Kaettekita 私が思う あのこと このことReturn(Get Back Part2)

進取究明。日々の雑感を気ままに綴る私なりに思い考え行い実践する不定期の記録。写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ。

御退夜御講・講頭さん、あいさつ、R6年二〇二四年七月十三日(土)PM七時、於・寿海寺本堂

2024年07月13日 21時24分12秒 | 日蓮正宗無量山寿海寺・菩提寺・末寺・お寺・僧俗一同・僧俗一致
 みなさん、こんにちは!

 毎日湿度や温度が高いので、お体に気を付けて!

 さて、今度の寿海寺の少年部のお楽しみ会「徳勝会」があります。
 信心するしないに関わらず、来てくださいね。

 八月になると、「お盆」。
 寿海寺の墓地清掃は七月下旬にあります。
 朝七時からと時間を早めて、墓地をお持ちの方も無い方も、ふるってご参加下さい。
 
 九月お彼岸前、九月十五日、支部総登山「御開扉」。次の日は何とラッキーにも「敬老の日」。参加しやすいのでご参加を。

 今年も半年。いい話を一つ。
 須賀川にある、「がんじょう寺」。正信会に不法占拠されて来たのが、戻って来る。40年近く、本堂と庫裏が傷みが激しい。
 庫裏を更地にして、一年後のお盆に復活。福島県の日蓮正宗寺院が一か寺増えて、13か寺へ。
 正信会は正宗の御本尊様だが、その堂内に入った瞬間に判る。その間違った信心をすれば、結果が判る。
 御本尊様の仏力法力が幾らあっても、僧侶信徒側に真の血脈が流れ通わなければ、信力行力は通わない。
 創価もほとんどがニセ本尊。顕正会に至ってはさもありなん。
 幾ら正真の御本尊様でも、信心の血脈はそれら邪教の信心には通じない。
 
 家族の交流、町内会、盆踊り、等々、寿海寺の事を話してゆきたい。

 私からは以上でございます。

(文責・wainai123753、筆記記録メモする。以上。よしなに。wainai)

「群山郡山歌会」火花飛び散る程、白熱した議論歌論。於:大槻公民館、R6年2024年7月13日土曜日午前十時~

2024年07月13日 15時38分11秒 | 短歌・和歌・作歌、歌会。歌を作る、短歌を味わう。表現する。批評する。俳句鑑賞
 本日、アララギ派の短歌の流れを汲む、「群山郡山歌会」が開催された。


 完了の助動詞「つ・ぬ」
 「ぬ」日の出、今、太陽が出た。今出て来た。頭出して海や山から。
 日出で「ぬ」。

 「つ」日が出た。完全に。日が昇った。もう出ちゃった。完全に出た。(を含む)。
 日出で「つ」。

 感覚的に覚える。
 
 こういうことを考えてゆくと、自分の歌風、その人なりの、真意がわかってくる。

(生徒さん作)
 正義ある判決の出たその夜は皿洗ふ手に力が入る

 口語と文語が入り混じって、いいのかな(作者の生徒さん)
 口語体ならば、この方が良い(先生)

 「写生」のこの歌の良い所。事実をそのまま詠んでいる。作者の気持ちが入っている。
 
 文語体ならば、「出た」が「出でし」。「力が」が「力の」へ。そのまま、「入る(はいる)」じゃなくて「入る(いる)」。(自然が大事)。

 私が余計な事を言い、「力を」ではどうなのか、と言うと、先生は、「を」だと、ちょっとニュアンスが変わる、という。

 今は口語文語混合でも良いと言われているので(生徒さん)
 短歌で大事なのは下の句、結句。(先生)

 (生徒さん)「いれし」にして。(先生)原文のまま、手を加えない方が良い、と判断。

数を作れば段々わかる。

 短歌結社『群山』、「写生論」・「写実論」=あるものをそのまま写し取る。

 正岡子規→斎藤茂吉→土屋文明、『アララギ派』を引き継ぎ→東北大学教授扇畑忠雄先生へ。扇畑先生は、アララギ派の土屋文明先生の直系、愛弟子。師弟関係を結んだ。

 (生徒さん作)
 びわ実り明日仏前にそなえんと思ひあさはかもずの大群

 昨日、びわをもいで置けば良かったのに、鳥にみんな持ってかれた。
 (あさはか)に対する思い。作者のこう思ったとか、一切ないのが良い歌。
 大群(たいぐん:口語体)→文語体(おおむれ・おおむら)。
 文語体、「群鳥」(むれどり)。「もず」を消せば、ダブらずに、出来るが。
 「そなえんと」を、「そなえんに」の、助詞を「に」に変えたら、そのままでも良い。
 (先生)思い立ったが吉日。
 「そなえん」の助詞「ん」。正岡子規は「ん」。群山の場合は「む」。

