中日新聞朝刊記事に高校野球でのパフォーマンスに関しての記事が目に付いた。 WBC日本チームが塁に出た時にやっていたペッパーミルのパフォーマンスを東北の選手が山梨学院のエラーで出塁したときにこのペッパーミルのパフォーマンスをして、審判から「パフォーマンスは駄目」と注意を与えたこと。
この審判の注意に対して、いろんな意見が伝わっている。 人のこうした事に対する捉え方も、賛否も違い、審判の注意が悪いとか、パフォーマンス自体を規制している高野連などへの批判や改善を求める人も多く居る。
しかし、高校野球のそもそもの開催意義や趣旨なども含めて、こうしたパフォーマンスをどこまで規制する必要があるのだろうか?
1塁打だけではなく、2塁差、3塁打を放ってセーフになって、塁上でガッツポーズをする選手は多く居るし、ベンチ内でも手を叩き、ガッツポーズやその他の鼓舞するようなポーズは当然のように行われている。
プロでは無いからそうしたポーズはしてはいけないと言う姿勢は日本の教育姿勢や教育への取り組みや思想すら感じる。
プロの大会ではないオリンピックや、国際大会などでも、喜びを表現する姿勢は当たり前になっている。 WBCの試合でも、あの大谷ですら、雄叫びを上げてチームを鼓舞し、自身のモチベーションも上げるために派手にしていた。
今回も相手チームのエラーを揶揄するような意味でペッパーミルのパフォーマンスをしたのでは無いだろう。 丁度タイミング的にもWBCの日本チームがやっていたパフォーマンスを純粋に真似しただけだろう。
これを選手に注意する事はどうだろうか? もちろん、高野連の規定では、こうしたパフォーマンスを禁止するような内容もあるらしく、これはプレーに寄って、何か問題が起こるような事を未然に防ぐ事を想定されて居るだろう。
選手同士が例えば、デッドボールや走塁妨害、タッチなどの際に意図した嫌がらせがある場合にいざこざが起きない為にもこうした規制を作るのだろう。
しかし、そもそも、こうした規制を作る事は選手に対する信頼を持てない事の表れなのである。 全ての選手のプレーや表現などを信頼する限り、規制などは全く必要はない。 そんな問題を起こすような選手なら、恐らく、甲子園の土を踏めるような実力など持てるはずも無いからだ。
喜びを素直に表現することは人間の感情を豊かにする事にも繋がるだろうし、自分の意思をしっかりと伝える事の意味や大切さを身につける事にも繋がる。
私はこうした表現が可能なスポーツなら何も問題はなく、注意することなども必要無いし、そうした規制も撤廃する事も必要だと思っている。
剣道などは試合後に武道場でこうしたガッツポーズをした時点で失格となるルールがある。 挨拶をすることも当然のように必須だし、竹刀を落下した時点でも負けとなる。 これは剣道はあくまでもスポーツでは無く、武道であることだ。 礼の始まり、礼に終わる。 相手を重んじ、自身を極める。
私は剣道の日本代表であった栄花英幸(北海道)の言葉が心に残っている。
「打って反省、打たれて感謝」これは打って1本取った時でも、それは改心の一撃であるだろうか? まだまだ・・と反省する気持ち、打たれて1本取られた時には自分の剣道を精進する道がまだ先にあることを知る事が出来た事に感謝する気持ち・・。 これは常に謙虚に自分を見つめ、相手を思う気持ちの表れだろう。
この気持ちは大谷翔平やダルビッシュ有、日本の選手達が忘れない意識だし、そうした気持ちこそが自分のレベルを向上させる原動力(モチベーション)に繋がっている。
剣道と言う武道はスポーツとは違う次元で息づく精神的な物が必須なので、たとえ勝負に勝ったとしてもその喜びを道場では見せる事が厳粛に禁止されている。 もちろん、道場を出たら喜びを表現する事は当たり前だし、それは人間としての素直な表現なのであるから、そうした感情を隠す必要は無い。
高校野球は部活として、高校教育の一環として位置づけられている。 あくまでも教育であることが前提となっている。 だからこそ、好プレーだけでは無く、一つ一つのプレーを全力の力を出している選手達のパフォーマンスは純粋に素敵だと私は思う。
甲子園の高校野球で負けたチームの選手達の多くは、涙を流しながら甲子園の土を袋に詰めている姿を常に見させて頂く。 もちろん、試合に負けた事は当然だが、悲しいだろう。 しかし、1回の試合に負けただけのこと。
決して本当の自分達の実力が劣って居たわけでは無いと思えるし、仮に10試合同じチームと戦ったら果たしてどちらが勝っているだろうか?
試合結果はもちろん、メダルの色で評価される事になるが、本当のメダルの色はその後の人生をどのように生きるかである。
そのメダルの色以上の人生を築く事が出来るなら、自分が出来る限りの戦いをした意味がそこにはある。