私を知る

自覚を中心に悟りのヒントを書いています。自覚とは「私」に意識を向け、一切は「私」の考えであることを自覚していくことです。

悔いがあってもいい

2015年03月12日 15時27分15秒 | エッセイ
◇悔いがあってもいい◇

昨日は、悔いを残さないという観点から「悔いの無い人生」という記事を書きました。
そりゃあ、なんてたって悔いが残らないのに越したことはありませんから、まずはそのことについて書きました。

でも、悔いが残っていてもそれを解決できる道もあるのです。

それはどういう道かと言いますと、悔いが残っている自分を受け入れる道、あるいは諦める道なのです。
あるいは、自分を許す道ということもできます。

何かやりたいことがあったのにそれが出来なかったとを悔やんでいる自分を受け入れるのです。

それが出来なかったことについて、自分の至らなさや、周りや環境等をただ責めるのではなく、自分を受け入れて許してやるのです。
自分を許せば、自ずと周りや環境も許せます。

悔いがあっても大丈夫です(^^)


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悔いの無い人生

2015年03月11日 13時14分46秒 | エッセイ
◇悔いの無い人生◇

私が二十歳ころから考えていたことのひとつに、一番いい人生とはどんな人生なのかというのがありました。
そのとき、ひとつの結論として得た答えが、悔いの無い人生というものでした。
もうひとつ考えたものとして、納得できる人生というのも考えたのですが、納得するのは少し難しく感じたので、自分は悔いが無ければそれでいいんだと思ったのでした。
また、ちょっとこじつけではありますが、悔いが無ければ納得したも同然ではないかとも思ったりもしました(笑)。
それ以来、私は紆余曲折はありましたが、悔いが残らないようにということを一番に心がけて生きてきました。

この悔いの無い人生、納得できる人生というのは、悟り云々を抜きにして、人生の本質を突いていると思っています。
だって、他の人が何と言おうと、本人が悔いが無い、これでといいと納得しているのですから、これ以上のものは無い訳なのです。
腹の底からこれでよかったと思いながら死んでいくのですから、これを最高と言わずにどうするのかという訳です(笑)。

しかし現実には、それが難しいようです。
果たしてどれくらいの方が、悔いなく死を迎えているのでしょうか。

やりたいこと、あるいはやるべきと感じることがある人は、素直にそれに取り組んで頂きたいと思います。

多くの場合、結果は問題になりません。
やりたいというその対象にしっかりと取り組むその姿勢と過程が大切なんだと思います。
しっかりと取り組めば、結果の如何にかかわらず、納得が生じ、悔いも残らないのです。

逃げずに、しっかりと取り組んで頂きたいと思います。

そうすると、悟りは自ずと向こうからやってきます。


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滅私、苦滅という誤解

2015年03月11日 09時48分00秒 | 悟り
◇滅私、苦滅という誤解◇

悟りの道を歩む方々の多くはまだ、多くの囚われや誤解を持っておられます。
その代表的な誤解に、滅私、苦滅があります。
悟りの終着点が、滅私であり、苦滅であると思い込んでおられる方が多いのではないかと思います。

そのような誤解を持った方は、最終的に禅定やそれに類似の意識状態に逃げ込みます。
禅を含む大乗系の方々は「いま」に逃げ込み、ウパニシャッド系の方々は「在る」に逃げ込みます。
この意識の状態は、ただ観る意識である観照意識が優位になった状態で、思考や自己の感覚が抑制され、超越したような感覚が得られ、また苦しみも感じないため、多くの方ががこれが究極だと誤解してしまうのです。

しかし、その意識状態は、自我が都合良くつくりだしているものなのです。
自我が積極的にその状態を選択しているのです。
中には、自分でそれを選択していることも分からずに、それに囚われてしまい、一生の多くの時間をその状態で過ごす方もおられるのかもしれません。
しかし、その意識状態は自我のつくりものなのです。

自分がその意識状態を選択していることに気づいて頂きたいと思います。
自分がそこへ逃げ込んでいることに気づいて頂きたいと思います。

どうしてそこへ逃げ込むのでしょう。

それは、あなたがそれが良いと思っているからです。
どうして良いと思うのでしょう。
それは、苦しみから逃れられるからです。
あなたは、苦しみから逃れようと、そこに逃げ込んでいるのです。

確かに、私という存在は幻です。
しかし、私という感覚や意識は、幻でありながらも、最後まで消えることはありません。
私という感覚や意識に含まれるモヤモヤした気持ちや、苦しみを誤魔化さないで頂きたいと思います。
安易に逃げないで頂きたいと思います。

