Kaettekita 私が思う あのこと このことReturn(Get Back Part2)

進取究明。日々の雑感を気ままに綴る私なりに思い考え行い実践する不定期の記録。写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ。

長文失礼。異常不幸体験。深刻な心を病む原因となった話です。私と父の前妻の子との関係。私の高校時代までの我が家の想い出。法律じゃ人も人生も何もかも救われない事に既に、気付いていた事実!

2024年07月10日 09時31分16秒 | 学校・教育特集・学生生徒時代の想い出
 母と父の間に私が生まれたが、その前に、父には前妻がおり、二人の男女の子がいる。

 そして、その前妻の息子が、私が小学生時代は、私が住む郡山のこの家には、正月になると、孫を連れて、我が家へやって来ていた。

 しかし、父は、孫など、嫌いで可愛がる余裕もなかったらしく、母に後から聞いたのだが、あの孫は、うるさいだけだから、二度とうちには連れて来るな、と言い渡した、という。

 どういう訳だか、その後、その赤ん坊だか、幼稚園児の孫は、うちには来なくなった。

 そして、或る時は、私の歓心を引く為に、プラモデルのおもちゃなども、私に買って来たらしいが、記憶にはないが、これも母によると、それが原因で、私はそのおもちゃにより、ケガをしたらしい。

 そうして、その前妻の息子一家夫婦は、我が家に来ていたが、或る正月の日を境に、我が家へは全く来なくなる。

 私を出しにしようとして、私へのプレゼントとして、何か大きな包みを持って、我が家へ上がって来たのを見た私は、母のその一家を嫌っていたのを見て取り、そのまま自動的に屋根裏へと一目散に駆け上がり、そこでその一家が退散するのをじっと待った。

 暫くすると、その一家が、○○君(私の名前)、おいで、とかいうが、私は母の忍耐に限界が来ているだろうと察して、無視した。

 その後、その前妻の息子一家はそのお荷物の、私へのプレゼントらしき、大きな袋を我が家へはビタ一文置いては行かずに持ち去って帰って行った。

 私はこれは今から考えると悪乗りしたとは思うが、家にあった、塩の入った桶を持って、父が外で彼ら前妻の子が帰って行った丁度その時に、どこでその作法を覚えたのか、塩を盛大に撒いて、それら、半分、血のつながった、戦国時代ならば、血で血を洗う程の、お家騒動でも、戦国武将ならば起こり兼ねない、それら前妻一家には私からはお見舞いした。

 父はビックリして、その様子を見て、そこまでするのか、そこまで嫌うのか、と驚いていた。

 それ以来、そいつらは、私が中学に上がる頃には来なくなり、その時から、我が家は平穏無事な日々を過ごしていた。

 その後、私が福島県立安積高校に入学してから、二年生となり、その夏の学校主催の夏期講習会にほとんど欠席して、秋の学園祭にも行かずに休み続けたが、その後の、京都奈良の、修学旅行にはどうしても皆と行きたくて、又、それが主な目当てだったが、高校にはしぶとくも私は通い出した。

 そうして、無事、修学旅行も済み、私の学校は学期が二期制だったので、確か、冬を前に、中間テストだか、何かのテストが控えた受験生徒にとっては最重要な時期であり、私も、その日から、まずは数学、次は英語との勉強から取り掛かろうと、意気込んでいた矢先だった。

 その日、その時、私は学校から帰って来て、家の自分の部屋で、数学の勉強に取り組もうとしていた時に、父が、私の部屋を開けて、お前も俺の部屋に来い、というので、行こうとしたら、母に止められて、あなたは勉強に専念していなさい、と言い残して、ここは、私だけが対処するから、心配しないで、と言う。

 たった一人だけでこれから起こる何事かに立ち向かおうとする母の姿に何か不安と恐れと哀れと息子としての責任を一人感じて、私は思わず、母を見殺しには出来ないと、母の後をついて行き、父の部屋へと入って行った。

 その後だ。我が家の玄関を、お邪魔しますでも、失礼しますでもなく、ドカドカと、いきなり何の報せもなく、事前に父と同時刻に行われるとの暗黙の了解、姑息な打ち合わせをしてまで、まるでその時間を見計らったように、同時に何人も入って来たのは。

 それら、父の前妻の息子娘たちその孫まで抱えた大人数の複数の腹違いの夫婦数人たちであった。そいつらには、子供もいて、何不自由なく暮らしているのが目に映るようだった。数では圧倒的に向こうが優勢であり、我が家側が母子の二人のみであり、不利な形勢の立場の私達の人数ではあった。

