◇幸せを捨てる◇
今朝ある方のブログを読んでいて改めて思ったことがありまして、それを書いておきたいと思います。
幸せを求めているうちは、あるいは幸せを掴んでいるうちは、まだ深い迷いの中なんです。
私がそう言ってもなかなかご理解頂けないでしょうし、むしろ反発される方が大半でしょうが、そういうことなんです。
最終的な悟りに至るまでのどこかで、幸せを捨てること、あるいは幸せを捨てる覚悟が必要なんです。
つまり、幸せを求めないこと、幸せにしがみつかないようになることが必要なんです。
その理由は、私たちの迷いの根本が苦からの解放を求める衝動だからです。
私たちはつい、幸福、それも絶対的なものを求めてしまいます。
しかし、絶対的な幸福なんてどこにも存在しないのです。
確かに表面的に幸せを感じることはあります。
しかし、それは一時的に訪れては過ぎ去っていく幻なんです。
幸せを捨てたとき、その方の日常は少なからず影響が出ると思います。
そのとき、その方の日常がどう変化するかは人それぞれなんだと思います。
中には日常生活が崩壊してしまう方もおられるのかもしれません。
私の場合は、仕事は一旦完全に崩壊し、家庭も崩壊寸前まで行きました(いまも微妙な状態は続いていますが、笑)。
この幸せにまつわる迷いの構造に何となくでも気づけたものだけが、最終的な悟りに向けて先を進んでいくことができます。
この道はそういう道です。
◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
◇セッションのご案内はこちらです。
※次回の講話セッション、個人セッションは6月28日(日)です(上のリンクを参照ください)
コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。
哲学・思想 ブログランキングへ
今朝ある方のブログを読んでいて改めて思ったことがありまして、それを書いておきたいと思います。
幸せを求めているうちは、あるいは幸せを掴んでいるうちは、まだ深い迷いの中なんです。
私がそう言ってもなかなかご理解頂けないでしょうし、むしろ反発される方が大半でしょうが、そういうことなんです。
最終的な悟りに至るまでのどこかで、幸せを捨てること、あるいは幸せを捨てる覚悟が必要なんです。
つまり、幸せを求めないこと、幸せにしがみつかないようになることが必要なんです。
その理由は、私たちの迷いの根本が苦からの解放を求める衝動だからです。
私たちはつい、幸福、それも絶対的なものを求めてしまいます。
しかし、絶対的な幸福なんてどこにも存在しないのです。
確かに表面的に幸せを感じることはあります。
しかし、それは一時的に訪れては過ぎ去っていく幻なんです。
幸せを捨てたとき、その方の日常は少なからず影響が出ると思います。
そのとき、その方の日常がどう変化するかは人それぞれなんだと思います。
中には日常生活が崩壊してしまう方もおられるのかもしれません。
私の場合は、仕事は一旦完全に崩壊し、家庭も崩壊寸前まで行きました(いまも微妙な状態は続いていますが、笑)。
この幸せにまつわる迷いの構造に何となくでも気づけたものだけが、最終的な悟りに向けて先を進んでいくことができます。
この道はそういう道です。
◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
◇セッションのご案内はこちらです。
※次回の講話セッション、個人セッションは6月28日(日)です(上のリンクを参照ください)
コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。
哲学・思想 ブログランキングへ
苦と向き合っておられるのですね。
苦しみを感じているときもできるだけちゃんと自覚をやって頂きたいと思います。
シャキッと自覚をやりながら、苦しんで頂きたいと思います。
苦しみに酔うことなく、苦しみと向き合って頂きたいと思います。
そして、苦しみを感じているときの自分自身の心の動きを観察し、自覚して頂きたいと思います。
苦を受け入れたらどうなるか等の詮索や期待はできるだけ、脇に置いておいてください。
そうなんです。
ただ、そういったやり取りすべてが無駄なのかというと、そうでもなかったりするんです。
無駄なんてどこにもないと言ったりもするでしょ。
あれはある意味当たっていると思います。
それと、一見すると無駄に見えるようなやり取りの中からでも、人によってはピンと何かを感じ取る人もいるんだと思います。
>彗空さんは大乗仏教系の文献や人物も隅々まで調べ尽くしてますしね~
そんなことないんですよ。
経典類は殆ど読んだことがないんです。
ネットで紹介されている部分部分をあちこちで拾い読みした程度です。
