◇悟りの階梯(1)◇
<この記事は2月26日に書いたものを、翌27日に大幅に訂正しています>
先週、ラジニーシさんの「奇跡の探求Ⅱ」を読み、それが助けになって、悟りの階梯について理解がクリアになりましたので、書かせていただきます。
なお、ラジニーシさんの理解と私の理解は大凡は一致しているのですが、細部には違いも多々あります。
悟りに関する理解は、体験や内面から湧き起こる確信的な理解に基づく主観的なものですので、各自の理解に異なる部分が生じるのは不可避なのだと考えています。
悟りには、第一から第四の四つの段階があります。
第一の段階は、私という存在の個と全体の二面性のうちの個の意識(自我)又は全体意識(真我)のいずれか一方を捉えた段階です(見性又は真我の気づき)。
第二の段階は、自我と真我の両方を捉えた段階です(覚醒)。
第三の段階は、私という感覚が落ち、ほぼ常に真我を捉えているようになった段階です(真我の完全覚醒)。
第四の段階は、真我も幻であると認識した段階です(実質的な解脱)。
各段階について、以下に簡単に説明していきます。
第一の段階の段階から順に説明していきます。
まず最初に改めて申し上げたいことは、私という存在の個と全体の二面性についてです。
私という存在は、個と全体の二面性を有していて、個の意識要素が創造主としての自我であり、全体の意識要素が真我であるということです。
この二面性を理解することにより、私に対する理解がより容易かつクリアになります。
第一の段階は、私という存在の個の意識(自我)又は全体意識(真我)のいずれか一方を捉えた段階です。
この段階は、悟りの道の入り口です。
この段階では、自我又は真我の一方しか捉えられていないため、アンバランスであり、自我の思考である分別に惑わされる傾向があり、まだ迷いの中にいます。
迷いから抜け出すためには、自我と真我の両方を捉え、次の段階に進む必要があります。
次に、この段階における自我を捉えられた場合と真我を捉えられた場合について個別に説明します。
まず、自我を捉えた場合について。
自我を捉えるとは、創造主としての自身の本性(仏性)に気づくことです。
これを見性と言います。
なお、この「個」という意識要素は、通常の肉体感覚で得られる自我とは本質的に別ものです。
肉体感覚の自我は、あくまで肉体に付随した感覚です。
ここで言う「自我」は、創造主である個の意識のことです。
見性による最大の特徴は、創造主としての自我に目覚めるため、「私」という意識がしっかりし、意思をしっかり自覚して表現できるようになる点です。
このため、意思の実現性も大幅に向上します。
人によっては特殊能力が活性化される方がおられると思います。
また自我の目覚めに伴い、この世界のすべての事象が創造主である自分のつくった考え(思考)であるという一応の認識が得られるため、自分の感情や種々の外的要因に振り回される程度が低下し、楽になります。
但し、意識の状態としては、まだ自我の思考である分別に忙しく、連鎖的に生じる分別に翻弄されやすい状態です。
分別に対する主導権はまだ不十分であり、迷いも多々あります。
分別に対する十分な主導権を得るためには、真我を捉え、次の段階に進む必要があります。
自覚(自分に意識を向ける)を続けていくことにより、分別が減り、それに伴って自我が薄くなっていくとともに、断続的に起こってくる分別の隙間から、全体意識(真我)が少しずつ垣間見えるようになっていきます。
これが真我に目覚めるための準備になります。
次に、真我を捉えられた場合について。
真我に目覚めるとは、真我を捉えることです。
真我に目覚めることにより、分別が大幅に減り、自我が大幅に薄くなります。
この目覚めに伴って、すべては一つという理解が得られます。
分別が大幅に減ることで自我が薄くなり、それとともに、出来事に対して受け入れることが比較的無理なくできるようになりますので、自我に起因して起こってくる苦しみも大幅に減り、楽になります。
また、分別の減少に伴い、智慧が発現するようになってきます。
そして、その智慧の発現により、真理に対する理解が自ずと進んでいきます。
しかし、この真我の目覚めだけを得た場合では、自我が薄くなったとは言え、いわゆる「自我が落ちた」という段階には至っておらず、分別に惑わされる傾向が残ってしまいます。
また、まだ自我に目覚めていないため、主体性が欠落しやすく、厳しい言い方をすれば全体意識の海の中で溺れてしまいがちです。
