良県士会、今日であるが、新人教育プログラムで話をする。
世界の理学療法では、WCPTのこと、世界のPTの特徴を話したのち、
欧州の理学療法について、そして留学のことなどを話した。
自分の目で肌で世界を感じてもらいたい。
活字では見えない、その世界観を感じてもらいたいものだ。
自分の27歳の時の留学体験記を話して、3年目の彼らの背中を押した。
世界の理学療法に次いで、理学療法教育方法論について話した。
予測、計画と実行、結果の比較、
教科学習、教師あり、なし、などを話し、
学習性無力感や銅谷博士のネズミロボットの話をして、
どのように教育していくかについて考えてもらった。
1日の目標をたて、その日をのぞむ
そして1日起こったことを想起し、記憶を整理して比較照合する。
脳は前向きモデルなのである。
最近接領域、共同注意、ミラーニューロン、そして快楽(感情と記憶・学習)などについて話して、
学生教育、患者の運動学習、そして自己の生涯学習について参考にしてもらいたい知識を話した。
とにかく自分が成長し続けること、これが何よりも教育である。
その背中を見せるだけでも十分である。
臨床やっていて、そして、難しい事象にぶち当たって、
それを決めつけでなく、その難解さを(壁を)楽しみ、
わくわく・ぞくぞく感を見せつけてやるだけでも十分である。
否定、文句が蔓延する。
そういう空間と時間が負の連鎖がはじまる。
問題は学生だけでもなく、指導者だけでもない。
関係性、システムなのである。
人は人に影響を受ける。
理学療法が好きでなく、その人に憧れをもつ。
それが一番臨床では大事である。
人は物よりも人を好きになる。
好きという感情、それが第一である。
愛は知識の母である。
知識を求めるのであれば、愛がなくてはならない。
愛をもって知識を涵養する。
それが教育の基本である。
今日の日曜も働いた。
龍馬伝を見て、ブログを打つ。
龍馬伝は私の人生を浄化させる。
毎週、その言葉言葉に感動している。
今日は国家試験、みんなは実力を発揮できたであろうか。。。
終着点でない。自分の足で歩ける日が来たのである。
操縦は苦労するかもしれない。
しかし、その感覚が経験を導いてくれる。
岡山の講義はすでに終了しており、
いつもと反対方向の新幹線に乗る。
私の体からの声がグリーン席をと、訴え、ついついグリーンにする。
毎週の全国各地の移動に伴う体の緊張は少しピークになりつつある。
今年度は延べ52の講演を行った(行う)ことになる。
浅草の下町を抜け、
ノスタルジーな場所に。
東京都リハビリテーション病院では水口先生に案内され、
1時間半の講義を行う。
理学療法のための脳科学と題して、
序論となる運動学習、可塑性、そして臨床でまず導入してほしいこと、
心がけてもらいたいことを話した。
訓練室での講義は懐かしい感じがあり、
みなさんとの距離が近い反面、
顔色を直接的にうかがうために、少し遠慮しながら話す。
また、上下の距離を感じ、新鮮だったが、
私がたち、みなさんはマット上で座りとなれば、結構目線を上から下へとなり、
見下ろす感があったので、少々恐縮した。
講義後、皆さんと鐘ヶ淵のリヨンに行く。
ここは記憶に鮮明に残る場所となった。
そのボリューム、雰囲気、まさに和洋折衷を地で行くレストラン。
恰好つけているレストランが増える中、
表面だけのきれいさだけを追求し、かつ全国同じチェーン店ばかり、
そんななか、ここはまさに時代を感じ、そして感情を動かす場所であった。
感情が動かないと記憶に残らない。
どこでも同じでしか満足できない現代社会。
違いを感じることに鈍くなるはずだ。
そうすれば、人と自分の心が一緒でないと気が済まないというストレス社会を作る。
人間はみんな違うのである。
イオン化、ファミレス化、コンビニ化、機能性ばかり追求すると、
機械になってしまうぞ、人間。
統一・一貫性で脳を休めてしまう日本。
効率でなく、違いを楽しむ、そのこころがこの国を発展させ、そして守る手続きであると思う。
話の中、都リハの田村先生と同級生であることがわかった。
長崎大学の話題になった。
品川で泊まり、早朝に出て、
仕事をした。
とりたてて、Clinical Neurophysiologyの査読期限になっていたために、
M2のこうむら君に少し手伝ってもらい、
コメントをタイプし、
自分の英語に少し嫌気がさしながら、送信した。
最近は査読もネット上であるため、便利である。
便利さを追求してしまえば、私が機械になってしまうぞ。。
その日はフレンチで過ごす。
翌日、奈良県士会、今日であるが、新人教育プログラムで話をする。
世界の理学療法では、WCPTのこと、世界のPTの特徴を話したのち、
欧州の理学療法について、そして留学のことなどを話した。
自分の目で肌で世界を感じてもらいたい。
活字では見えない、その世界観を感じてもらいたいものだ。
自分の27歳の時の留学体験記を話して、3年目の彼らの背中を押した。
世界の理学療法に次いで、理学療法教育方法論について話した。
予測、計画と実行、結果の比較、
教科学習、教師あり、なし、などを話し、
学習性無力感や銅谷博士のネズミロボットの話をして、
どのように教育していくかについて考えてもらった。
1日の目標をたて、その日をのぞむ
そして1日起こったことを想起し、記憶を整理して比較照合する。
脳は前向きモデルなのである。
最近接領域、共同注意、ミラーニューロン、そして快楽(感情と記憶・学習)などについて話して、
学生教育、患者の運動学習、そして自己の生涯学習について参考にしてもらいたい知識を話した。
とにかく自分が成長し続けること、これが何よりも教育である。
その背中を見せるだけでも十分である。
臨床やっていて、そして、難しい事象にぶち当たって、
それを決めつけでなく、その難解さを(壁を)楽しみ、
わくわく・ぞくぞく感を見せつけてやるだけでも十分である。
否定、文句が蔓延する。
そういう空間と時間が負の連鎖がはじまる。
問題は学生だけでもなく、指導者だけでもない。
関係性、システムなのである。
人は人に影響を受ける。
理学療法が好きでなく、その人に憧れをもつ。
それが一番臨床では大事である。
人は物よりも人を好きになる。
好きという感情、それが第一である。
愛は知識の母である。
知識を求めるのであれば、愛がなくてはならない。
愛をもって知識を涵養する。
それが教育の基本である。
今日の日曜も働いた。
龍馬伝を見て、ブログを打つ。
龍馬伝は私の人生を浄化させる。
毎週、その言葉言葉に感動している。
今日は国家試験、みんなは実力を発揮できたであろうか。。。
終着点でない。自分の足で歩ける日が来たのである。
操縦は苦労するかもしれない。
しかし、その感覚が経験を導いてくれる。