 そうして、「家族会議」と言うには余りにお粗末で一方的な、陳腐な出来損ないの、仮初にも、私共母子を敵対視をモロにぶつけた会議が始まった。

 その場で、父は言いたい放題に言いまくった。自分の今の境遇、その当時は、父は身体障碍者であり、色々愚痴る事もあったようだった。

 百歩譲って、それの何分の一かには同意できたにしても、それをこうした形でしか表現できぬ父の頭の理解力の衰えを私は疑い、父のこれ程の暴挙に、被害妄想で、とうとう耄碌したな、とハッキリと認識出来た。

 そして、私が不服に思い、実際、私が頭に来たのは、父が、最近、我が家のお風呂に入る時、年齢のせいか、足が上がらず、入れなくなっている、とこれも哀れを引く話振りで、こぼした時、この前妻の息子は、高校生の私に、お前自身が父の面倒を見てやって、そんな勉強ばかりしてないで、風呂に入る手伝い位したらどうだ、とこう言った。

 それに対して、母が、逆じゃないのか?あんたらも、実際の息子や娘ならば、本当にそれを名乗る位ならば、我が家に初めから用意周到に父の為に来て、風呂に入るのを手伝ったらどうだ、一度や二度そんな手間を掛けたって、文句などないはずだ、そんな、人様に要求注文ばかりして付けて、理不尽であり、手前勝手な、我が家の敷居をドカドカまたいで来て、人の家庭を、何様だと思っているんだ、とこれは物凄く、ドスを利かせた、何度も言うが、弁護士と警察官僚の二足の草鞋の経歴の父親を持つ私の母の、正に怒りと正義の言葉のオンパレードだった。

 結局その後の話として、父の訪問入浴の為に母はうちからは遠い、太田熱海病院まで、父の診断書と、訪問入浴車の訪問許可を取り付けて、我が家で父には大金をはたいて母の温情から、父をお風呂に入れてやっていたがそれについても、意地悪な父は「母にダマされた」と頑迷に言い切っていた。

 その頃、私は、高校に昼間は行っていて、父が、そのころの、今でいう、認知症、それも五十代後半の、若年性というのか、徘徊が始まっていて、それにタチが悪いのは、うちの文句を、有る事無い事、全部、会う人会う人ごとに、ぶちまけていて、民生委員のお世話にもなり、精神科の病棟にも入ったりもしていたのだ。だから、少し、おかしな所が多々あった。

 そこで飛び出した、父の発言暴言、名誉棄損は、私が、或る日、何時間にもわたって、父の頭を殴り続けた、という、これは誰が聞いても、作り話、常人じゃ理解不能な、狂人の繰り言だった。

 大体、私は昼は学校に通っていて不在だし、夜も勉強や食事、空いた時間にテレビ、読書、音楽鑑賞等、街の本屋さん、レコード屋さん巡り等々、忙しく過ぎて、とてもあんな父に構ってなどいられやしない。
 そして、父の言う事が本当だとしたら、何時間も、それこそ、五時間、六時間と頭を殴られて、そんな事をしていたら、本当に死んでしまうだろう。

 そういった、子供、幼稚園生でも判るダマしのウソを、この場合、大袈裟大仰に私の父は、情けなくも、私の母や私に、同じ家族なのに、刃を向けて来たのである。

 そうして、その嵐の様な秋から冬への夜は一瞬で過ぎた。私は、非情なその晩の日の出来事が、自身の父からの侮辱、濡れ衣となって、トラウマともなり、その日は数学の勉強が一切はかどらず、手につかなかった。
 
 翌日、私はとうとう、学校を休んだ。これは、私のストレスが最大限に達した事なので、母は文句ひとつ言わずに、むしろ私をいたわってくれた。
 
 それ以降、一切、私は二年生が終わる日、学期が来ようと、皆が三年生に上がり、私が留年が決定してももう二度とは、学校に通おうなどとは、思わなかった。

 留年・休学を自身で決め込み、その期間は、仲の悪い父との同居生活も続いたが、私は映画を駅前まで見に行ったり、それこそ昨日書いた記事のように、一人旅行を楽しんだり、自転車で福島県泉崎村や同じく、南福島駅のある、福島大学のそばだったり、松川駅やらを、同じく自転車で自由自在にママチャリ一台で走り回った。出来るだけ父と同じ場にいないように、外出する事を心がけた。意外と私はこの頃、生活を自分なりにエンジョイしていた。