すべての事象が考えであることに対する認識もない又は不十分ですから、受け入れることや、愛などのプラス方向の考えに惑わされ、迷いの状態から抜け出すのが困難です。
主体性と分別に対する十分な主導権を得るためには、自我を捉え、次の段階に進む必要があります。
但し、真我に目覚められた方で智慧の発現が活性化しておられる方の場合、智慧の導きにより自然と自我の目覚めに導かれていくこともあるのだろうと思っています。
私の場合も、明け渡しによる真我の目覚めの直ぐ後から智慧の発現がありましたので、マスターゲートさんのもとで自覚について学ぶ前に、智慧の導きにより見性の一歩手前のところまで達していました。
この第一の段階における輪廻との関係については、ラジニーシさんによると、この段階を進むに連れ、肉体へ転生する割合が減っていくとのことです。
しかし私としては、この段階では、仮に肉体転生から一旦離れて天界等に行ったとしても、いずれ再び肉体へ転生する必要があるだろうと考えています。
なぜなら、自我という執着を手放す悟りを得るには、肉体への転生が必要だろうと考えるからです。
自我への目覚めについては、そのためのワーク(技法)があります。
このブログ内に自我に気づくためのワークとして「自覚ワーク」を紹介してますので、興味のおありの方は、右端のブログカテゴリをご参照ください。
真我への目覚めは、自覚や瞑想等により、私という存在の「センター(中心)」を捉えることにより可能です(比較的短い時間でも、捉えられればいいです)。
「センター」とは、分別が生じていない自我不在の状態であり、「いまここ」の状態です。
あるいは、明け渡しによりすべてを受け入れることによっても可能です。
最初に「センター」を捉えたときは、多くの方の場合、至福感や静寂、笑い等の通常と違った感覚が起こってきますので、直ぐに分かります。
但し、この段階での真我に対する理解は、至福感や静寂、愛等の感覚的なものしか得られません。
なお、私は突発的に生じた明け渡しによって真我に目覚めたため、真我に目覚めるための具体的なワーク(技法)やその過程については、余り詳しくはありません。
続きます。
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読んで頂いてありがとうございました。
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<この記事は2月26日に書いたものを、翌27日に大幅に訂正しています>
先週、ラジニーシさんの「奇跡の探求Ⅱ」を読み、それが助けになって、悟りの階梯について理解がクリアになりましたので、書かせていただきます。
なお、ラジニーシさんの理解と私の理解は大凡は一致しているのですが、細部には違いも多々あります。
悟りに関する理解は、体験や内面から湧き起こる確信的な理解に基づく主観的なものですので、各自の理解に異なる部分が生じるのは不可避なのだと考えています。
悟りには、第一から第四の四つの段階があります。
第一の段階は、私という存在の個と全体の二面性のうちの個の意識(自我)又は全体意識(真我)のいずれか一方を捉えた段階です(見性又は真我の気づき)。
第二の段階は、自我と真我の両方を捉えた段階です(覚醒)。
第三の段階は、私という感覚が落ち、ほぼ常に真我を捉えているようになった段階です(真我の完全覚醒)。
第四の段階は、真我も幻であると認識した段階です(実質的な解脱)。
各段階について、以下に簡単に説明していきます。
第一の段階の段階から順に説明していきます。
まず最初に改めて申し上げたいことは、私という存在の個と全体の二面性についてです。
私という存在は、個と全体の二面性を有していて、個の意識要素が創造主としての自我であり、全体の意識要素が真我であるということです。
この二面性を理解することにより、私に対する理解がより容易かつクリアになります。
第一の段階は、私という存在の個の意識(自我)又は全体意識(真我)のいずれか一方を捉えた段階です。
この段階は、悟りの道の入り口です。
この段階では、自我又は真我の一方しか捉えられていないため、アンバランスであり、自我の思考である分別に惑わされる傾向があり、まだ迷いの中にいます。
迷いから抜け出すためには、自我と真我の両方を捉え、次の段階に進む必要があります。
次に、この段階における自我を捉えられた場合と真我を捉えられた場合について個別に説明します。
まず、自我を捉えた場合について。
自我を捉えるとは、創造主としての自身の本性(仏性)に気づくことです。
これを見性と言います。
