昨日10時過ぎに奈良を出て,実習訪問に向かう.
野田阪神でおり,松本病院へ.
トップの学生時代の2つ上の相川先生にあいさつし,
いきなりfMRIの取り方について聞かれる.
いつまでたっても未来永劫先輩後輩関係はそういうものだ.
実に面白いやり取りである.
学生そっちのけである.
その後,実質的指導者の1期生の太口先生と話をする.
実に3年目で余裕が出ている.
1期生はどこでもいつでも頼もしい.
時代をつくってきたものが潜在的に意識として埋め込まれているのかもしれない.
学生と話をする.
学校で習った評価でないことに戸惑いが生じているが,
「結果」を先に求めるべからず.
教育の問題なのか,現代学生の問題なのか.
予測と違うと,混乱が生じる.
その差異が経験を作るのだが,
平坦な道しか歩いていないとそういう意識になってしまうのだろうか.
何のための入院しているのか?という根本的な問題を棚上げしてしまっている.
理学療法=動作という視点により,動作ができない患者に対しては,
とても無力になっている.
理学療法が固定化かつ美化されてしまっている.
ただし,この悩むというプロセスは人生のために必要である.
彼はそれに真摯に立ち向かおうとしている.
評価とか動作とかいうまえにその疾病についてきちんとした共通知識がないと,
医学・医療には生きていけない.
リハビリテーションの世界だけでなく,病院という組織のなかでの共通項からきちんと勉強していくことだ.
ある骨折を知らずして,動作ばかり強調しても,
共同注意できない.
リクルートスーツから,自己のスーツへ.
誰もいつでも同じっていうのは人間の本質に迫っていない.
批判・失敗を恐れるな.
他人の情報ばかりをうのみにして,気にして,
同じようにふるまったり,同じように批評する.
人と同じでないと不安,それはわからないでもないが,
疾病・病態は同じではない.
遅い昼食を経て,京都亀岡へ.
亀岡シミズ病院へ.
指導者の出田先生に御挨拶をすませ,
学生の問題点に対して,話し合う.
根深い問題と思い,その後,結構長めに援助する.
人間は「言語」よりも「非言語」を信じる.
言語と非言語(表情,しぐさ,態度,抑揚など)の間に矛盾が生じた際,
人間は赤ちゃんの時に先に習得した非言語コミュニケーションを優先する.
ことばが独り歩きしてはならない.
まずは非言語のトレーニングである.
郷に入れば郷に従う.
病院という環境は,体育会系の場所ではない.
やさしさが内面からあふれる場所である.
ことばよりも態度,ことばよりも表情,それを重きにおいてもらいたい.
認知症の人が他人がだれかわからなくなったり,自分がだれかわからなくなっても,
他人の不快な表情は読み取ることができるという研究があるように,
非言語がこの情報化社会の中,決定的に鍛えられていない.
こころのトレーニング.
もっと自己に向き合わないといけない.
「君たちはまだ何者でもない」
その何者かを見つけにいく旅が始まったのである.
この実習から.
これから,生涯を全うするまで,何回勝負となる岐路に出会うか.
その岐路に立ち向かっていく精神と身体をもつものが,
初めて何者かを見つけることができるのだと思う.
途中で投げ出すものが多くなった.
それもどいつもこいつも他人ばかり気にするリクルートスーツ野郎が増えたからかもしれない.
「わからない」ということは
まだこの世の中には調べないといけないものがたくさんあると思え.
そして,まだまだ成長の余地ありとポジティブに考えること.
現象が読み解けない・・・でつまずいても,まだまだこの世の中,
捨てたものじゃない.まだ知るべきものがたくさんあると思え.
そうすれば心は鍛えられるし,
どのようは批判にも耐える(相手にしない)精神を持つことになるだろう.
批判される側になったとき,初めて自分の成長を思う.
それがまた学問を発展させる道しるべになるのだから.
亀岡を18時に出て,高知時代の教え子でここのセラピストのまよちゃんに京都駅近くまで送ってもらった.
高知の良き思い出がフラッシュバックされた.
あの頃は何者でもない若い教師であった.
理学療法!とか厳しさだけを追い求めていた青二才の教師時代が.
それも良き思い出.
