◇「空」という理解について◇
私がこんなことを書くと、仏典もろくに読んだことのないヤツが適当なことを言うなとその道の方々に叱られそうですが、構わず書きます。(^o^)
今日はかなり強烈なことも書いてしまおうと思っています。(^o^)
私は、仏教、特に空思想を基本とした仏教系列には、大悟(空の悟り、あるいは真我の完全覚醒)は伝承されているものの、最終的な悟りである解脱の悟りについてはしっかりとした伝承がもう無いのではないかと思っています(とうとう言うてしもた、(^o^))。
そう思う理由は単純明快でして、そこには「空」の理解に関する雰囲気しか感じられず、解脱の理解に関する雰囲気が感じられないからです。
「空」の理解では足りないのです。
「空」と言ったとき、抜け落ちるものがあるのです。
今日はそのことについて書いてみたいと思います。
まず、原点に立ち戻りたいと思います。
原点とは何かと言いますと、それは私という存在の意識です。
私という存在、あるいは私を中心としたこの世界とは、連鎖的に起こってくる考え、あるいは考えの連鎖そのものなのです。
これが原点であり、出発点となります。
「空」は、このような私という存在を捉え、理解するための方便に過ぎません。
「空」が先にあるのではなく、まず考え(識)の連鎖が先にあるのです。
この原点から観たとき、「空」とは何を言っているのかというと、端的に言えば「空」とは連鎖的に起こり様々に移り変わっていく考え(識)のことを言っているのです。
この言い方が強すぎるなら、「空」とは、意識の推移や意識の有り様に主にスポットが当てられているのだという言い方に代えさせていただきます。
しかし何と言おうと、この理解ではどうにも不十分というか、何かが足りないのです。
その足りないものとは、考えの連鎖が起こるメカニズムに対する視点なのだろうと私は思っています。
延々と続く考えの連鎖が私という存在であり、迷いの根本であるのですから、その考えの連鎖を断ち切るには、その連鎖が起こる原因に対する視点が必要なのではないかと思うのです。
「すべては空だ~」、「まさにその通りだな~」、「ほんまにそうや~」と延々とやっているだけでも、解脱の悟りが起こることもあるのかも知れませんが、イラチ(標準語訳:せっかち)な私としては悠長にそんなことやってられないのです。(^o^)
実はその視点からフォーカスしている概念が既にありまして、それが「縁起」です。
「縁起」も、考えの連鎖である私の姿を理解するための方便なのですが、「縁起」には考えの連鎖を断ち切る視点がしっかりと入っているのです。
どういうことか簡単に説明しますと、「縁起」は原因があって結果があるという原因と結果の関係から、私という存在である考えの連鎖を観ているのです。
つまり、「縁起」は考えの連鎖(結果)が起こるのはその原因があるのだということを言っているのです。
では、その原因とは何かというと、それは起こってきた考えを掴むこと、つまり執着をつくることなのです。
起こってきた考えを掴み、執着をつくると、それが種となって次の考えの連鎖を生むのです。
一切考えを掴まなくなれば、起こってきた考えは順次流れて消えていきますから、既に作られている考えの種が尽きたとき、考えの連鎖も止まるのです。
逆に、何か一つでも考えを掴んでいると、それが種になり、考えの連鎖がいつまでも続くことになります。
何が言いたいのか自分でもよく分からなくなってきましたが。(^o^)
私の言いたかったことは、解脱の悟りのカギは「空」ではなく、むしろ「縁起」だということと、
空思想を基本とした仏教系列には解脱の悟りの伝承が途切れてしまっている可能性があるということでした(また言うてしもた、(^o^))。
コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。
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私がこんなことを書くと、仏典もろくに読んだことのないヤツが適当なことを言うなとその道の方々に叱られそうですが、構わず書きます。(^o^)
今日はかなり強烈なことも書いてしまおうと思っています。(^o^)
私は、仏教、特に空思想を基本とした仏教系列には、大悟(空の悟り、あるいは真我の完全覚醒)は伝承されているものの、最終的な悟りである解脱の悟りについてはしっかりとした伝承がもう無いのではないかと思っています(とうとう言うてしもた、(^o^))。
そう思う理由は単純明快でして、そこには「空」の理解に関する雰囲気しか感じられず、解脱の理解に関する雰囲気が感じられないからです。