でも、こんなことを言ったら仏教徒の方々に怒られるでしょうが、経典類のエッセンスや、経典類のいい加減さは、十分に理解しているつもりです。(^o^)
こんな質問してたらキリないですしね(苦笑)
彗空さんは大乗仏教系の文献や人物も隅々まで調べ尽くしてますしね~
大和田さんのことは、私は殆ど存知上げないのです。
大和田さんの本や動画を見ればどういう悟りかはおそらく直ぐに分かるのだと思います。
ですが、私はそうすることに興味がありませんし、もし分かってもそれをここでわざわざ公表するようなことはないと思います。
私が誰かの悟りの判定についてそれを余り公表しないのは、いろいろな理由があります。
まずは、基本的にそういう情報は不要な情報だからです。
また、公表することによる影響に対する配慮や、無駄な影響を回避しようとする本能的な意図もあります(しかし、一部の例外として、自分でもなぜか分からないのですが、それを公表してしまうこともあります)。
しかし、私には既存の概念や構造を打ち壊したいという破壊衝動がありまして、その衝動が強く出るときは、公表するときもよくあります。
例えば、私はウパニシャッドの系列や大乗系仏教系の系列に対しては、破壊衝動が起こります。
悟りが何なのかわかりませんので、求めることもありませんが、衝動的に湧きあがった質問に頂いたお答えで、「ははーん、そこか」と思った次第です。
私も満足です。どーもー(^O^)
この囚われに関連して起こってくる楽を求める衝動が、最も根本的な迷いの衝動なんです。
最後には、これを停止させることになります。
うまく表現できないのですが、その衝動は、苦を感じたときに自動的に起こってくるのですが、その対象はどんな苦でもすべてにおいて起こってきます。
どうやら、私たちの存在の根本に、苦を感じたときに、その苦をなんとかしなきゃいけないとか、どこかに苦が解消された楽な状態があるはずだ等の握り締めた考え(囚われ)があるようなのです。
それで、何かの苦を感じたときに、その囚われにより、その苦をなんとかしようとする衝動が発作的に起こっているようなのです。
最終的な悟りを得る最後の局面では、その苦をめぐる根本の囚われに気づくか、あるいは、その囚われとの関連で、自分に発作的に延々と起こっているその衝動に気づく必要があるんです。
それに気づけば、ハッとなり、その衝動が止まるんです。
ですから、最終的な悟りを得た人にも、楽を求める衝動はちゃんとあるんです。
そして、それは上記の一つ目の衝動が残っているんです。
そして、最終的な悟りに到達していない人には、苦を感じたときに、上記の一つ目の衝動と、二つ目の衝動が重ね合わされた状態で、起こっているんです。
こんな感じです。
一応、二つの衝動についてお話ししましたが、こう書いておいて何ですが、衝動には二つの種類があるということを本当に理解できるには、二つ目の衝動が完全に停止した後になるです。
ですから、この話は余り書いても、余計な知識になるだけなんです。
でももし、少しでも、何かを感じて頂ける方がいるかもしれないと思い、書いてみました。
にゃん太郎(♀)さんのお陰で、ここ数ヶ月の間、書こうしてかけなかったことが少し書けました。
ありがとうございました。
満足です。(*^_^*)
>私は楽な方が好きですが、これも囚われですか?ちなみに、悟りたいとは思いません。
ですから、上で書いたように、楽を求めるようになると、それはもう既に、楽に囚われている状況なのです。
と一応、書きましたが、この楽を求める衝動は、そう単純なものではないんです。
ここから先の話は、書こうかどうしようかかなり迷ったのですが、ひょっとすると、お分かりになる方もおられるのかもしれないと思い、書いてみることにしますね。
最終的な悟りを得ていくときの最終的な局面では、楽を求める衝動を落ち着かせていくことになるのですが、人によって違うでしょうし、かなり微妙なところがあるんです。
どういうことかと言いますと、楽を求める衝動には、2つの衝動があるんです。
一つ目は、普通に楽を求める当たり前の衝動であり、これは囚われとは関係なく、ただ起こってくる衝動です。
受け取るだけの衝動と言ってもいいです。
例えば、身体が疲れたので休みたい等の衝動は、多くの場合、当たり前の衝動であり、最終的な悟りを得る際に滅する必要もないんです。
この衝動は、それなりに薄くはなりますが、最終的な悟りを得た後もちゃんと残ります。
二つ目の衝動は、握り締めた囚われと関連して起こってくる衝動です。
最終的な悟りに進んでいく局面で、この衝動を除去し、停止させていくことになります。
停止させると言っても、停止させようと積極的に何かをするのではなく、その衝動を起こしている囚われや、その衝動そのものに、自覚を使って気づけば、囚われもろとも、その衝動が停止するんです。