逃げているうちは、どうにもなりません。
延々と堂々巡りするだけです。
覚悟を決めて立ち向かって頂きたいと思います。


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なぜ小悟は幸福なのか

2015年03月10日 11時16分39秒 | 私の成り立ち
◇なぜ小悟は幸福なのか◇

なぜ、小悟(天界の悟り階層)が幸福で喜びに満ちているのか、について書きます。
悟りを知らない普通の人は、腹(丹田)が優位となっています。
腹は、欲望や堅い感情、それに伴う思考や衝動と関係しているため、日常の感覚もそうなりやすいのです。

それが、明け渡しによりハートが開くことで、丹田よりもハートの反応が優位になるのです。
ハートは、柔らかな感情や、それに伴う思考や衝動と関係しているため、ハートが優位になることで、ポジティブになり陽気になったり、喜びや幸福感が前面に出てくるのです。

彼らが好む、「ひとつのもの」、「全体」、「愛」、「感謝」、「真我」等は、ハートに共鳴しやすい言葉(概念)なのです。

これが、小悟から大悟へ移行すると、多くの場合、一変します。
それは、大悟に伴うハートの消滅が大きく影響しています。
愛や幸福感はトーンを落とし、淡々とした、しかしシャープに引き締まった平穏さが前面に出て来ます。
これは、ハートに代わり頭部にある観照意識が優位となることと関係しています。

そして、さらに歩んでいくと、私という存在の本性である根本の苦を目の当たりにすることとなります。


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無常、無我、苦の教えとその伝承について

2015年03月09日 21時15分18秒 | 悟り
◇無常、無我、苦の教えとその伝承について◇

お釈迦さんの教えを比較的忠実に伝えていると言われている上座部の系列では、解脱に至る基本的な教えは、無常、無我、苦の三つであると言っているようです。

無常は、あらゆることがらは絶えず変化し、遷ろうものだということです。
無我は、あらゆることがらに自性(実体性、絶対性)が無いということです。
苦は、あらゆることがらはすべて苦である、つまり一切皆苦であるということです。

この三つの教えは、解脱の悟りに必要な要素を基本的に含んでいるのです。
よって、この点からも、お釈迦さんは最終的な悟りを得ていたのだろうと思うし、その教えを伝える上座部の系列にも、その最終的な悟りの伝承が何らかの形で伝わっているのだろうと思うのです。

この三つの教え、無常、無我、苦のうち、どれが一番重要なのかと言えば、苦(一切皆苦)なのです。
この苦に対する悟りが、最終的な悟りを得る際の要になるのです。

ところが、禅を含めた大乗系の系列では、苦に対する教えが欠落してしまっているのです。
おそらく、釈迦の教えの本流から分岐が生じた時点で、最終的な悟りや苦に対する教えが伝わっていなかったのだろうと思っています。

なお、ウパニシャッドの系列では、もとから苦に対する着眼はなかったのだと思います。


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囚われの手放しの順序など

2015年03月09日 15時28分40秒 | 自覚ワーク等の紹介
◇囚われの手放しの順序など◇

悟りの道は、自我が握り締めた考え(囚われ、執着)を手放していくことです。
そして、すべての考えを手放したら最終的な悟りである解脱の悟りとなります。
手放しは、100パーセント、完全である必要があります。

手放しを完全に行う上で、重要なことがあります。
それは何かと言いますと、手放しを完全に行うためには、手放しの順序がとても大切だということです。

その順序は、二つの行程からなっています。
最初の行程は、私という存在が考えをつくりだしている創造主であることを自覚するとともに、私以外のすべては私がつくりだしている考え、幻であることに気づき、それを附に落とす行程です。
次の行程は、私自身も考えであり、幻であることに気づき、それを附に落とす行程です。

この二つの行程のうち、特に重要なのが最初の行程です。
最初の行程で、すべては私がつくった考えであり幻だということがしっかりと附に落ちておらず、何か囚われが残っていると、次の行程で、私自身も考えであり、幻であるという十分な理解が得られず、それが附に落ちないのです。

自覚は、その最初の行程を実行するのに非常に有効な手段です。
また、その次の行程を実行する際にも、自覚はとても有効に作用します。
それまで、私がつくっている考えに向けていた意識を、自分自身に向ければいいだけなのです。
その気づきは一瞬です。
すべてが幻だと見極めたその視線が私自身に向けられた瞬間、私自身も幻であることが附に落ちます。

このような、私自身も含めた一切が考えであり、幻であるという理解を、小悟の悟り階層で得る方もおられるだろうと思います
私(慧空)自身もそうでした。
しかし、残念ならが小悟の悟り階層で得られるこの理解は、まだ浅いのです。
なぜなら、小悟ではまだそれなりの量の囚われが残っているため、その囚われが障害となり、私という存在である意識を的確に捉えられないのです。
一切は幻であるというより深い理解を得るためには、さらに囚われを排していき、私という存在が意識そのものであるということを体感できるところまで進む必要があります。