 私の歌。
 
 大石寺(たいせきじ)集まり散じて人はかはれど心は変はらず

 (女性生徒さん)わかります。
 (男性生徒さん)むずかしい。人は集まったが、色々歴史上、散り散りにいなくなったが、人の心は変わらないのかな。人は常に、前進し、不変で心は変わらないよ、と言う自分の決意。

 (私)ハッキリ言って。この歌は、早稲田大学の校歌の三番の本歌どり。

 (先生)本人の強い気持ち。私の強い気持ち。
 
 (先生)会津八一(京都奈良を研学した。仏教的な歌、仏像の歌なども発表した人)のような人もいるが…。実際そういう人もいたが…。

 (先生)宗教色はなくした方が良い。

 (先生)
 ex.)斎藤茂吉の論。
 「実相観入」・「実相」=ドイツ語からの翻訳。「観入」=仏教からとった意味をドイツ語からとった。「観入」=観心・観念。

 (先生)仏教にはない。「お寺名は出してもいいが最後の下の句、結句が通じない」

 (先生)もう少しわかるように作って下さい。下の句が大事な所で、真似ちゃうと、(大学校歌など)合わない。この学校関係者、その他、一般的に知られた大学の校歌だから(私wainaiの母も、かつて住み慣れた学生街の早稲田なればこそ)薄々知っている、勘づく人も出て来るから、本歌取りもどうかなと。

 「人」=参拝客(皆、そう考える)。中には生徒さんで、やめてく檀家さん、僧侶、と受け取った人もいた。

 「私」=創価、正信、顕正、の異流義の方々が変わったと捉える。

 私が、まあ、一般論的に、話を譲って、参拝客と一般化しても良いと答えると、先生は、一番大事な所ですよ、と私を捉えて離さない。私は戸田先生を引き合いに出し、戸田城聖第二代会長先生の時代の頃の総本山は、それは人だらけであり、それが三代池田会長の頃も続いていたと答えた。それが昭和時代だったと。

 (先生)
 「詠む人」歌材の真実。
 「読む人」歌の中のその人、作品の真実。
それぞれの立場。歌を読む人は読んでいない。読めない。
 「詠んだ人」と「読む人」の差。

 (私)
 私の立場では、読む人の事なんか初めから考えない。その人に解釈を任せる考え方。明治の短歌の改革者・創始者、歌人の正岡子規と同じ立場である。

 (先生)
 茂吉は何を表現するかで人一倍悩む=二番煎じ、人の使った言葉は使わない。
 「さかしらなみ」茂吉の造語。
 逆白浪。逆白波。白浪。白波。逆波。逆浪。

 (先生)
 私が思い余って、このままでこの歌はゆくんだ、との訴えに、まずは話を聞いてと先生の合いの手が入る。
 「心は(変わらず)」ここで、「心」としたが、心を「われ」としたとして、同じ「われ」でも、二つあり、
 「吾」=身・私。
 「我」=生命・「仏教」の経典では全部が漢字の「我」を使う、と先生はいう。

 (私)
 そこで私が繰り出した御経典の言葉。妙法蓮華経如来寿量品の一節、宗祖日蓮大聖人様の文底秘沈の大法、御悟りの、大事な場面の一節、「我本行菩薩道」をつまびらかに、この場で提言、奉出致したのである。

 今では5分間という短すぎる簡略勤行で五座も寿量品の長行すらも唱えなくなってしまった、創価に対する私からの痛切なる仕返し、お見舞いであった。

 明らかに、大事の法門を、この場にて現出せしめた訳である。破折と皮肉の意味でも。


場面は代わって。(先生)

 最上川さかしらなみの立つ〇〇〇(聞き逃し)ふぶくゆうべとなりにけるかも
 斎藤茂吉の歌。「かも」は「か」と「も」で二つとも詠嘆。
 ふぶくゆうべとなりにけらずや この「や」強い表現。

 茂吉。赤光。けらずや「や」一首ある。
 けり。詠嘆。(短歌の場合は全て)

 斎藤茂吉は命令形は使わない。「已然形」が多い。

「先生の歌」
 男孫十(とお)まり四歳を迎ふれば人生論など語りてみたり

 十(とお)まり=十(あ)まり(古典的省略法・用語)
 (生徒さん)カッコ良い表現。

 (先生)「男孫」・「など」・「みたり」つながっている。男は十三歳で元服。ちょっと人生論でも語ってみたい。ちょっと遠慮がちに。今現在は十五歳。中三。少し大人になって来て、教えて上げたいなあと、けれどもそこまでは入り込めないなあ。

 正岡子規に範を取ったが、最低二つ、二句まで、句を真似てもいいが、三つ、三句以上は盗作かも!

