私は今年の三月下旬に行われた、日蓮正宗無量山寿海寺での、第一回支部総登山会では、私の菩提寺の講頭さんからも、wainai君(私)は、最近は、心がだいぶ落ち着いて来て、みんな、wainai君はおとなしくなった、いい傾向が続いている、だいぶ評判が良いと聞いているよ、とのお言葉を頂き、それに自分でも頷く所もあり、だいぶ天狗になっていたようだ。
しかし、私の体重は、この所、六十キロ台から、七十キロ前半へと、太って来ていた。それで、先生に相談すると、それは、オランザピンという、心の安定には有効なのだが、元々太る薬なんだわ、と言われ、確か、10mgから、8mg、5mg、今は2.5mgへと、変えて行った。
その関係で、体重は七十キロから、何とか、六十九キロ、八キロ台には減っては来たのだ。それは真に喜ばしい。
しかし、問題行動も出て来て、舌禍事件、というのか、メールにしろ口頭にしろ、人様と、文句を言う、ケンカ腰で物を語る、ここで大事なのは人と場所は選ぶがどちらかと言うと弱い者いじめのダメ出しのようになってしまう二重規格・二重人格のような、という惨憺たる状態へと、今現在も追い込まれている。
昨日の講頭さんとの電話では、私が調子こいて、先月末の総本山へのバス車中にて、前の席に陣取り、講頭さんの後ろに私がいて、感情に任せて歌を歌う。スマホで音楽を掛ける。運転中の講頭さんの邪魔をするが如くの、ペチャクチャ話し掛ける。
という私のバカ騒ぎ、狼藉を働いた今回の私の登山での悪業の数々。講頭さんは、ちっとも以前と変わってなんかいないじゃないか、との私への手厳しい御指摘を今回厳重にお受けした。
昨日の私はそのお話を受けて、暗然として、自省反省懺悔滅罪を祈りつつ、ショック感パニック感が一切心からも体からも抜け切れずにそれを一心に考え続けて、夜もかなり遅くにやっとの事で眠りに就いた。
私にとっては、非常に追い込まれた、怒りは地獄、と仏教仏法では説いていて、これは貪瞋痴の三毒の中の、一番汚らしい、上は仏界から下は地獄界の中の、最低の部類の境涯に、時としては自身は身分を堕としている事になる。
私の非常に頼りにしている大先輩で、栃木のKさんというお方がいるが、その方が思ったそうである。私が或る時、怒るとすごい、スッキリする、気分が良い。と、ふと私が漏らした言葉の端々に、その私の本性を見抜いたらしい。
言って置くが、Kさんは、お寺でも、絶対に怒った姿など、絶対に見せた事など一切ない。怒る人の気持ちが判らない、という程の、君子にも近い程、心がいつも穏やかである。私も誰も皆、彼は怒らない人としてお寺では認識されているし、自認もされている。
その時も、それ以前からも、私が怒る体質であったのはそのKさんも見抜いていただろうが、それ以来、出来る限り、私の逆鱗に触れぬように、慎重に言葉を選んでいる様子が、彼のメールの文章、電話での通話の言葉選びにも、それが如実に表れていると思う。
こんな現在の自分が、日蓮正宗の大事なる、「折伏行」など現時点で行ったならば、それこそ猊下様が仰る「折伏はケンカではない」「折伏でケンカをしてはいけない」「折伏で相手をけちょんけちょんに、相手の人格まで否定してはならない」これら、御法主上人猊下様の指示した指針、折伏の極意にも抵触し反する行為を、私は侵しかねない。だから、私の現在は、折伏は控えたい、控えている最中、という事になる。
とにかく、話を前に戻すと、そうやって、私は現在も、多くの人、方々に迷惑をかけ続け、かけどうしである、という事だ。
人が迷惑だと思う事は絶対にやらない。人が喜ぶことを率先してやる。己の欲せざるところ、人に施す事なかれ「論語」(孔子様)の通りの、君子の道、大人(たいじん)の如く振舞えないものか、宗祖日蓮大聖人様も説く「慈悲行」「菩薩行」「善行徳行」「和顔施」「恩に報いる心」で、果たして人様に対せないものか。
そればかりを考えている今日この頃である。
考えているばかりではダメである。それへの第一の直道、一番手っ取り早い方法が、毎日の「朝夕の自行化他にわたる勤行唱題行」、正にこれである。