「空」の理解では足りないのです。
「空」と言ったとき、抜け落ちるものがあるのです。
今日はそのことについて書いてみたいと思います。
まず、原点に立ち戻りたいと思います。
原点とは何かと言いますと、それは私という存在の意識です。
私という存在、あるいは私を中心としたこの世界とは、連鎖的に起こってくる考え、あるいは考えの連鎖そのものなのです。
これが原点であり、出発点となります。
「空」は、このような私という存在を捉え、理解するための方便に過ぎません。
「空」が先にあるのではなく、まず考え(識)の連鎖が先にあるのです。
この原点から観たとき、「空」とは何を言っているのかというと、端的に言えば「空」とは連鎖的に起こり様々に移り変わっていく考え(識)のことを言っているのです。
この言い方が強すぎるなら、「空」とは、意識の推移や意識の有り様に主にスポットが当てられているのだという言い方に代えさせていただきます。
しかし何と言おうと、この理解ではどうにも不十分というか、何かが足りないのです。
その足りないものとは、考えの連鎖が起こるメカニズムに対する視点なのだろうと私は思っています。
延々と続く考えの連鎖が私という存在であり、迷いの根本であるのですから、その考えの連鎖を断ち切るには、その連鎖が起こる原因に対する視点が必要なのではないかと思うのです。
「すべては空だ~」、「まさにその通りだな~」、「ほんまにそうや~」と延々とやっているだけでも、解脱の悟りが起こることもあるのかも知れませんが、イラチ(標準語訳:せっかち)な私としては悠長にそんなことやってられないのです。(^o^)
実はその視点からフォーカスしている概念が既にありまして、それが「縁起」です。
「縁起」も、考えの連鎖である私の姿を理解するための方便なのですが、「縁起」には考えの連鎖を断ち切る視点がしっかりと入っているのです。
どういうことか簡単に説明しますと、「縁起」は原因があって結果があるという原因と結果の関係から、私という存在である考えの連鎖を観ているのです。
つまり、「縁起」は考えの連鎖(結果)が起こるのはその原因があるのだということを言っているのです。
では、その原因とは何かというと、それは起こってきた考えを掴むこと、つまり執着をつくることなのです。
起こってきた考えを掴み、執着をつくると、それが種となって次の考えの連鎖を生むのです。
一切考えを掴まなくなれば、起こってきた考えは順次流れて消えていきますから、既に作られている考えの種が尽きたとき、考えの連鎖も止まるのです。
逆に、何か一つでも考えを掴んでいると、それが種になり、考えの連鎖がいつまでも続くことになります。
何が言いたいのか自分でもよく分からなくなってきましたが。(^o^)
私の言いたかったことは、解脱の悟りのカギは「空」ではなく、むしろ「縁起」だということと、
空思想を基本とした仏教系列には解脱の悟りの伝承が途切れてしまっている可能性があるということでした(また言うてしもた、(^o^))。
コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。
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解脱の悟りなどございません!解脱とは縁起を超えたものであり、悟りとは理への気づき!
コメンありがとうございます。
>解脱とは縁起を超えたものであり、
これは結構です。合っています。
しかし、
>悟りとは理への気づき!
これは、誤りです。
むしろ、悟りが深まるにつれ、すべての理が幻であることを知っていきます。
おわかりですか?すなわち、空が無であり有であるのと同じことです!
量子物理学の波動粒子二重性説で理解されたほうがわかりやすいでしょう!
いずれにしても、言葉で微細な感覚を説明するには限界がありますから。知ることと識ることの違いのように。悟られているなら、おわかりでしょうが。合掌
おわかりですか?すなわち、空が無であり有であるのと同じことです!
量子物理学の波動粒子二重性説で理解されたほうがわかりやすいでしょう!
いずれにしても、言葉で微細な感覚を説明するには限界がありますから。知ることと識ることの違いのように。悟られているなら、おわかりでしょうが。合掌
>理自体が矛盾をはらんでしまいますから、言葉にすると
!
そんなこと、当たり前でしょうに。
それをここで、今さら仰らなくても....(^^)
私の最終的な悟りについての理解を改めて書かせていただきますね。
それは、とても簡単なものです。
最終的な悟り(つまり、解脱の悟りですね)とは、一切の考えを掴まなくなることです。
私は、ここにおります。(^^)