私を知る

自覚を中心に悟りのヒントを書いています。自覚とは「私」に意識を向け、一切は「私」の考えであることを自覚していくことです。

私の体験談(大悟後から解脱の悟りまで)(5)

2014年12月03日 22時29分11秒 | 私の体験
◇私の体験談(大悟後から解脱の悟りまで)(5)◇

今回の記事では、私が解脱の悟りに至ったときの経緯等について書きたいと思います。

2014年1月23日の「一切皆苦」の悟りは、私にはとても大きな衝撃でした。
ひょっとするとこれで自分は解脱するのかとか、今度こそ解脱したのかと思ったりもしました(笑)。
また、私の中に常にある苦しみから解放されたのかと思ったりもしました。

しかし、それらはどれも私の誤解でした。
「一切皆苦」を理解して暫くの間は、これはちょっと凄いことが分かったぞと思い意識も高揚し、何だか晴れやかな気分になり、苦しみも忘れていました。
でも、それから一週間から二週間が経つ頃には、何だかもやもやした晴れない感覚や、苦しみが私の中に生じるようになり、それらに再び目を向けるようになっていました。
そして、解脱の悟りを得る2月11日の3日ほど前には、私の中のもどかしさや苦しみが大きくなっていて、それらに目を向けずにはいられなくなっていました。

そうしているうち、とても微妙な感触うまく表現できないのですが、私の中に、苦に対する不思議な感覚というか感触があることに気づいたのです。
最初は、ふっと感じる一瞬の感触でした。
私という存在そのものが「苦」であるというか、そんな感触がふっと瞬間的に起こったのです。
そして、その感触に意識を向けていくうち、2日くらいかけて段々と、その感触をより深く捉えられるようになっていきました。

そして、解脱の悟りを得る前日の2月10日には、その感触は、私という存在の根底に、不足感のような漠然とした否定的な感覚(考え)があるのだという確信になっていました。
そのような確信を得た私は、これはとても興味深いことが分かったと思い、明日職場に行ったらそのことをブログに書こうと思い、その日は寝ました。

そして、2月11日の朝、職場に到着し、パソコンを立ち上げ、昨日自分が得た確信をブログに書こうとした瞬間、解脱の悟りが起こりました。

そのとき、私という存在の根本的な性というか姿に対する理解が起きたのです。

私という存在の根底には、もどかしさや不足感のような漠然とした否定的な感覚(考え)があり、私という存在は、その根底にある否定的な考えを起点として連鎖的に起こっている考えであるということがハッキリと分かったのです。

それと同時に、私は、その根底にある否定的な考えである「苦」を握りしめ、その「苦」をどうにかしようとして、あるいはその「苦」から逃れようとして延々と彷徨っていたんだということがハッキリと分かったのです。

そしてその瞬間、私が握りしめていた最後の考えである「苦」に対する手放しが起きました。

これが、解脱の悟りでした。


この2月11日の朝起きたことは、ほんの一種の出来事でした。
ハッとするような感触ではなく、意識が小さく「あっ!」と静止するような意外なほど小さな感触でした。

でもそこには、モヤモヤとしていた自分の意識がパッと晴れたようなスッキリした感覚とともに、うまく表現できない微妙な感触ではありますが、「終わった」、あるいは「終わったのかな? どうやらそういうことだな」という感触がありました。


それから1週間ほど経ったころ、ネットを散策していたら、お釈迦さまが仰った「無明」について書かれたサイトに偶然行き当たりました(どのサイトかは忘れました)。
そして、そのサイトに書かれた「無明」に関する文章を読んだとき、お釈迦さまが得られた悟りと自分が得たものが同じであると直ぐに確信しました。
なぜそんな確信が起きたのか自分でもよく分からないのですが、そのような確信が起きました。


以上が解脱の悟りに至るまでの私の体験です。

この後、解脱の悟り後の私の意識の変化や、どんな感じかについて少し書いてみたいと思っています。


コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。

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