「観るものは観られるもの」という視点が得られる大悟に至り、さらに囚われを排していくと、私という存在が連鎖的に起こってくる意識の連鎖であることが体感できるようになります。
そして、その意識の連鎖が縁起であると理解できます。


ここから先は余談です。

縁起を体感できるところまでくると、おそらくもう、掴んでいる考え(囚われ)は、残り少なくなっているはずです。
多くても、五つくらいなのではないかと思います。
それでも、まだ行程は終わった訳ではありません。
さらに、その残った囚われを排していきます。
そのときも、自覚が役に立ちます。
おそらく、この段階までくると、そこからさらに先に進もうとすると、使える手段は自覚かそれに類似した方法しかないのではないかと思っています。

そして、一切の囚われを排したとき、にわかに表面に出てくるものがあります。
それが苦、つまり根本的な苦なのです。
何かの考えを握り締めているときは、多くの場合、その苦は隠れています。
考えを掴んでいること、あるいは考えを掴もうとすることは、その苦から逃げていること、あるいは逃げようとしていることであり、考えを掴んでいると、その苦に目が向かないのです。

私たちは、その根本にある苦から逃れようと、藁に縋るようにして考えを必死に掴んでいるのです。
藁(考え)に縋り付いているうちは、その根源の苦に目が向かないのです。

この根源の苦を実感したとき、はじめは、ジタバタと悪あがきするかもしれません(私もそうでした)。
しかしいずれ、そういうものだと理解し、観念します。
つまり、一切皆苦を理解することとなります。
そして、それに伴い、その根本の苦から逃れようと、衝動的に延々と彷徨っていた自らの姿に気づくことになります。
その気づきが生じた瞬間、その根本の苦から逃れようと延々と続いていた衝動がうそのようにピタリと止まります。

これが最終的な悟りである解脱の悟りです。


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苦の根本について

2015年03月06日 09時25分11秒 | 私の成り立ち
◇苦の根本について◇

あまり苦のことについて書くと、私自身もそうですし、みなさんもうんざりされるだろうと思って控え気味にしていたのですが、少し書いておきますね。

私という存在は、連鎖的に発生する意識そのものであり、縁起そのものです。
その意識は、絶えず生滅変化を繰り返しています。
私という自我意識は、そのような生滅変化を繰り返す意識の一部としてその中に含まれています。
自我意識からすると、その生滅変化の様子はままならないものであり、絶えず起こるその生滅変化に付き合わされ、引きずり回されている訳です。

そこに私たち存在の苦の根本があります。

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意識と時間の周辺について

2015年03月06日 07時58分50秒 | 私の成り立ち
◇意識と時間の周辺について◇

意識と時間の周辺について、掲示板の方に少し文章を書いたので、それをブログにも残しておこうと思います。

基本は、時間も考え、つまり意識そのものであり、幻なのです。

自覚を進めていくと、いずれ、私とは意識そのものだと分かるときがきますが、さらに、意識とは何かについてさらに追求していくと、それがパッ、パッ、パッと断続的かつ連鎖的に起こっていることに気づくようになります。
その意識の連鎖が、縁起なのです。
つまり、意識とは縁起なのです。

縁起ですから、前後に何らかの因果性を有する連鎖的な起こりがある訳なのです。
つまり、そこには前と後という何らかの順番的な繋がりがある訳なのです。
その順番的な繋がりが、時間的な要素や感覚の根本的な出所になっています。

上で(注:掲示板の中の先に書いた文章のことを言っています)、未来予知は基本的に当たらないのは、未来を予知しようとするその意図の前提にその予知対象に対する不確実的要素が前提として入り込んでいるからだと書きました。
その説明はそれはそれでいいのですが、縁起の観点からもちょっと面白いことが言えるので、それを書いてみようと思います。

縁起というと、縁起は原因と結果の関係ですから、一義的あるいは一意的に決まったこれしか無いという
ひとつに決まったことの展開、連鎖を想像される方がおられるでしょうが、どうではそうではなのです。
どういうことかと言うと、縁起はパッパッパッと起こっていく連鎖なのですが、その各ステップ間に不可避的にある程度の不確実性が入り込んでいるようなのです。
どうやら、ことの展開の不確実性の由来は、その縁起の各ステップ間の不確実性にあるようなのです。

以上です。


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個人的なこと(家内への感謝)