 その内父も病状が悪くなり、亡くなった。その時以来、父はそれから数年後の九月に亡くなったが、私は憑き物が取れたように、とても自由を感じて、空を見上げると、秋の空が非常に美しく青く高い事に気付き、驚いていた。こんな、自然を、花鳥風月を感じた事など、父の生前には、数年間、空を見上げた事なども、全くなかった事だったからだ。

 生きとし生けるものに、手を合わせて、感謝したい気持ちだった。

 尚、これは余談だが、父は日本共産党の党員で、当時、日刊のしんぶん赤旗、日曜版の赤旗、という、共産党の機関紙の愛読者であった。

 私には、その日あの日の、父の私に対する、冷酷非道な、悪業を身をもって父の本性を知らされていたので、父とは、口も利かない日々がその後ずっと続いた。

 或る日、父は、私が、幼い日の、父に従順だった私と見間違ったのだろう。それら新聞を手に取り「おい、読まないか?」と聞いて来た。

 私は、それに反して「誰がそんな、偏った思想の新聞なんか、読んでやるものか!」と言ってそれをひったくり、私の手の内で、ビリビリにそれら新聞を引き裂いて破ってやった。今までの復讐心、鬱積した恨みが晴れたようで清々とした。これには父もビックリしたみたいだったが、それ以後、私とは、私からの一方的な恨みつらみからの無視の関係性で、フェイドアウトした。

 後で父が亡くなった後、母にその話をすると、別に、新聞くらい、せっかくお父さんが好意で出してくれたんだから、読みたくない新聞でも、一ページでも読んであげたら良かったのに、と言われたが、後の祭りだった。

 とにかく、これらの事が重なり起こった事実が、実の肉親の父親にさえ裏切られるという、その恐怖感、不信感、不安感が、私のその後の、精神的に追い詰められていった経緯、私の心、精神を病む最大要因、原因ともなったのだと、今は一人、心の中で、思う。
 
 しかし、忘れてはならないのは、父も、私が成績が高校二年になり、悪化する前年の、私が意気揚々と、県中唯一の進学校の安積高校に入学を決めたばかりのニューフェイスの頃には、お父さんだって、お前は東大や早稲田、慶応には行きたくはないのかい?と、私の進路を当時から、最大限に心配してくれてはいたのだ。それも、父の知り得る限りの、父の中では一番有名だった大学名を出してまでに。

 それを知り、思い出す度に、親子の間の情を感じて、感涙にむせび泣いてしまう。その父の最大限の応援に応えられなかったのは、ひとえに私の不徳と致す所、私がどんどん成績が落ち込み、それも高1の終りに盛り返すが、再度、又もや、年を追うごとに、二年次で躓いてしまった。

 それらの原因を、全て父になすりつけるのも、どうかとは今では自身で大いに反省自省して一人ぽつねんと思いを巡らす私がいる。

 父の恩情、親の情け、に第一に報いるべきではなかったかと。志望校選びでも、自分に無理だと判っていても、最初から諦めずに、それらに貪欲に食らいつき、父への生きた土産として、合格するにしろ、何年浪人してでも、父親を喜ばす為に、息子として、差し出すのが、最大限の親子の情、恩返しではなかったろうかと。
 
 とにかく、我が家は複雑な家庭、家系ではあるが、この間来た、訪看さん、訪問看護婦さんの長の方に、私の相続の話で、私のこの家が、利権、権利が複雑に入り組んでいる、それも無くなった亡父のおかげで、というと、その訪看さんも、今は皆、どこの家庭も変わらず、現代はそうなってしまい、そんな風ですよ。結構多い。よく聞く話ですよ、という。

 それに対して、私も、「いわゆる、こぶ付き」という奴ですが、意味が分かりますか?と尋ねると、判ります、と訪看さんの長の方は率直に答えた。

 今、現代は、これは怖ろしい程、相続で将来揉めそうな家庭、前妻がいてバツイチだとか、中にはバツニ、バツサンだとか、やり放題な時代の背景を見ていると、空恐ろしくなってくる。

