◇大悟と解脱の悟り◇
今日は、大悟と解脱の悟りとその周辺のことについて書いてみたいと思います。
なお、大悟とは、真我(空)に完全に覚醒する悟りのことで、解脱の悟りとは、無明を理解することであり、一切の考えを掴まなくなることです。
大悟を得ると、ある部分で解脱の悟りと似た意識の変化というか理解が起きるため、大悟と解脱の悟りを混同しておられる方が多いです。
歴史上の著名な師匠と呼ばれる方々にも誤解が多いようです。
大悟の観点からは、自分の理解と解脱の悟りによる理解との違いが見え難いのです。
解脱の悟りを得ると、その違いをハッキリと認識できるようになります。
まず、大悟の悟りについて改めて簡単に説明したいと思います。
大悟を得ると、私という自我がほぼ完全に消滅します。
このため、自我が積極的に新たな考えをつくったり、考えを握りしめて引き摺ったりすることがほぼ無くなります。
つまり、新たなカルマ(執着)をつくらなくなります。
その結果、大悟の後の残りの人生で、残っている残りカルマが消費されると、肉体が滅ぶのに伴って、カルマ(執着)がほぼ完全に一旦解消されます。
しかし、大悟の段階では、大悟に関連した概念、例えば真我(空)や大悟の理解を手放せてないのです。
真我や大悟の理解を掴んでいるのです。
何かの考えを掴むのは、私という自我がすることですから、自我もまだ完全には滅し切れてないのです。
また、考えを掴んでいますから、その掴んだ考えがカルマ(執着)となります。
なお、大悟の段階でも無明に関する限定的な理解が生じることがあるようですが、理解が不完全であるため、大悟に関連した考えを手放せないのです。
よって、肉体が滅んだとき、その存在は解脱せずに、その時点で掴んでいる考え(執着)に関連した何らかの存在が残ります。
この残った存在のことを梵天と言ったりするようです。
梵天には寿命があり、その寿命が尽きると、また地上に肉体を持って生まれてくるのだろうと私は理解しています。
つまり、大悟はまだ輪廻の中なのだと私は理解しています。
一方、解脱の悟りを得た存在は一切の考えを掴むことが無くなっていますから、私という自我も完全に滅せられています。
自我が完全に滅せられたから、考えを一切掴めなくなるのか、あるいは、考えを一切掴まなくなったから、自我が完全に滅せられたのか、ここは鶏と卵の関係、あるいはケースバイケースだと思います。
解脱の悟りを得た存在は、一切の考えを掴みませんから、解脱の悟りも掴まないのです。
よって、解脱の悟りを得た存在は、その後の人生で残りカルマを消費すると、肉体が滅んだとき、一切の執着(カルマ)が無いため、解脱するのです。
解脱せざるを得ないのです。
余談ですが、悟りの階梯は上に進むほど、悟りにより得られる理解や実感がシンプルかつ明解になります。
解脱の悟りでそれを最も顕著に実感できます。
誰かに教えてもらう必要などありません。
それに至ったことが自分でハッキリと分かります。
コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。
<補足です(2014年5月23日)>
上で、大悟とは真我に完全覚醒することだなんて書いてしまいましたが、大悟のとらえ方にはいろいろのようですね。(^o^)
解脱の悟りのことを大悟という人もおられるようだし。
何分、業界のことをよく知らないで書いているものですから、多目に見てやってください。(^o^)
スピリチュアル ブログランキングへ
今日は、大悟と解脱の悟りとその周辺のことについて書いてみたいと思います。
なお、大悟とは、真我(空)に完全に覚醒する悟りのことで、解脱の悟りとは、無明を理解することであり、一切の考えを掴まなくなることです。
大悟を得ると、ある部分で解脱の悟りと似た意識の変化というか理解が起きるため、大悟と解脱の悟りを混同しておられる方が多いです。