老いてなほ美しきものを吾は見む若かりし日に見えざりしもの

「扇畑忠雄先生(八十一歳)」の歌。
 扇畑先生は歌の意味は全然言っていない。弟子が言っている。実相観入。
(生徒さん・今日来た見学者さん)実相的な歌を歌う場合と、おばあちゃんが赤ちゃんを背負い、手のしわの一つ一つが実相。この歌は観念的ではないのか。

 (女性生徒さん)老境の境地なのかな。

 (先生)この歌、年を取ってからじゃないとわからない気持ち。
 扇畑先生の写実論を実際に読まないと判らないが、写実が基本で大事。
 その奥にあるもの、歌の材料として、作者が匂わす言葉が入ると、
 何を言いたい、入れたいのか。不思議なんだが、短歌は滲み出て来る。


紫陽花の紫色は母の色優しくもあり逞(たくま)しくもあり (女性生徒Kさん作)

(男性生徒さん)母がびわにしろ、柿にしろ、あじさいにしろ、植えて、私らは感謝などもせず、けれども怒らず接してくれて、我々を育てるたくましさ、この歌を読んで走馬灯のように思える。たくましさ生きるすべを我々に与えた。あじさいについて文句など一言も一切言わない母。ただ感動を与える。

(先生)Kさんのお母さんをとても個人的にも知っているので、その実直さが出ていて、良い歌。

(私)私も以前、同じあじさいの題で歌を作ったが、それがこの歌は、レベルが越えたのじゃないか。韻も踏んでいるし。

 (先生)この歌は写実論を述べていて、良い歌、素晴らしい歌。

(最後に先生)若さは力であり、弱さでもある。
 短歌は、数を沢山作れば感覚は磨かれてゆく!
(今日の結論。エピローグ。大団円。)

以上。よしなに。wainai

ようやく御住職様の言った意味が判った。日蓮正宗無量山寿海寺へのTEL=常識外れは嫌われるこの世の仏法の条理、定め。長文失礼。

2024年07月13日 00時01分00秒 | 日蓮正宗無量山寿海寺・菩提寺・末寺・お寺・僧俗一同・僧俗一致
 初めに、長文につき失礼。

 以前、私は、日蓮正宗無量山寿海寺の信徒として、御住職様へ電話をした事がある。

 電話は年がら年中で、珍しくも何ともないが、ある事で、私からの一報を、お寺に入れたのだ。

 それは或る近所の家の、私より年上の女が、私が朝の勤行、夕方の勤行、これをやると必ず外に出て来て、最初に柏手を打つ真似をしたり、掃除をゴミが見えない夜にもホウキを掃いたりしたり、私が鈴(りん)を鳴らすかどうかの時を狙って、派手に鳴らす、等々、少々気にはなってはいたのだ。

 それに対して、御住職様にはこちらからは泣きながら、悔しくて悔しくて電話した事もあった。あんな、単立日蓮宗法久寺などにここまで蹂躙されるとは。(先方の車の後ろの窓には、堂々とその寺のステッカーが張り付けてある)。

 御住職様は心配為さっていた。私がいつか、朝の勤行中に、その一家目掛けて、「罪障積んでろ!」と獅子吼の如くに一喝の下、その一声で心が収まったが、それで済む程、事は簡単じゃなかった。

 中には、祈る声が折伏になるなど、ウソではないが、真実からも遠い事を言う信徒もいたが。それを御住職様には度々、お電話で、お話しはしていた。

 そうすると、御住職様は、相手の人は、wainai君(私)は、実際その一家にはどう思われていると思う?と聞かれて、私は「とてもうちを羨ましがってると思います。至上の、最高の仏法をこちらはやっているんですから」と言うと、御住職様は「さあて、それは、どうかな」とふいに不思議そうな言葉で言い含めて、御住職様は否定的だった。

 こちらが最高、至宝、至高の存在の仏法、天下の日蓮正宗を幾らやっているったって、そんなの判る訳ないわな。

 私からは、お寺のパンフレットを、その家のポストに過去、入れた事があったが、無記名、電話の連絡先も空欄であり、全然、その頃の私は折伏の精神がなっていなかった。それを折伏とは言わない。決して。無責任極まりない。