 私の知っている、折伏主でもある、元講頭さんのGさんなどは、私の父の生前の奔放な生き様を話すと「wainai君のお父さんも”ハイカラ”なんだない(福島郡山弁)」と仰られて、少しは気分が収まったが、そうと好意的に受け取って下さる方もいるんだ、多少のヨイショはあったにしても。今風の安心感をその言葉からは受け取った。

 とにかく、私は、相続で揉めたり、こぶ付きであったり、前の子供や隠し子、その他、色々な尾ひれがつく人とは、お付き合いは全く考えてはいない。
 遺された人もそうだが、現在も、そうやって、法律上で苦しむのが目に見えているからだ。

 だったら、法律の方から、今の現代に即応し見合った、法学体系というものに新しく組み替えて、改正してゆくべきなのだ。ここにも、時代と法とのミスマッチがある。

 本来ならば、法が人を救わなければならないのに、逆の事を行っている。

 だから、私の高校時代の恩師の、現代文の女性教師だった先生が、自身と生徒に問うた、「何が一番に、人生も、生命も、何もかも、救う学問か?」という命題を与えられて、私の答えは後年出たが、それには法律学、法学は、決して値しない。習う価値もない学問。時代遅れの、常に民衆から一歩遅れた学問。時代に後からノロノロと付いてくるだけの、能無し学問。私の短いようで長い人生経験から、私はそうと、断ずる。

 ちっとも市民を守らず、人を救わない、救おうともしない。

 法廷では、第一印象の、相手の心証さえ良ければ、事の真偽はともかく、最初の印象だけで、事の理を糺さずに、勝訴してしまう事すらあり得る。 

 法学など習うならば、女子専門の習い事とはなるが、家政学などで、料理の作り方、裁縫の工夫、生け花などの礼儀作法等を初めから学んだ方が得策だろう。

 看護学でも良い。看護師になれば、日本全国をまたにかけて、仕事が出来る。

 医師免許を取得する積りで実際に医師になる為に、医学部、という選択肢は、お金と学力に余裕がある方は、この道を勧める。人の命を救う選択肢に入るからだ。

 ただ、今年だかに亡くなられた、新潟大学大学院の「安保徹先生」のような、今の薬漬け医療に反旗を翻して、温熱療法、新陳代謝を計り、薬に出来るだけ頼らない様に工夫を凝らした、安保先生の様な医師に、学生諸氏には、出来ればなって頂きたい。

 福祉学。これも最近注目される。しかし、それに見合った、重労働に見合った、給料がちゃんと払われているのか。しかし、その結果は、私共の利用料金に加算されてしまうので大変な重圧が利用者・家族にのし掛かるので、出来れば公金税金となり、そこがネックである。

 その為の増税、特に消費増税には反対!野党による連立政権が出来たとして、それが、北欧のような、立派な福祉国家として、軍事予算やら、大企業優遇には使わせず、福祉にだけ使う名目としての増税ならば、私なら従っても良い。

 だが、今の自公の様な、大企業優先、厚遇の体質の政権だったならば、直ちに政権の座から降りて頂きたい。

 今の司法試験は、昔の2%程度が受かっていた最難関の国家資格試験ではなくなり、各司法大学院に入る前の大学の学部名は一切問われず、法学部以外の人間でも、数年で、受験して受かる率は、二年前の新聞には、一年で合格率48%と、二人に一人が、しかも、法学部出身者でなけりゃダメ、などの厳しい審査も一切なく、素人同然の学生達が受かっている事実を私は読んだ。こちらの方がダメな制度であり、今となれば地に堕ちた司法の国家資格となってしまった。

 それで聞いた話が、今は町中、全国中に弁護士達が溢れかえる。それで余りに多すぎて、口利きや賄賂、まいない、上納金のような、顔が人よりも広くなければ一流の弁護士事務所にも入れない。金とコネが全ての世界。

 だから、実家の家業の、牛乳屋だか、新聞屋だかを国家資格で司法試験合格で弁護士資格を持った人が、仕事がないから仕方なく汗水垂らして下っぱの仕事を手伝っているという話を実際、聞いた。

 それもこれも、自民党公明党与党政権下で打ち出された政策じゃないですか。弁護士をこれからは増やそうという悪政治で。

 こんな手合いに、日本の司法、立法、行政を、その一端を、弁護士やら裁判官、検察官。司法書士、行政書士ほか、法律家と称される人々に任せておいても、私は一抜けた、であり、誠に信用ならぬと疑いを寄せている今夏の最中である。

以上。よしなに。wainai、長文につき、失礼。