歴史上の著名な師匠と呼ばれる方々にも誤解が多いようです。
大悟の観点からは、自分の理解と解脱の悟りによる理解との違いが見え難いのです。
解脱の悟りを得ると、その違いをハッキリと認識できるようになります。
まず、大悟の悟りについて改めて簡単に説明したいと思います。
大悟を得ると、私という自我がほぼ完全に消滅します。
このため、自我が積極的に新たな考えをつくったり、考えを握りしめて引き摺ったりすることがほぼ無くなります。
つまり、新たなカルマ(執着)をつくらなくなります。
その結果、大悟の後の残りの人生で、残っている残りカルマが消費されると、肉体が滅ぶのに伴って、カルマ(執着)がほぼ完全に一旦解消されます。
しかし、大悟の段階では、大悟に関連した概念、例えば真我(空)や大悟の理解を手放せてないのです。
真我や大悟の理解を掴んでいるのです。
何かの考えを掴むのは、私という自我がすることですから、自我もまだ完全には滅し切れてないのです。
また、考えを掴んでいますから、その掴んだ考えがカルマ(執着)となります。
なお、大悟の段階でも無明に関する限定的な理解が生じることがあるようですが、理解が不完全であるため、大悟に関連した考えを手放せないのです。
よって、肉体が滅んだとき、その存在は解脱せずに、その時点で掴んでいる考え(執着)に関連した何らかの存在が残ります。
この残った存在のことを梵天と言ったりするようです。
梵天には寿命があり、その寿命が尽きると、また地上に肉体を持って生まれてくるのだろうと私は理解しています。
つまり、大悟はまだ輪廻の中なのだと私は理解しています。
一方、解脱の悟りを得た存在は一切の考えを掴むことが無くなっていますから、私という自我も完全に滅せられています。
自我が完全に滅せられたから、考えを一切掴めなくなるのか、あるいは、考えを一切掴まなくなったから、自我が完全に滅せられたのか、ここは鶏と卵の関係、あるいはケースバイケースだと思います。
解脱の悟りを得た存在は、一切の考えを掴みませんから、解脱の悟りも掴まないのです。
よって、解脱の悟りを得た存在は、その後の人生で残りカルマを消費すると、肉体が滅んだとき、一切の執着(カルマ)が無いため、解脱するのです。
解脱せざるを得ないのです。
余談ですが、悟りの階梯は上に進むほど、悟りにより得られる理解や実感がシンプルかつ明解になります。
解脱の悟りでそれを最も顕著に実感できます。
誰かに教えてもらう必要などありません。
それに至ったことが自分でハッキリと分かります。
コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。
<補足です(2014年5月23日)>
上で、大悟とは真我に完全覚醒することだなんて書いてしまいましたが、大悟のとらえ方にはいろいろのようですね。(^o^)
解脱の悟りのことを大悟という人もおられるようだし。
何分、業界のことをよく知らないで書いているものですから、多目に見てやってください。(^o^)
スピリチュアル ブログランキングへ
悟りを開いたら、悟りが絶対の真理となり残るから
悟りを落とす修行が必要だ。それが悟後の修行とか。
悟りをも落としきって釈尊と同じ境涯になるのだとか。
しかし、すい空さん、
すい空さんの言う、真我がいわゆる至福で幸せであり
それを手放したくないほど覚者が拘るなら、幸せは
幸せでそれのほうが、解脱より良いのではU+2754と思うの
が凡人の思うところですがどうなのでしょうか。
もう一つ。では解脱して二度と生まれ変わる事ない魂は何処へいくのでしょうか。U+2754U+2754
>すい空さんの言う、真我がいわゆる至福で幸せであり
それを手放したくないほど覚者が拘るなら、幸せは
幸せでそれのほうが、解脱より良いのではU+2754と思うの
が凡人の思うところですがどうなのでしょうか
それがいいと思うのでしたら、そうされたよろしいのではないですか?