今でも当時の教え子に出会うと,「ビビられてしまう・・・」
野田阪神でおり,松本病院へ.
トップの学生時代の2つ上の相川先生にあいさつし,
いきなりfMRIの取り方について聞かれる.
いつまでたっても未来永劫先輩後輩関係はそういうものだ.
実に面白いやり取りである.
学生そっちのけである.
その後,実質的指導者の1期生の太口先生と話をする.
実に3年目で余裕が出ている.
1期生はどこでもいつでも頼もしい.
時代をつくってきたものが潜在的に意識として埋め込まれているのかもしれない.
学生と話をする.
学校で習った評価でないことに戸惑いが生じているが,
「結果」を先に求めるべからず.
教育の問題なのか,現代学生の問題なのか.
予測と違うと,混乱が生じる.
その差異が経験を作るのだが,
平坦な道しか歩いていないとそういう意識になってしまうのだろうか.
何のための入院しているのか?という根本的な問題を棚上げしてしまっている.
理学療法=動作という視点により,動作ができない患者に対しては,
とても無力になっている.
理学療法が固定化かつ美化されてしまっている.
ただし,この悩むというプロセスは人生のために必要である.
彼はそれに真摯に立ち向かおうとしている.
評価とか動作とかいうまえにその疾病についてきちんとした共通知識がないと,
医学・医療には生きていけない.
リハビリテーションの世界だけでなく,病院という組織のなかでの共通項からきちんと勉強していくことだ.
ある骨折を知らずして,動作ばかり強調しても,
共同注意できない.
リクルートスーツから,自己のスーツへ.
誰もいつでも同じっていうのは人間の本質に迫っていない.
批判・失敗を恐れるな.
他人の情報ばかりをうのみにして,気にして,
同じようにふるまったり,同じように批評する.
人と同じでないと不安,それはわからないでもないが,
疾病・病態は同じではない.
遅い昼食を経て,京都亀岡へ.
亀岡シミズ病院へ.
指導者の出田先生に御挨拶をすませ,
学生の問題点に対して,話し合う.
根深い問題と思い,その後,結構長めに援助する.
人間は「言語」よりも「非言語」を信じる.
言語と非言語(表情,しぐさ,態度,抑揚など)の間に矛盾が生じた際,
人間は赤ちゃんの時に先に習得した非言語コミュニケーションを優先する.
ことばが独り歩きしてはならない.
まずは非言語のトレーニングである.
郷に入れば郷に従う.
病院という環境は,体育会系の場所ではない.
やさしさが内面からあふれる場所である.
ことばよりも態度,ことばよりも表情,それを重きにおいてもらいたい.
認知症の人が他人がだれかわからなくなったり,自分がだれかわからなくなっても,
他人の不快な表情は読み取ることができるという研究があるように,
非言語がこの情報化社会の中,決定的に鍛えられていない.
こころのトレーニング.
もっと自己に向き合わないといけない.
「君たちはまだ何者でもない」
その何者かを見つけにいく旅が始まったのである.
この実習から.
これから,生涯を全うするまで,何回勝負となる岐路に出会うか.
その岐路に立ち向かっていく精神と身体をもつものが,
初めて何者かを見つけることができるのだと思う.
途中で投げ出すものが多くなった.
それもどいつもこいつも他人ばかり気にするリクルートスーツ野郎が増えたからかもしれない.
「わからない」ということは
まだこの世の中には調べないといけないものがたくさんあると思え.
そして,まだまだ成長の余地ありとポジティブに考えること.
現象が読み解けない・・・でつまずいても,まだまだこの世の中,
捨てたものじゃない.まだ知るべきものがたくさんあると思え.
そうすれば心は鍛えられるし,
どのようは批判にも耐える(相手にしない)精神を持つことになるだろう.
批判される側になったとき,初めて自分の成長を思う.
それがまた学問を発展させる道しるべになるのだから.
亀岡を18時に出て,高知時代の教え子でここのセラピストのまよちゃんに京都駅近くまで送ってもらった.
高知の良き思い出がフラッシュバックされた.
あの頃は何者でもない若い教師であった.
理学療法!とか厳しさだけを追い求めていた青二才の教師時代が.
それも良き思い出.
今でも当時の教え子に出会うと,「ビビられてしまう・・・」