◇囚われの手放しの順序など◇
悟りの道は、自我が握り締めた考え(囚われ、執着)を手放していくことです。
そして、すべての考えを手放したら最終的な悟りである解脱の悟りとなります。
手放しは、100パーセント、完全である必要があります。
手放しを完全に行う上で、重要なことがあります。
それは何かと言いますと、手放しを完全に行うためには、手放しの順序がとても大切だということです。
その順序は、二つの行程からなっています。
最初の行程は、私という存在が考えをつくりだしている創造主であることを自覚するとともに、私以外のすべては私がつくりだしている考え、幻であることに気づき、それを附に落とす行程です。
次の行程は、私自身も考えであり、幻であることに気づき、それを附に落とす行程です。
この二つの行程のうち、特に重要なのが最初の行程です。
最初の行程で、すべては私がつくった考えであり幻だということがしっかりと附に落ちておらず、何か囚われが残っていると、次の行程で、私自身も考えであり、幻であるという十分な理解が得られず、それが附に落ちないのです。
自覚は、その最初の行程を実行するのに非常に有効な手段です。
また、その次の行程を実行する際にも、自覚はとても有効に作用します。
それまで、私がつくっている考えに向けていた意識を、自分自身に向ければいいだけなのです。
その気づきは一瞬です。
すべてが幻だと見極めたその視線が私自身に向けられた瞬間、私自身も幻であることが附に落ちます。
このような、私自身も含めた一切が考えであり、幻であるという理解を、小悟の悟り階層で得る方もおられるだろうと思います
私(慧空)自身もそうでした。
しかし、残念ならが小悟の悟り階層で得られるこの理解は、まだ浅いのです。
なぜなら、小悟ではまだそれなりの量の囚われが残っているため、その囚われが障害となり、私という存在である意識を的確に捉えられないのです。
一切は幻であるというより深い理解を得るためには、さらに囚われを排していき、私という存在が意識そのものであるということを体感できるところまで進む必要があります。
「観るものは観られるもの」という視点が得られる大悟に至り、さらに囚われを排していくと、私という存在が連鎖的に起こってくる意識の連鎖であることが体感できるようになります。
そして、その意識の連鎖が縁起であると理解できます。
ここから先は余談です。
縁起を体感できるところまでくると、おそらくもう、掴んでいる考え(囚われ)は、残り少なくなっているはずです。
多くても、五つくらいなのではないかと思います。
それでも、まだ行程は終わった訳ではありません。
さらに、その残った囚われを排していきます。
そのときも、自覚が役に立ちます。
おそらく、この段階までくると、そこからさらに先に進もうとすると、使える手段は自覚かそれに類似した方法しかないのではないかと思っています。
そして、一切の囚われを排したとき、にわかに表面に出てくるものがあります。
それが苦、つまり根本的な苦なのです。
何かの考えを握り締めているときは、多くの場合、その苦は隠れています。
考えを掴んでいること、あるいは考えを掴もうとすることは、その苦から逃げていること、あるいは逃げようとしていることであり、考えを掴んでいると、その苦に目が向かないのです。
私たちは、その根本にある苦から逃れようと、藁に縋るようにして考えを必死に掴んでいるのです。
藁(考え)に縋り付いているうちは、その根源の苦に目が向かないのです。
この根源の苦を実感したとき、はじめは、ジタバタと悪あがきするかもしれません(私もそうでした)。
しかしいずれ、そういうものだと理解し、観念します。
つまり、一切皆苦を理解することとなります。
そして、それに伴い、その根本の苦から逃れようと、衝動的に延々と彷徨っていた自らの姿に気づくことになります。
その気づきが生じた瞬間、その根本の苦から逃れようと延々と続いていた衝動がうそのようにピタリと止まります。
これが最終的な悟りである解脱の悟りです。
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