2015年03月05日 23時32分34秒 | 個人的なこと
◇個人的なこと(家内への感謝)◇

ここのところ、ヒマなので、ヤフーの動画サイトで無料映画を観てます。
ついさっきまで、「ツレがうつになりまして」という無料映画を観てました。

これが結構いい映画でして、主人公(妻)と、そのうつになった夫(ツレ)が、うちの家内と、悟ってしまって働けなくなっている私にダブってしまい、妙に共感するところもあり、涙ボロボロ流しながら観ました。

いまでこそ、しょうがないことだと腹を括っていますが、2012年の12月に明け渡しが起こってから悟りが深まるにつれ、通常の社会人としての自分が崩壊していくことや、働けなくなっていくことが辛くて辛くて仕方がありませんでした。
その苦しんでいた自分が、映画の中のうつで苦しむ夫(ツレ)の姿と妙に重なるのです。
また、映画の中の夫に寄り添う主人公(妻)の姿に、うちの家内が妙に重なるのです。

それで、つくづく思ったのです。
うちの家内も、こんな自分とよく一緒にいられるもんだと。
関係が壊れず一緒にいられること自体、凄いことなんだろうと。

そして、一緒にいてくれている家内に、また家内とのご縁に、感謝しました。

もちろん、家内との関係が壊れそうになったこともあるんです。
でも、不思議と壊れてしまう寸前のところで壊れないんです。
ここ1年くらいの間、その繰り返しでした。

やっとつい最近になって、お互いの意識や感覚のギャップに慣れてきたという感じです。

実は私は最初、こんなに意識のギャップがあるもの同士の生活が成り立つはずがないと思っていました。
最近それが少し変わってきています。
そういう関係も、絶対無理という訳でもないのかもしれないと。
そして、このような我が家の状況や成り行きについて、私自身興味深く観ているんです。

このような経験ができる家内や家族の存在に、改めて感謝の気持ちが起こる訳なのです。


余談ですが。
悟り等の意識の変化の影響で、仕事や家庭などに大きな変化が生じることがあると思います。
そこには苦しみが伴うこともあると思います。
私の場合は、いまのところ家庭は崩壊せずに保たれていますが、家庭が崩壊してしまうこともあるのだと思います。
そのような変化は苦しみを伴うことが多いかも知れません。
でも、できるだけその変化を肯定的にとらえ、受け入れていただきたいと思います。

これが正解とか、こうなるものとか、こうあるべき等の決まった姿はありません。


何が言いたいのかよく分からない記事になってしまったけど、
一番言いたいのは、
「かあちゃん、ありがとね」
なのだ(^o^)
これでいいのだ。(^o^)


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さらに改めて悟りの階梯(2)

2015年03月04日 15時10分47秒 | 悟りの階梯
◇さらに改めて悟りの階梯(2)◇

前回の記事の続きです。
悟りの道や、悟りの階梯の各段階について説明してみようと思います。

悟りは階段状の構成になっていて、深さや段階があります。
各節目で起きる理解や感覚は、基本的な部分は共通しており、誰がどのような経緯を辿ってそこに至っても、ほぼ同じような理解や感覚が得られます。
この傾向は、深い悟りの節目になればなるほど強まります。

悟りの道は、私という自我が握り締めた考えである囚われ(執着)を手放していく道であるということができます。
囚われは、感情や思考を引き起こします。
このため、囚われが多いほど、起こってくる感情や思考の量も多くなり、自我も厚くなります。
反対に、囚われが減っていくほど、起こってくる感情や思考も少なくなり、自我も薄くなっていきます。
ただし、どんなに深く悟ろうと、最低限の自我は必ず残ります。
私という存在、すなわち世界がある限り、自我は必ず残ります。

囚われを手放していく方法としては、大きく分けて二つの方法があるのだと思っています。
一つは、受け入れや諦めによる明け渡しの方法です。
もう一つは、私に意識を向ける自覚等を使って囚われに気づくことで、それを手放していく方法です。
これら二つの方法は、互いに独立したものではなく、多くの場合、互いに関連し合いながら、囚われの手放しに対して作用します。

意図して受け入れようと思っても、なかなか思うようにはいきません。
ですから私としては、自覚を中心とした実践をお勧めします。
自覚の実践だけで、最終的な悟りである解脱の悟りまで到達することができます。
受け入れは、敢えてそれを意図しなくても、自覚の実践に伴って自動的に進んでいきます。

その際の最も大切なポイントは、私という自我をしっかりと捉えて、自我の主体性を維持することだと思っています。
なぜなら、考えを握り締めるのも、何かを求めて彷徨い迷うのも自我がすることだからです。
自我をしっかりと捉えていないと、その迷いに気づけないのです。


取りあえず、今回はここまで。
続きはまた書きます。


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