金曜日,いつものように岡山に向かう.
このルートも何年になろうか.
奈良~岡山を毎週のように移動すると
西日本の移動はもはや何も感じなくなる.
教育学の授業もラスト数回.
今回の授業は「学習された無力感」を取り上げ,
意図を発しながらも何度もその経験を失敗すると
それを学習してしまい,無力感を感じる脳内システムについて話した.
これは片麻痺における学習されたまひや否認も同じシステムと考えられる.
これの繰り返しでは無力感を生んでしまう.
自分には能力がないと.
向いていないと.
あるいは,この腕には何の意味もない肉の塊だと.
この思考は固定型思考と呼ばれ,私たちの職場の中にも存在する.
管理者が部下から建設的な批判をもらっても,そのフィードバックを歓迎しない.
「教師あり学習」の根幹が失われ,
自分の経験のみ,すなわち,「教師なし」システムだけの作動になる.
これは教師なし学習とは言わない.
自己批判しないからである.
固定型思考の上司はその批判を自らの根本的な能力に向けられたものと思い始め,
ついには「不快」という情動により無意識に「危険」と反応し,
それを「攻撃」あるいは「回避」「無視」するようになる.
これは上司のみでなく,学生自身にも現れる.
固定型思考を持ち続けると学ぶ楽しさよりも,
自分がきれい(格好良く)に見えるかのみを強調し始める.
固定型思考から努力型思考へ.
ドーパミンの生成は自らの変化値に現れる.
「才能」をほめるのではなく,「努力」をほめる.
すなわち,患者との関係では,「結果(事実)」をほめるのではなく,
その「経過」をほめる.
人に無理やり歩かされても,何によって歩けるようになったのかがわからない.
次のステップにつながらない.
自分自身が「歩けそうかな」と思って,歩けたのとは脳科学的に大いに違う.
「教師なし」「教師あり」「強化」そういった学習理論も,
自らの努力によって,セラピストは活かしていってもらいたい.
無論,教育者も.
天才は努力を惜しまないというのは,
天才は努力を楽しむからである.
「学習は失敗からでも成功からでもない」その間をいかに経験するかである.
いわゆる「挫折」というのは,本当の「挫折」ではない.
ペルーの原住民の生活をのぞくと,
いかに人間はたくましいかを知った.
豊かさを知った日本人が自殺者が増える意味もわかる.
私たちは,「生きる動物」なのである.
昼間部と夜間部の間の時間に同僚のIsekの抄録を添削した.
時間に追われるときつい.
土曜日,朝,岡山を発ち,
伊丹空港を経由して,羽田へ.
いつもANAを利用するが,
JAL問題か,ANAの乗客が多いような気がした.
新宿より,スーパーあずさに乗り,甲府まで.
甲府駅では学術研修部長の名取先生らのお出迎え.
石和温泉まで行き,ホテルにチェックイン.
たまにあるが,一人で和室10畳は少しさびしい.
19時より山梨県理学療法士会の学術の方々,
それに,日本ボバース研究会会長の伊藤先生,
そして,脳血管障害の治療者としての盟友の高村先生らと酒をかわしながら,
理学療法のこと,リハビリテーションのこと,神経科学のこと,
脳卒中片麻痺のこと,など語る.
理学療法士の「池田屋」をという伊藤先生からは熱いまなざしがあった.
新撰組や,見回り組に襲撃されないよう,
いろんな役割の人が必要だ.
自分は,広い展開を考えている.
一般の人を巻き込んだ「リハビリテーション」の本質の理解といったムーブメントを起こしたい.
0時まで飲み明かし,
翌朝,10時から講演がスタートした.
10時というのはありがたい.
9時スタートはいつも相当きつい感がある.
4時間にわたり,神経科学とリハビリテーションの接点について話したが,
いつもの内容よりは右半球と左半球の機能特性をかなり詳しくしゃべり,
重要な「身体保持感」や「運動主体感」の話も多くした.
大脳皮質は現状の環境からの感覚入力の重みづけをおこなう.
私自身が運動していると感じるのは,
感覚フィードバックからでなく,
0.数秒前の運動準備電位における遠心性コピー情報からである.
