Kaettekita 私が思う あのこと このことReturn(Get Back Part2)

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自由を得た翼を持ちたい!正当なる日蓮正宗信徒としての私が一番に似合いやる事は、「平和主義者を目指す事 ! 」

2024年07月21日 12時38分35秒 | 日蓮正宗総本山富士大石寺・御宗門・その御教え・教学・信行学
 皆様、今までの一連の私の振る舞いを多くの方々は見てきて分かったでしょう。
 初めから、性格・人格改造なんてムダな努力、実現不可能だったのですよ!
 皆さまの御期待を裏切り、大変心苦しいですが、事実は事実、現実に実証されましたから、全てが徒労だった訳です。
 ですから、私が、年当初から掲げた、「平和主義者になる」これは事実上、撤回撤廃致します。実際上、実現困難なのだもの。
 そうした理想に邁進する。それは一過性の理想ではあり、その理念は素晴らしいとは私も一時、想いました。
 しかし、いかんせん、絵に描いた餅、空理空論、机上の空論に過ぎなかった訳です。地に足がついてはいなかった。そんな個人的な感想・体験談です。
 私はしかし、これからも、人との摩擦を避ける為、怒らない努力は続けます、勿論です。
 しかし、人の、性格、人格、心を変え得るには個人の想像を越える努力の限度というものがある。その度を越した時、人生の破綻が待っているんだと思います。
 その不可能性、不可逆性は人間、誰しもが、私だけじゃなく、心の奥に、いだいているんじゃないですかね?!
 誰だって悩みの一つや二つは持っているもの。完全者なんてこの世にはいません。いるとすれば、仏様、一仏のみじゃないでしょうか。
 皆、なにがしかの欠陥を抱えて生きているのが実相でしょう。それがこの世の人情、実情というものです。
 ともかく、そういった標語箇条を掲げて人を教化する考えは、新興宗教の考え方そのものです、まるで。

 日蓮正宗では、全く、そんな大それた、人格改造・性格一変などという、おかしな考え方は一切してはいないとは思います。そんな事、聞いた事がないです。私なりに、そうだと思い信じます。

 「冥益」といって、末法の世では、御利益はジワジワと効いてきて、一朝一夕では何事も成し得ないのが、当門流です。というより、すぐさま、一日、一年単位ほどで、霊験あらたか、などというのは、邪宗邪教の魔の通力に他なりません。

 その伝で言えば、落ち着いて冷静な目で見詰めてみれば、実際の私も「平和主義者になる」の夢を、その結果を、努力の過程プロセスを見ずに、余りに生き急ぎ過ぎている、との見方も私なりに、客観視出来得ますが。そうだとすれば、ここまでの、今回にわかに私が起こしている、平和主義者を否定するこれ以前の論法、これ以後も、大半が誤っている事になりはしないのか。

 このまま、従来のこの度の論法を用いるが、間違っていれば、即座に改める用意はできている。暫く従前のこの稿での論法が、愚にも付かず、続く。暫く最終結論に至るまで、愚論にお付き合い下さい。でなければ、これ以後読み飛ばして頂き、直接、最終結論だけをお読み頂いても結構です。

 「過ちを改むるに憚る事勿れ」「君子豹変す」の故事もある由、故。

 自身の思想信条からも、これは、自然に、自発的に行われ得るものならば、賞賛されるでしょうが、私の場合は、自他共に追い込まれた末の、窮余の策、絶対的窮地に立たされて、一人自分勝手に立ち上げ始めたものですから。
 誰も救いようも、責任の取りようもない、無責任極まりない。エンドレスゲーム、個人ゲーム、有言実行不可能不可避ゲーム、性格改造疲労披露セレモニーゲーム、のようになってしまっていたのです。
 このまま行っていたら、二重人格、多重人格者となって落ちぶれてしまっていた事でしょうね。
 私は「怒った」って良い、と思うのです。人の自然なる感情の発露なのですから。それを無理に抑えつけたり、異常視する方が余程おかしいと思うのです。禁欲的ストイック禁止事項で厳禁、なのは幾らなんでも自然じゃないでしょう。人間的じゃないでしょう。不自然でしょう、まるで。どうです、皆さん?!
 この世に、ただの一度も怒らなかった人など一人もいない。必ずに。「怒り」は生体の防衛本能だ。種の生存権に関わる根本問題、存在理由にも為り得る。
 それでは、怒りの否定とは、大海へと流れる川の水の流れに逆らうようなものです。我々日蓮正宗法華講信徒は水の信心でゆくのですから、水の流れに逆らうような信心は間違いです。水の流れにここは従順にならなければいけない。私は御教え、法門の一番重要大事なる事を心から言ってるのですよ!
 そういう、怒るな、などと言う人は、自分に塁が及ぶのがコワいだけなのです。ハッキリ言って。
 自分さえ被害が及ばなければそれでよし、そういうのが私を代表とした無責任人間なのです。

