◇「誰がそう考えている」◇
私たちはよく、悟りに関連することや何かの考えを握りしめてしまいます。
場合によっては、その考えを正しいものだと思い込み、他の人に対してその正しさや素晴らしさについて評価を求めてしまいます。
そして、その考えを否定されると強く憤慨したりもします。
端で見ているとまるで喜劇なのですが、本人にとってはとても真剣であり、切実であり、場合によっては深刻だったりもします。
何かの考えを握りしめているときは、自覚(自分に意識を向ける)ができてないのです。
しかしそれは、私という存在の本質に気づけるチャンスでもあるのです。
そのピンチをチャンスに変えるのが、
「誰がそう考えている」
という自分への問いかけです。
何かの考えに囚われてしまっているなあ、と自分で思ったときは、
「誰がそう考えている」と、自分に問いかけてみてください。
その瞬間、あなたにハッとするような気づきが訪れるかも知れません。
<余談です>
実は、上の「誰がそう考えている」は、マスターゲートさんのいつもの決め台詞なのです。
講話のときなどに、私たちはよく質問等の形で自分の考えをゲートさんに問いかけるのですが、ゲートさんは微笑みながら「誰がそう考えている」と言うだけで質問に答えてくれないことが多いのです。
ゲートさんはそうやって、私たちの気づきを促していたのです。
コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。
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私たちはよく、悟りに関連することや何かの考えを握りしめてしまいます。
場合によっては、その考えを正しいものだと思い込み、他の人に対してその正しさや素晴らしさについて評価を求めてしまいます。
そして、その考えを否定されると強く憤慨したりもします。
端で見ているとまるで喜劇なのですが、本人にとってはとても真剣であり、切実であり、場合によっては深刻だったりもします。
何かの考えを握りしめているときは、自覚(自分に意識を向ける)ができてないのです。
しかしそれは、私という存在の本質に気づけるチャンスでもあるのです。
そのピンチをチャンスに変えるのが、
「誰がそう考えている」
という自分への問いかけです。
何かの考えに囚われてしまっているなあ、と自分で思ったときは、
「誰がそう考えている」と、自分に問いかけてみてください。
その瞬間、あなたにハッとするような気づきが訪れるかも知れません。
<余談です>
実は、上の「誰がそう考えている」は、マスターゲートさんのいつもの決め台詞なのです。
講話のときなどに、私たちはよく質問等の形で自分の考えをゲートさんに問いかけるのですが、ゲートさんは微笑みながら「誰がそう考えている」と言うだけで質問に答えてくれないことが多いのです。
ゲートさんはそうやって、私たちの気づきを促していたのです。
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