なお、この「個」という意識要素は、通常の肉体感覚で得られる自我とは本質的に別ものです。
肉体感覚の自我は、あくまで肉体に付随した感覚です。
ここで言う「自我」は、創造主である個の意識のことです。
見性による最大の特徴は、創造主としての自我に目覚めるため、「私」という意識がしっかりし、意思をしっかり自覚して表現できるようになる点です。
このため、意思の実現性も大幅に向上します。
人によっては特殊能力が活性化される方がおられると思います。
また自我の目覚めに伴い、この世界のすべての事象が創造主である自分のつくった考え(思考)であるという一応の認識が得られるため、自分の感情や種々の外的要因に振り回される程度が低下し、楽になります。
但し、意識の状態としては、まだ自我の思考である分別に忙しく、連鎖的に生じる分別に翻弄されやすい状態です。
分別に対する主導権はまだ不十分であり、迷いも多々あります。
分別に対する十分な主導権を得るためには、真我を捉え、次の段階に進む必要があります。
自覚(自分に意識を向ける)を続けていくことにより、分別が減り、それに伴って自我が薄くなっていくとともに、断続的に起こってくる分別の隙間から、全体意識(真我)が少しずつ垣間見えるようになっていきます。
これが真我に目覚めるための準備になります。
次に、真我を捉えられた場合について。
真我に目覚めるとは、真我を捉えることです。
真我に目覚めることにより、分別が大幅に減り、自我が大幅に薄くなります。
この目覚めに伴って、すべては一つという理解が得られます。
分別が大幅に減ることで自我が薄くなり、それとともに、出来事に対して受け入れることが比較的無理なくできるようになりますので、自我に起因して起こってくる苦しみも大幅に減り、楽になります。
また、分別の減少に伴い、智慧が発現するようになってきます。
そして、その智慧の発現により、真理に対する理解が自ずと進んでいきます。
しかし、この真我の目覚めだけを得た場合では、自我が薄くなったとは言え、いわゆる「自我が落ちた」という段階には至っておらず、分別に惑わされる傾向が残ってしまいます。
また、まだ自我に目覚めていないため、主体性が欠落しやすく、厳しい言い方をすれば全体意識の海の中で溺れてしまいがちです。
すべての事象が考えであることに対する認識もない又は不十分ですから、受け入れることや、愛などのプラス方向の考えに惑わされ、迷いの状態から抜け出すのが困難です。
主体性と分別に対する十分な主導権を得るためには、自我を捉え、次の段階に進む必要があります。
但し、真我に目覚められた方で智慧の発現が活性化しておられる方の場合、智慧の導きにより自然と自我の目覚めに導かれていくこともあるのだろうと思っています。
私の場合も、明け渡しによる真我の目覚めの直ぐ後から智慧の発現がありましたので、マスターゲートさんのもとで自覚について学ぶ前に、智慧の導きにより見性の一歩手前のところまで達していました。
この第一の段階における輪廻との関係については、ラジニーシさんによると、この段階を進むに連れ、肉体へ転生する割合が減っていくとのことです。
しかし私としては、この段階では、仮に肉体転生から一旦離れて天界等に行ったとしても、いずれ再び肉体へ転生する必要があるだろうと考えています。
なぜなら、自我という執着を手放す悟りを得るには、肉体への転生が必要だろうと考えるからです。
自我への目覚めについては、そのためのワーク(技法)があります。
このブログ内に自我に気づくためのワークとして「自覚ワーク」を紹介してますので、興味のおありの方は、右端のブログカテゴリをご参照ください。
真我への目覚めは、自覚や瞑想等により、私という存在の「センター(中心)」を捉えることにより可能です(比較的短い時間でも、捉えられればいいです)。
「センター」とは、分別が生じていない自我不在の状態であり、「いまここ」の状態です。
あるいは、明け渡しによりすべてを受け入れることによっても可能です。
最初に「センター」を捉えたときは、多くの方の場合、至福感や静寂、笑い等の通常と違った感覚が起こってきますので、直ぐに分かります。
但し、この段階での真我に対する理解は、至福感や静寂、愛等の感覚的なものしか得られません。
なお、私は突発的に生じた明け渡しによって真我に目覚めたため、真我に目覚めるための具体的なワーク(技法)やその過程については、余り詳しくはありません。
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