 だから、私のこれは負けである。どんなに勤行唱題で、こちらが「いいんだぞ、いいんだぞ」とがなった所で、どこ吹く風。馬の耳に念仏。柳に風。糠に釘、なのだ。

 そして、それらはただの騒音にしか過ぎない。残念ながら、全くの部外者にとっては。祈りが、折伏になるなどと考えたって、大間違いだ。

 それどころか、余計に本宗のイメージ、印象を悪くするのみ。悪印象、ダメージを日蓮正宗に与えるのみ。

 バカじゃないか。有難迷惑だろう。御宗門にとっても。御近所の人々にとっても。

 自分一人が有難がっていて、バカで仏様の顔に泥を塗っているのはこの、こっちの私だろう、まさしく。

 とにかく、今後は、常識のある範囲内でしか、声は極力、小さな声で、周りの迷惑にならないように気を付けてやる事にする。それ以外に方法は全然無い。

 それに対して、誰も、今では本宗から文句を言うものはいない。御住職様も同じ立場だ。かつての創価学会なんかもっと徹底して、騒音対策にはうるさかった筈である。

 住宅街なのである。私が住むのは。野中の一軒屋ではないのである。それをそんなにまでやりたいならば、この住宅密集地を飛び出して、山にでも引き籠るしかない。

 それが出来ないから悩んでいるのだ。それに文句をつける人がいたら、余程の田舎の良い環境に住んでるか、家の気密性、防音性に優れた家か、元々小声の人か、真症のバカか、いずれかだろう。

 とにかく、声を出す宗教って、これだから駄目ね、全く。と人様に言われぬ内に、退散だ。逃げるが勝ちだ。逃げなさい。逃げるんだよ。本当に。

 そこの所をちゃーんと弁えないと、私がバカを見る事になる。誰も責任など取ってやくれやしない。私の肩に全責任が伸し掛かるのだ。

 立場と言うものを弁え、考えろ。目立ちたがり屋精神じゃ、それだけじゃダメなんだって。

 他人事だから、そんな、大きな声でやるのがどこが悪い、等と言えるのだ。お前が責任とれるのか。私の身にもしもの事があれば責任取ってくれるのか!このおんつぁめが!(福島弁)。

 私ももう五十を超えた。子供じゃないんだ。当たり前だろ、そんな事!

 それだけは覚悟して、これからを見据えて、事を対処してゆきたい。

 とにかく、近所トラブルには、これは参った。白旗だ。降参だ。別に勝負なんか初めからしていない。負けて本望。悔しくもない。逆に、嬉しくもあるこの境地。負けるが勝ちなんだよ、何事も。泣く子と地頭には勝てぬってね。

 初めから、勝とう勝とうとするから、その害悪が身に及ぶ。徳川家康公も言っているではないか。「一、勝つ事ばかり知りて負くる事を知らざれば害其の身に至る」(徳川家康公遺訓)と。

 たまには負けてやれ、という事。連戦連勝なんて、創価じゃないんだから。
 創価は連勝と池田大作氏がほざいたが、その裁判結果の聖教新聞・創価新報等の機関紙はウソばかり述べていた。

 実際は、日蓮正宗側が勝訴していたケースがほとんど。後のそれらペーパーフェイク悪徳デマ情報メディアは、ウソにウソを塗り固めた、創価プロパガンダ製造機・装置に過ぎなかったのだ。彼らは純情で無知な会員達相手に意図的盲目的にウソをでっち上げていた事になる。

 とにかく、夜も更けたので、これ位で、後は宜しく頼みます。夜の勤行唱題は声は極小さめ。音響機器・電子ピアノもヘッドフォン。後は人に迷惑を掛けずに静かに本など読んでいれば良いのだ。