それで、楽を求める二つ目の衝動を具体的に説明しようと、実は数ヶ月前からずっと考えているのですが、いまだにそれは成功していません。
いい機会なので、ちょっと頑張ってみますね。(^^)
また一旦切ります。
>囚われに気づいて、楽になるという感じ
この感覚については、まさにその通りだと思いますよ。
囚われに気づき、囚われが減っていくほど、感情や思考に翻弄される度合いも、ストレスを感じる度合いも、薄く軽くなっていきますから。
ですから、その意味では、私(慧空)は、この世界でもっとも楽になっているものの一人と言えます。
そういう意味では、確かにちょう楽です。(^o^)
私が感じている苦しみやしんどさは、私という存在そのもの、あるいはこの世界そのものに否応なく付き合わされ、引きづり回されることによる苦しみやしんどさです。
でも、この苦しみやしんどさは、確かにやっかいなものではありますが、当たり前の苦しみであり、普通のくるしみですから、大したことはありません。
うっとうしいのは確かですが、決してそれに翻弄されることもありませんし。
脱線してしまいました。(^o^)
話を続けますね。
>楽になった、わーい、というのも楽を良しとしているからでしょうか。
このあたりは、人それぞれであり、また微妙なところでもありますから、それが囚われになっているかどうかは、もう少し具体的にお話しをお伺いする必要がありますが、
囚われになってしまっている可能性はあると思います。
楽という感覚そのものは、多くの場合、囚われではなく、ただ起こってきている普通の感覚です。
ですが、人は、何らかの変化に起因して楽という感覚を起こってくると、その楽という感覚や、楽という感覚を誘発した状況や環境等を掴んでしまうのです。
そして、その楽という感覚を継続させたいとか、また得たいと思うようになります。
これは、楽を掴んで囚われてしまっている典型的なパターンの一つです。
一旦切りますね。
私のブログを貴重と言ってくださり、ありがとうございます。
何か気になられることがあれば、遠慮なく気軽に質問ください。
私は楽な方が好きですが、これも囚われですか?ちなみに、悟りたいとは思いません。
でも、こちらのブログは好きで、ちょこちょこ読ませて頂いてます。
ものすごく貴重なブログだと感じました。
すごく参考になります。ありがとうございます。また寄らせて頂きたいと思います。
おそらく、この執着は当たり前の執着だと思います。
囚われではありません。
親が子に対して無条件に頂く真っ直ぐな思いは、ただ起こってくる考えであり(当たり前の執着と言ってもいいです)、それは受け取るだけものですので、ただ受け取っていればいいんです。
囚われに関連して起こってくる考え(執着を含みます)は、うまく表現できませんが、真っ直ぐでないんです。
もっとこうだったらこうなるのに等の条件付けが含まれていたり、判断が入っている場合が多いです。
ですから、
>身体の不定愁訴不調を脱した形で周りの人々と接したい
という思いについては、Unknownさんの何らかの囚われが含まれていると思います。
だから何だと思われるかもしれませんね。
ですが、悟りの道を歩んできた私や、これからも歩んで行こうとしている人にとっては、この囚われに気づいていくことこそがその一歩一歩の歩みなります。
ですから、私としても、ここでそういう指摘ばかりを、バカの一つ覚えのようにしてやっております。
彗空さんの仰る通り私には離れて暮らす息子(もうすぐ2歳)と一緒に居たいという執着と、身体の不定愁訴不調を脱した形で周りの人々と接したいという幸せへの囚わがあるのです。
クセって、うっかり見過ごしやすいのでしょうね。
最近は、充足感も何もない時の方が多いかもしれません(笑)
実は自分でもよく分からないのです。
不幸でも、幸せでもないという感じでしょうか。
苦しみやしんどさを感じているときが多いので、敢えて言えば幸せじゃないと言った方がいいのかもしれません。
でも、それがどうかしましたか?
Unknownさんはどうして、それが気になられるのですか?
そこにUnknownさんの囚われがちらっと見えますよ。
幸せへの囚われについては、簡単にお伝えするのはとても難しいところなんです。
自分に意識を向けて、自分の意識の動きをよく観察して頂きたいと思います。
自分で確かめて頂くしかないと思います。
少しだけコメントしますと、おそらく充足感は囚われの一つだと思います。
また、自分が何も求めていないと思っていても、よくよく観察すると、無意識のうちにクセのようにやっていることが結構あります。
この手の迷いや囚われは結構根深いものです。
何も求めていなくても、幸せをつかんでいることになるのでしょうか?