これしか、私が劇的に代わり得る、毒病快癒する、変毒為薬、転重軽受の法門に縁した我なれば、これを積極的に、朝夕の勤行唱題に”ど”がつく程、バカになったみたいに打ち込んで、読経唱題、お題目に心血を注いで、自己の悪因縁、自己改革、反省に反省を正真の御本尊様の御宝前の前にて合掌端座して、真摯になって取り組む。
愚痴は御本尊様へぶつければ祈りと変じて、自身の罪障消滅、功徳となり得る。
この定理、ことわりを知った、日蓮正宗の御教えから教えられた我なれば、それを寡黙になって、黙って一目散に、お仏壇の前に集合して、或いはお寺の唱題行、勤行会に、時には五時間唱題会、広布唱題会等々に是非とも打ち揮って参詣参加致して、人法一箇の大聖人様、御本尊様の御心を御心として、何としてでもこの私をも御照覧に預かりたいと望むものである。
そして、何よりも絵に描いた餅ではダメだ。これは正に日蓮正宗独自の「事の一念三千」の法門の面目躍如だ。
それで、心が澄み渡れば、解脱、悟達の意味も次第に自身の中で薫育されて、判って来るのではないのか。その時に初めて、自身のねじ曲がったクセだらけの悪徳な性格、人格が代わっているのが、後々きっと、判って来るであろう。
ともかく、性根を据えて、私は真人間になる為に、愚痴をこぼさずに、怒りにも燃えずに、頑張ってみる。
しかし、政治に対して怒るとか、世の不正に対して怒る。これは公正なる怒りであり、これらが、世の中の歴史や思想を実にダイナミックに動かした。
しかし、それとは話が別である。私がしょっちゅう、特に愚痴とも個人的な恨みともつかぬ詰まらぬ事で、始終幕なく、怒ってばかりいたら、こちらの身が持たない。
相談室の長が言うのには、私の場合は、記憶力が非常に良く(良過ぎて)、過去に起こった、自身が頭に来た事一々に至るまで、私が過去の終わった事を蒸し返して思い起こし思い出しては、今までの全てを女々しくも恨んだり妬んだり怒っているのを見て、それは良くは無く、怒りを代表とするものを自分の脳がちゃんと聞いていて、その脳にもストレスとなり、脳に非常なるダメージを与えているという。
それを聞いた栃木のKさんは、その考え方は、脳科学者の「中野信子さん」の本の中で仰られた事と同じであり、最新の脳科学の成果をその室長は語っている。
相談室室長さんも、その「脳科学者」の説を採用してモノを語っている、と実際仰っている。
出来るだけ、その、それ以前は、私自身は福祉相談室の長に信頼など全然寄せてなどいなかったのが、その相談室の長の方には、よーくいう事をちゃんと、自分に嫌だと思う事を一時的に言われたとしても、深く思い悩んだり怒ったり恨んだりする必要は全くないと。
言ってることは大筋では全て正しく、wainaiさんの事を心底から心配して下さっている事業所だと、その栃木のKさんは、一を聞いて十を知る、で、良い事業所、相談室だと判断され、その方を信頼しても良いのではないかと、Kさんは仰られた。
だから、その時以来、私も、少しずつ、その相談室に心を開くようにはなって来た。
とにかく、私にとり、今の私は、心の歯止め、コントロールが、怒りの絶頂に達した時には、何か、酒が一滴も飲めない私があたかもお酒に酔って、自分が何者か判らない、或いは、何者か、神にでも自身が成り代わった積りで、人様に対して、悪し様に攻撃する。
訪看さん、訪問看護婦さんのこれも長の方も、誰も、wainaiさんが現在が怒るタイプの人だとは、思っているのが、福祉関係者と、お寺関係者のみであり、一般市民や、大勢の方はそれが知らない。それに対して、その怒る事で、wainaiさんの価値が下がってしまう事は、非常にロスだし、勿体ない、という。
とにかく、怒る事は、ろくな事が無い。これは実証済みだ。しかし、これは余計な、おまけの話だが、私の購入した、芸術家、岡本太郎さんの電子著書に「美しく怒れ!」との本がある。
その事を、先述の福祉相談室の長の方に言うと、あの人は、物腰から何から人間的に出来ていて、むしろ、”チャーミング”で”可愛らしい方”だった。それとwainaiさんは、比較して、比べちゃダメですよ、と仰る。
とにかく、一生勉強、一生精進。一生仏道修行。学ぶ事、学習に終わりは無いのだ。この道を私は愚直に、実直に、誠実に、永遠に最期が来るまで私は「平和主義者」を目指してこれを旗頭として、これからの人生を生き抜いてゆく事にこれを決めた。
以上。よしなに。wainai