 それで、かの、芸術家の「岡本太郎さん」なんかは、「美しく怒れ!」という著作、本を出版して、御遺しになられている。
 あの方は非常に立派だと思いますよ。自分の素直な人間的感情のままに、人に飼いならされずに振舞った。稀有な方です。一風変わってはおられますが、「変人」の類かも知れませんが。
 けれども、私は好きです。ああいう御方が。不世出の御方だと、これはその業績共に、人柄を、その全力投球で充実して生きた人生を羨ましくもあり、もう、この世にいないのを吾人は非常に惜しみ悲しむものです。
 そういった意味では、私も「変人」の類でしょうね。これは認めざるを得ない。人とは一風、変わっている点では、自他共に認めていますからね、既に私も。変わり者っちゃあ、変わり者だ。それは素直に認めましょう。
 ともかく、先程の、話により戻すと、これでは、必ずや、収拾がつかなくなる一方になるばかりなのでした。この先待っているのは、性格破綻者として、性格異常者としての自分に変貌してしまい兼ねなかった。
 それは、性格・人格を、代えようがないものを、意図的に「代える」作業が、非常にムダ、というか、精神的軋轢が私の心に圧迫を加え得る代物であったのです。
 だから、「徒労」だったのです。何で私一人ばかりが、この世界に於いて、こんな酷い苦労を背負わなきゃならないのとの自問自答。自分の性格の偏りから来る、毎日その理不尽さで自身を苛み責め悩み続けました。 
 もう、一人じゃ、背負いきれませんでした。あと一歩で破滅破綻に至り兼ねないギリギリの精神状況。そこまで追い込まれてた。
 無理なもんは無理なんです。自己改造は。性格破綻、二重・多重人格に繋がり兼ねなかった。土台、無理。
 だから、私は一抜けた、としたのです。自分を守る、その一点に懸けたのでした。
 だったら、この、非情なる、誰にも告白が敵わない、一人のみの苦悩から逃げ出してしまえと。そう考えが及びました。我ながら、そう気づけたのは、大収穫でした。万々歳、結果オーライです。
 もう、苦しまなくても良いのだと。そう思ったら、気が晴れました。
 まるで、今日の晴れ渡る、青空のように。私の心は澄み渡っているばかりなのでした。
 去年末から今年に掛けて、自分一人の判断で勝手に打ち出した指標目標でしたが…。努力の甲斐もなく、実現不可能で終わり、自分でも情けないです。
 今は敗北感で満たされております。
 後はそれらが、トラウマとならないよう、祈るばかりです。

 とはいえ、私は、最初から実現不可能な目標を立てたのが失敗要因なので、今後は、もっと思い付きじゃなく、出来れば身近な多くの人と相談、折り合いを付けた上で、その後の目標決定へと、着々と実現化を図る肚積もりで御座います。
 
 ただじゃあ、起きません。「倒れたる者、地によりて起き上がる」の宗祖日蓮大聖人様の御金言の仰せのままに、又「懲りず候」でこれからも精進しつつ頑張ります。

最終結論
 しかし、上記の初盤中盤辺りで申したように、現代末法の世は、濁世(じょくせ)でもあり、「冥益(みょうやく)」の世でもあります。

 ここで、結論を、ちゃぶ台をひっくり返します。私は、ここで、誤りを犯した事に気付きました。冥益の世に、結果ばかりを執拗に追い求めて、その過程を全然見ない。見ようとしてはいなかったのは明らかに私の過失である。

 性急であってはいけない。ここは正念場であり、腰を据えて、諦める場面じゃない。そうと決した。自分で決めた事には自分で責任を負うのが大人の世界の常識、責任の一端である。

 であるからして、この文章の最終結論は、悩みに悩み抜いたが、私の全生涯を貫き通して、現役の「平和主義者でいきてゆく ! 」これで一貫する事をここに、天下天上に於いて誓うものである !

※編集後記
 ここで繰り広げた愚文は、長い事悩んで導き出した、自分なりの、平和主義者へとなる為の「法則」「方程式」「解法」「手引き書」のようなものです。長い悩みの淵の中にいて、そこから、身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ、であり、皆様には、かなり長文でお目汚しした事を自身恥じ入り、しかし新たな自己発見にも処せた事に、ここまで多くの方を巻き込んでしまった事を詫び入ると共に、ここまで最終結論までお付き合い頂いた皆様には、御苦労様でした、お疲れ様でした、非常に申し訳ない、との念慮しか今の所今の私には全く御座いません。有り得ないのであります。

 長文誠に失礼致しました!

 以上。よしなに。wainai