◇存在の根底にあるもの(2)◇
昨日の記事の補足的なことを書かせていただきます。
昨日の記事で、私という存在の根底には、不足感のような漠然とした否定的な感覚(考え)があると書きました。
そして、私という存在、すなわち私の考えの連鎖は、その根底にある否定的な考えが起点となって繰り広げられていると書きました。
今日は、この観点から思考についてもう少し書いてみたいと思います。
思考とは、存在の根底にある不足感等の否定的な感覚(考え)を満たそうする、あるいはその否定的な考えから逃れようとする衝動なのです。
そして執着(カルマ)とは、私が握りしめている、あるいは溜め込んでいる思考なのです。
あるいは、その握りしめている思考に対する依存心ということもできます。
また、おそれとは、その依存の対象を失うことに対する無意識の抵抗なのです。
私たちの旅路は、幸福、すなわち「楽」を求めたものであるということができます。
私に起こる一つ一つの思考も、それらについてよく洞察すると、「楽」を求める衝動の一環として起こってきていることが分かります。
そうやって、私たちは「楽」を求めて延々と彷徨っています。
存在の根底の部分が満たされてないので、どういう思考が起こってどういう選択をしようと、やっぱり満たされず、彷徨い続けてしまうのです。
みなさん、この旅路の終わりが気になる方もおられるでしょうね(私も気になります、笑)。
この旅路は、私という存在がそういうものだと理解すれば、つまり受け入れれば終わります。
コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。
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昨日の記事の補足的なことを書かせていただきます。
昨日の記事で、私という存在の根底には、不足感のような漠然とした否定的な感覚(考え)があると書きました。
そして、私という存在、すなわち私の考えの連鎖は、その根底にある否定的な考えが起点となって繰り広げられていると書きました。
今日は、この観点から思考についてもう少し書いてみたいと思います。
思考とは、存在の根底にある不足感等の否定的な感覚(考え)を満たそうする、あるいはその否定的な考えから逃れようとする衝動なのです。
そして執着(カルマ)とは、私が握りしめている、あるいは溜め込んでいる思考なのです。
あるいは、その握りしめている思考に対する依存心ということもできます。
また、おそれとは、その依存の対象を失うことに対する無意識の抵抗なのです。
私たちの旅路は、幸福、すなわち「楽」を求めたものであるということができます。
私に起こる一つ一つの思考も、それらについてよく洞察すると、「楽」を求める衝動の一環として起こってきていることが分かります。
そうやって、私たちは「楽」を求めて延々と彷徨っています。
存在の根底の部分が満たされてないので、どういう思考が起こってどういう選択をしようと、やっぱり満たされず、彷徨い続けてしまうのです。
みなさん、この旅路の終わりが気になる方もおられるでしょうね(私も気になります、笑)。
この旅路は、私という存在がそういうものだと理解すれば、つまり受け入れれば終わります。
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