そのコピー情報がさまざまな領域に入ることで,
Relevantな感覚のみを焦点化し,
そうでない感覚を抑制する.
これが大脳,小脳と脊髄のシステムによって生まれる.
自分でくすぐるとくすぐったくないのも,
シングルタッチでは原始反射が出現するも,
ダブルタッチでは原始反射が出現しないのも,
シナプス前抑制によって伸張反射が抑制されるのも,
このシステムの機能によるものと想定される.
片麻痺で筋トレすれば伸張反射が亢進するとか,しないとか,
それは結果を見ているにすぎない.
亢進しないのは,運動単位動員の際に,
運動の準備,遠心性コピー,予測的操作が存在しているからであり,
亢進するのは,それが存在していないからである.
CRPS患者の運動実行時には脳活動がみられるが,
運動イメージ時にはそれがみられないという研究成果も,
その痛みの知覚は,この予測的操作により,
不必要な感覚が抑制されていないからと考えられる.
「痙縮」をあげてしまうとか,あげないとか,
そんな結果のみを焦点化していく時代は終わったと思う.
メカニズムから現象を読み解き,
そして,クリニカルリーズニングを行う.
そんな時代になっているにも関わらず,
「固定的思考」がその人の「成長」を邪魔する.
山梨県理学療法士会の講演を行いながら,質問を受けながら,
そんなことを思った.
筋トレをして駄目になる患者もいれば,駄目にならずに良くなる患者もいる.
統制された実験研究やRCT研究では,臨床の本質には迫れない.
肝心なのは方法論に固執するのではなく,病態・現象をとらえる眼力である.
その眼力は努力からしか生まれない.
誰かの受け売りでは生まれるはずがない.
いつまで三人称で生きるのか?
片麻痺には筋力検査をするなとか,筋トレをするなとか,これもお決まりのパタン.
筋力検査(刺激)-筋緊張亢進(反応)のS-R主義をいつまで続けるのか.
その間をなぜ科学から読み解こうとしないのか?
一方,筋トレ(刺激)-筋緊張変化なし(反応),
方法論がRCTになっても思考がS-Rだと,
何の科学性もない.
患者の私自身がよくなりたいというニーズにはこれでは答えられない.
もっとセラピスト自身が思考を鍛え,頭がよくなってもらいたい.
頭がよいということは能力ではない,努力の量と質で決まる.
私は自分の思考が毎年変わることを楽しみにしている.
「昨日のおれは,俺ならず」まではいかないが,
「昨年のおれは,俺ならず」と行きたい.
現役中は.
山梨県理学療法士会の会長の谷村先生に御挨拶し,
高村先生の奥さんに御挨拶し,
愛媛の横内(同級生)の話になり,
高村先生からは,同期生ならではの「40歳も目前、お互い身体には気をつけましょう!」とあたたかい言葉をいただいた.
「この世に生を得るは事を成すためにあり(山梨リハビリテーション病院の宮地先生のメールから)」
山梨はとても寒く,ノスタルジーを感じたが,
みんなの視線は前向きで熱かった.
来年,また全国学術研修大会でお世話になる.
その時には,自分の思考の変化を楽しんでもらいたい.
思考はつねに変化するもの.
その変化をポジティブととらえるか,ネガティブととらえるか.
それは自分次第なのである.
人間はいろんな場面でチャレンジの誘惑があるはずだ.
それに気づく人間と気づかない人間,
それに行動を起こすものと,起こさないもの.
その分岐によって,固定型思考と成長型思考に分かれる.
知らないうちに固定型思考になってしまう.
それこそが脳の老化現象である.
日常生活では,1000億個のニューロンの5%しか使っていない.
脳は筋と同じように鍛えられる.
そして,筋や関節といった末梢器官のように外から刺激に応答するだけでなく,
内の情報(経験や記憶)を使い,それを改変・更新できる柔軟性をもっている.
受容器レベルでは刺激だが,脳のレベルではその刺激が情報になりうるかが勝負である.
感覚を弱めたり強めたり,感覚がないのに知覚を生み出したり,
末梢と脳が大きく違う点は,外の刺激が必要ない場合でも,いかようにも作動する点である.
ものいう器官,それが脳である.
脳には刺激ということばは似合わない.