それだけの話しです。
>もう一つ。では解脱して二度と生まれ変わる事ない魂は何処へいくのでしょうか
解脱したら、存在がどうなるのかは誰にも分からないんです。
実のところ、本当に輪廻を脱するのかも分からないし、輪廻という現象があるのかないのかということさえ、本当のところは誰にも分かりません。
ですから、仮に解脱という現象があったとしても、解脱後に存在がどうなるのかは、誰にも分からないのです。
ありがとうございます。
ではすい空さん(すいません漢字でなくて)
解脱(すい空さんの言う)状態と悟ってない状態の
普通の人の状態と、違いは何なのでしょうか。
結局は似たような状態になる、、風な文章をお見かけ
しましたので、、。
>普通の人の状態と、違いは何なのでしょうか。
その違いをもっとも端的に言えば、囚われがないんです。
囚われがないから、何も引き摺るものがないんです。
だから、後悔もない。
また、別の観点からの言い方だと、私は一切が苦であることを知っていて、それだからこそ、苦に対する囚われが無いというか、苦を何とかしようとする衝動が無いんです。
だから、迷いも無いんです。
最終的な悟りに至ると、確かに、普通の人に戻ったような感覚になる部分があるのですが、しかし、普通の人と同じはずは無いんです。
さっそくのご回答ありがとうございます。
もう一つ良いでしょうか。
全て解脱までには行しかないと思うのですが、
私も、最終的な到達点は、多くの覚者たちが留まっ
てしまうと仰る、第三の段階である真我覚醒だと思っていました。
また、それが素晴らしい境涯に違いないとも。
ですので、ハートのワークを徹底的にやろうと思って
やってましたが、それは幻に過ぎないという解脱(すい空さんのいう)の状態からの視点の文面をみて、
はて、幻ならハートに集中してわたしを溶かしても、
よいものなのか、頭がハテナ、ハテナになってしまい
ました。とりあえず多くの覚者たちが、勘違いしてい
る真我覚醒(すい空さんの言う大悟)を目指そうと、思うのですが、、。
ハートは感じますし、いつでもどこでも意識できます
が、とりあずハートのワークをやる方向性で良いの
でしょうか^^;
修行の方向性が定まりません。
何卒宜しくお願い致します。
その違和感はどんどん増大し、ハート、あるいはハートの中心にあるコアを破壊し、消滅させてたいというとても強い衝動が起こるようになりました。
そこには、ハートや「私」に対する憎悪や怒りのようなものもありました。
私は、それらの強い力や衝動を使って、ハートを破壊するべく、ハートに集中したんです。
また、このハートへの破壊衝動は、どうしようもなく湧き起ってくるものでした。
おそらく、それを意図してやろうとおもってできるものではないだろうと思っています。
そのように、私(慧空)に限らず、大悟に関しては、突き進むようなとても強い衝動が必要なのだろうと思っています。
どうしても超えて行かざるを得ない、何かが必要なんです。
このような観点から、ご自分のことを振り返ってみて頂きたいと思います。
また、ハートが幻であるという点に関してですが、「私」が幻(考え)なのですから、ハートも幻なんです。
それはそうなんです。
悟りも、考えであり、幻なんです。
すべて幻なんだから、どうだっていいと言えばそうなのですが、それで納得できるはずはないんです。
頭で幻だと考えているだけだから。(^o^)
「ハート」も、「私」も、私(慧空)がよく言う「苦」も、悟りに導くための考えであり、方便の一つなんです。
しかし、この方便がとても有効に働くことがあるんだということなんです。
但し、方便であり、考えですから、絶対はないんです。
ありがとうございます。
実際わたしはハートを開いてませんし、見るもの
見られるものといった感覚もわかりません。
一度だけそのような体験をしたコトはある程度です。
ただし、この世の全ての事で解脱するコト以上に
重要な事はあるのだろうかと感じてるだけです。。
葉隠という書物に、「神秘に閉ざされたことや広大無辺のことは、分からないのが当然だ。簡単に分かることは浅薄な知識のみである」
とありますが、私の老師にいわゆるワンネス的な体験を語ろうとも、禅でこんな体験したなど話し、どうなのでしょう。と聞いたら、ニコやかに、
「わからん」
としか返ってきませんでした。笑
すい空さんも、分からないものは分からないとの事
ですので、とても信用できます。
とは言っても幻の世。自らのみに依拠してやってみます。ありがとうございます^ ^