◇仏教に欠けているもの(1)◇
これまでは、このような直接的な言及は控えてきたのですが、考えが変わりまして、ダメなものはダメと言っていくことにしました。
仏教に欠けているものとは、解脱です。
(ご意見やご批判等はお受けしますので、コメント欄等ご遠慮なく。)
今となっては釈迦が解脱していたのかどうかもわからないのですが、現代に伝わる仏教の系統に、解脱が見受けられないため、始祖である釈迦は本当に解脱していたのかと疑いたくなります。
ハッキリ書いてしまうと、大乗の系統は龍樹も含めて、解脱者は一人もいないのではないかと見ています。
南伝の系統も、どうなんでしょう、解脱者がいるのかどうか、大いに疑問だと見ています。
アーチャン・チャーはひょっとすると解脱しているのかもと思ったりもしていますが、やっぱり違うのかなぁと見ています。
その理由は、仏教全体として苦に対する着眼が浅く、弱いのです。
大乗系は全くという程欠落しています。
南伝系も一部で薄っすらと残っているのかもしれませんが、大半の系統で欠落してしまっているのではないかと見てます。
この仏教の不甲斐なさの一番の原因は何か。
それは、私を捉えることの大切さをわかっていないのです。
実は、悟りの行程を歩む際、私を捉えることが最も大切な要になっているのです。
仏教はそれをわかっていないのです。
釈迦が何を語ったのか、実は殆ど知らないのですが、「私を捉えろ」等の話は聞いたことがありません。
(この点、もし釈迦が語っていたという文献があれば、教えていただきたいと思います。)
私とは、肉体も含めた私という存在そのもののことです。
もちろん、私には実体は無く、あるとも無いとも言えない、いくら追及しても本質的によくわからないものです。
しかし、この私こそが悟り行程の節目節目において要になっているのです。
例えば、小悟では私とは真我(観照意識、気づきの意識)であると悟るのですが、それなりに私を捉えていないと、この悟りは起こりません。
また、大悟では私とは意識であり、世界そのものであると悟るのですが、これも私を捉えていないと到達できません。
さらに、解脱では私、即ち世界とは苦であると悟るのですが、これも私を捉えていないと到達できません。
釈迦も含めて仏教は、私を捉えるという観点が余りに弱かった、あるいは欠落していたのです。
そのことは、釈迦が語った言葉にハッキリと表れています。
釈迦は無我という言葉を使いました。
一切に実体は無いという意味で無我という言葉を使ったようですが、文字を素直に読めば、自我が無いかのように読めてしまい、そのような誤解も生じてしまいます。
釈迦はどうしてそのような中途半端な言葉を使ったのか。
彼は私を捉えることの大切さを理解していなかったと考えざるを得ないのです。
<追記>
仏教に欠けている大変重要な要素がもう一つありましたので、後日続きを書くことにしました。
◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
◇自覚の要領をひとつにまとめた有料記事「自覚のヒント」のご案内はこちらです。
◇有料のスカイプ個人セッションのご案内は、こちらです。
コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。
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今となっては釈迦が解脱していたのかどうかもわからないのですが、現代に伝わる仏教の系統に、解脱が見受けられないため、始祖である釈迦は本当に解脱していたのかと疑いたくなります。
ハッキリ書いてしまうと、大乗の系統は龍樹も含めて、解脱者は一人もいないのではないかと見ています。
南伝の系統も、どうなんでしょう、解脱者がいるのかどうか、大いに疑問だと見ています。
アーチャン・チャーはひょっとすると解脱しているのかもと思ったりもしていますが、やっぱり違うのかなぁと見ています。
その理由は、仏教全体として苦に対する着眼が浅く、弱いのです。
大乗系は全くという程欠落しています。
南伝系も一部で薄っすらと残っているのかもしれませんが、大半の系統で欠落してしまっているのではないかと見てます。
この仏教の不甲斐なさの一番の原因は何か。
それは、私を捉えることの大切さをわかっていないのです。
実は、悟りの行程を歩む際、私を捉えることが最も大切な要になっているのです。
仏教はそれをわかっていないのです。
釈迦が何を語ったのか、実は殆ど知らないのですが、「私を捉えろ」等の話は聞いたことがありません。
(この点、もし釈迦が語っていたという文献があれば、教えていただきたいと思います。)
私とは、肉体も含めた私という存在そのもののことです。
もちろん、私には実体は無く、あるとも無いとも言えない、いくら追及しても本質的によくわからないものです。
しかし、この私こそが悟り行程の節目節目において要になっているのです。
例えば、小悟では私とは真我(観照意識、気づきの意識)であると悟るのですが、それなりに私を捉えていないと、この悟りは起こりません。
また、大悟では私とは意識であり、世界そのものであると悟るのですが、これも私を捉えていないと到達できません。
さらに、解脱では私、即ち世界とは苦であると悟るのですが、これも私を捉えていないと到達できません。
釈迦も含めて仏教は、私を捉えるという観点が余りに弱かった、あるいは欠落していたのです。
そのことは、釈迦が語った言葉にハッキリと表れています。
釈迦は無我という言葉を使いました。
一切に実体は無いという意味で無我という言葉を使ったようですが、文字を素直に読めば、自我が無いかのように読めてしまい、そのような誤解も生じてしまいます。
釈迦はどうしてそのような中途半端な言葉を使ったのか。
彼は私を捉えることの大切さを理解していなかったと考えざるを得ないのです。
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仏教に欠けている大変重要な要素がもう一つありましたので、後日続きを書くことにしました。
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