脳科学の魅力に浸っていただきたい.
このルートも何年になろうか.
奈良~岡山を毎週のように移動すると
西日本の移動はもはや何も感じなくなる.
教育学の授業もラスト数回.
今回の授業は「学習された無力感」を取り上げ,
意図を発しながらも何度もその経験を失敗すると
それを学習してしまい,無力感を感じる脳内システムについて話した.
これは片麻痺における学習されたまひや否認も同じシステムと考えられる.
これの繰り返しでは無力感を生んでしまう.
自分には能力がないと.
向いていないと.
あるいは,この腕には何の意味もない肉の塊だと.
この思考は固定型思考と呼ばれ,私たちの職場の中にも存在する.
管理者が部下から建設的な批判をもらっても,そのフィードバックを歓迎しない.
「教師あり学習」の根幹が失われ,
自分の経験のみ,すなわち,「教師なし」システムだけの作動になる.
これは教師なし学習とは言わない.
自己批判しないからである.
固定型思考の上司はその批判を自らの根本的な能力に向けられたものと思い始め,
ついには「不快」という情動により無意識に「危険」と反応し,
それを「攻撃」あるいは「回避」「無視」するようになる.
これは上司のみでなく,学生自身にも現れる.
固定型思考を持ち続けると学ぶ楽しさよりも,
自分がきれい(格好良く)に見えるかのみを強調し始める.
固定型思考から努力型思考へ.
ドーパミンの生成は自らの変化値に現れる.
「才能」をほめるのではなく,「努力」をほめる.
すなわち,患者との関係では,「結果(事実)」をほめるのではなく,
その「経過」をほめる.
人に無理やり歩かされても,何によって歩けるようになったのかがわからない.
次のステップにつながらない.
自分自身が「歩けそうかな」と思って,歩けたのとは脳科学的に大いに違う.
「教師なし」「教師あり」「強化」そういった学習理論も,
自らの努力によって,セラピストは活かしていってもらいたい.
無論,教育者も.
天才は努力を惜しまないというのは,
天才は努力を楽しむからである.
「学習は失敗からでも成功からでもない」その間をいかに経験するかである.
いわゆる「挫折」というのは,本当の「挫折」ではない.
ペルーの原住民の生活をのぞくと,
いかに人間はたくましいかを知った.
豊かさを知った日本人が自殺者が増える意味もわかる.
私たちは,「生きる動物」なのである.
昼間部と夜間部の間の時間に同僚のIsekの抄録を添削した.
時間に追われるときつい.
土曜日,朝,岡山を発ち,
伊丹空港を経由して,羽田へ.
いつもANAを利用するが,
JAL問題か,ANAの乗客が多いような気がした.
新宿より,スーパーあずさに乗り,甲府まで.
甲府駅では学術研修部長の名取先生らのお出迎え.
石和温泉まで行き,ホテルにチェックイン.
たまにあるが,一人で和室10畳は少しさびしい.
19時より山梨県理学療法士会の学術の方々,
それに,日本ボバース研究会会長の伊藤先生,
そして,脳血管障害の治療者としての盟友の高村先生らと酒をかわしながら,
理学療法のこと,リハビリテーションのこと,神経科学のこと,
脳卒中片麻痺のこと,など語る.
理学療法士の「池田屋」をという伊藤先生からは熱いまなざしがあった.
新撰組や,見回り組に襲撃されないよう,
いろんな役割の人が必要だ.
自分は,広い展開を考えている.
一般の人を巻き込んだ「リハビリテーション」の本質の理解といったムーブメントを起こしたい.
0時まで飲み明かし,
翌朝,10時から講演がスタートした.
10時というのはありがたい.
9時スタートはいつも相当きつい感がある.
4時間にわたり,神経科学とリハビリテーションの接点について話したが,
いつもの内容よりは右半球と左半球の機能特性をかなり詳しくしゃべり,
重要な「身体保持感」や「運動主体感」の話も多くした.
大脳皮質は現状の環境からの感覚入力の重みづけをおこなう.
私自身が運動していると感じるのは,
感覚フィードバックからでなく,
0.数秒前の運動準備電位における遠心性コピー情報からである.
そのコピー情報がさまざまな領域に入ることで,
Relevantな感覚のみを焦点化し,
そうでない感覚を抑制する.