 とにもかくにも、常識外れは、この世からも、仏法上からも、嫌われる事、必定。これがこの世の掟。

 仏法世法上の、身の処し方。一般人に受け入れられないものは、誰が見たって、受け入れるのは不可能。

 何も我々の広宣流布活動がダメだと言ってるのでは決してない。

 ただ、「ど」や「狂」が付く程の、やり過ぎた行為は、誰が見たって聞いたって、それは市民生活・国民感情が許さずに、そうは問屋は卸さない、はなからダメです、という事。

 逆効果で、逆に人並外れた常識外れは、不幸な結果、広布を阻害し兼ねない。

 御宗門もいい迷惑。

 そこをお寺の以前の、今も、菩提寺のお寺の重鎮の或る県の或る御方には、ムダな抵抗は止めて、黙って判って頂きたいな、とこれは私のたっての希望なのだ。

 頑固で言ってもムダか、判る相手なのか。そこは時の運としか言えないが。

 きっと判ってもらえると思う。うちの騒音問題を、その方は、信心で解決するしかない、などと仰っていたが、その信心が元はと言えば、騒音の原因、根源なんでしょうが。

 私の事、身の上、言ってみれば生命など、こうなったら、どうでも良いのか。

 私がもしも、この件で、命を落として、殉教するような事になったらどうなるのか、とその方に聞くと、これは凄い事になる。宗門・伝説・歴史に残るよ、絶対に ! という。

 冗談じゃない。それでは私がまるで人柱ではないか。

 だから、わたしは、これからも、名より実を取る。これで今後、一貫する。

 或いは…。

 どんな美談で言いくるめようとも、私の覚悟は変わらず。周りの邪教に屈したと取るならば、それで結構。

 それじゃあ、随方毘尼の法門はどうなるのか。仏法破戒につながってはおらずに、破和合僧でも、十四誹謗でも、十悪でも三毒でもない。そのどれにも当てはまらない。

 ただ、その方が頑迷に頑なに、おそらくその方は祈る声が、大聖人の「声仏事を為す」の御文を折伏になると、後生大事に抱えていると見える。

 それは、破仏法につながらないのか。「今生人界の思い出なりき」の、それら、他教徒の幸せを奪ってまで、詰まりはそこで我が家ががなり立てて、人一倍迷惑を掛けてまでやっていいことなのか?果たして。

 そういうのを「エゴ」「利己主義」といい、人迷惑であり、修羅道、修羅界、相争う、極悪道。下手をしたら、地獄道、地獄界への道真っ逆さまだ。

 そんなにカッコつけて、人の迷惑も考えないで、やりたい放題やるのが正宗式ならば、金輪際、私は正宗など辞めてやるわ。えい。

 それに、御住職様の、先の指導にも反するではないのか。御住職様ですら、込み入った住宅街での、大きな勤行唱題の声は慎みなさいと仰る。

 それとも、御住職様に逆らう気?言ってる言葉を用いないのかな?私はそれは話が違うと思うな。

 何でも、信徒の立場もあるが、出来得る限り、指導教師の説に従うのが弟子の役目。

 それらの事は、今現在の、寿海寺、お寺での朝の唱題行、夕べの勤行会でも使用中の「化義抄」の注解書、御説法で絶賛、使っている御本の中にもう、答えがある。日有上人の立派な書に、随方毘尼やら何やら満載であり、とても面白くていい本だ。買って損はない。

 こういう良書を日頃から読まない、遠隔地にいる為に、良くお寺の事情、現在の我が寿海寺を取り巻く情勢、現状に一歩でも十歩百歩とそうやって、一年二年とどんどんと乗り遅れてしまう。

 それではダメだ。それだったら、そんな間違った後輩への指導を、うちのお寺の御住職様始め、皆の信徒方が一決して申していて、誰一人異論なんか出ないのに。

 そんな大声で近所でやれ、なんて、誰も言わないのに、一人盛り上がって勝手な振る舞い。それを、同体異心、獅子身中の虫、というのでは。

 余りに言い過ぎたのでこれ位にする。この言葉で傷つかない様に。私はけれど、これは正論だと思う。「信心で解決」って、どうやっても解決付かずに、御住職、信徒、皆で出した答えに、一人逆らうんなら、それも仕方ない。その道をどんどん突き進んでいって下さい。御勝手に。後は保証はしませんよ。

 とにかく、破和合僧のにおいがする。このケース、御方は。破戒のにおいも。和合僧団の破戒を狙ってはいないのならば、私の言ってる事には一理あると、思うだけでも、今日の生きる糧にはなるとは思うんだが。

 私もあなたの頑迷さと理屈っぽさと、私の不用意さと攻撃性で、近所トラブルの、この問題に何度も対処しても埒が明かなかった。

 その解決の糸口の端緒がやっと見つかった所、段階、決して無理をしない、しかし相手に屈してもいない、ただ迷惑を掛けた何分の一かの非が私に現在ある。

 これは、僧俗、皆の一致した意見なので、これはそのままにして置いてやって欲しい。それが信徒間の友情、先輩後輩の、同志としての、麗しい、力量、思いやり、慈悲行だろう。

 それでは、とにかく、そういう訳で、宜しく、ごきげんよう。お休みなさい。

 以上。よしなに。wainai