これが大脳,小脳と脊髄のシステムによって生まれる.
自分でくすぐるとくすぐったくないのも,
シングルタッチでは原始反射が出現するも,
ダブルタッチでは原始反射が出現しないのも,
シナプス前抑制によって伸張反射が抑制されるのも,
このシステムの機能によるものと想定される.
片麻痺で筋トレすれば伸張反射が亢進するとか,しないとか,
それは結果を見ているにすぎない.
亢進しないのは,運動単位動員の際に,
運動の準備,遠心性コピー,予測的操作が存在しているからであり,
亢進するのは,それが存在していないからである.
CRPS患者の運動実行時には脳活動がみられるが,
運動イメージ時にはそれがみられないという研究成果も,
その痛みの知覚は,この予測的操作により,
不必要な感覚が抑制されていないからと考えられる.
「痙縮」をあげてしまうとか,あげないとか,
そんな結果のみを焦点化していく時代は終わったと思う.
メカニズムから現象を読み解き,
そして,クリニカルリーズニングを行う.
そんな時代になっているにも関わらず,
「固定的思考」がその人の「成長」を邪魔する.
山梨県理学療法士会の講演を行いながら,質問を受けながら,
そんなことを思った.
筋トレをして駄目になる患者もいれば,駄目にならずに良くなる患者もいる.
統制された実験研究やRCT研究では,臨床の本質には迫れない.
肝心なのは方法論に固執するのではなく,病態・現象をとらえる眼力である.
その眼力は努力からしか生まれない.
誰かの受け売りでは生まれるはずがない.
いつまで三人称で生きるのか?
片麻痺には筋力検査をするなとか,筋トレをするなとか,これもお決まりのパタン.
筋力検査(刺激)-筋緊張亢進(反応)のS-R主義をいつまで続けるのか.
その間をなぜ科学から読み解こうとしないのか?
一方,筋トレ(刺激)-筋緊張変化なし(反応),
方法論がRCTになっても思考がS-Rだと,
何の科学性もない.
患者の私自身がよくなりたいというニーズにはこれでは答えられない.
もっとセラピスト自身が思考を鍛え,頭がよくなってもらいたい.
頭がよいということは能力ではない,努力の量と質で決まる.
私は自分の思考が毎年変わることを楽しみにしている.
「昨日のおれは,俺ならず」まではいかないが,
「昨年のおれは,俺ならず」と行きたい.
現役中は.
山梨県理学療法士会の会長の谷村先生に御挨拶し,
高村先生の奥さんに御挨拶し,
愛媛の横内(同級生)の話になり,
高村先生からは,同期生ならではの「40歳も目前、お互い身体には気をつけましょう!」とあたたかい言葉をいただいた.
「この世に生を得るは事を成すためにあり(山梨リハビリテーション病院の宮地先生のメールから)」
山梨はとても寒く,ノスタルジーを感じたが,
みんなの視線は前向きで熱かった.
来年,また全国学術研修大会でお世話になる.
その時には,自分の思考の変化を楽しんでもらいたい.
思考はつねに変化するもの.
その変化をポジティブととらえるか,ネガティブととらえるか.
それは自分次第なのである.
人間はいろんな場面でチャレンジの誘惑があるはずだ.
それに気づく人間と気づかない人間,
それに行動を起こすものと,起こさないもの.
その分岐によって,固定型思考と成長型思考に分かれる.
知らないうちに固定型思考になってしまう.
それこそが脳の老化現象である.
日常生活では,1000億個のニューロンの5%しか使っていない.
脳は筋と同じように鍛えられる.
そして,筋や関節といった末梢器官のように外から刺激に応答するだけでなく,
内の情報(経験や記憶)を使い,それを改変・更新できる柔軟性をもっている.
受容器レベルでは刺激だが,脳のレベルではその刺激が情報になりうるかが勝負である.
感覚を弱めたり強めたり,感覚がないのに知覚を生み出したり,
末梢と脳が大きく違う点は,外の刺激が必要ない場合でも,いかようにも作動する点である.
ものいう器官,それが脳である.
脳には刺激ということばは似合わない.
脳科学の魅力に浸っていただきたい.