私の近所の創価学会員宅には今は違う家にはなったが、当時、座談会場として使われていた御宅があり、私などは、そこへ晴れがましく通った。
それは、私が本格的にこの信心を始めた、1998年以来、私の創価学会デビューの幕開けであった。
その時、私は、その年に起こった、夏の栃木・福島を襲った大雨災害を機に、私なりに、天地に誓う、というのか、その座談会でも、これは、その被害者、死者からへの、何らかの、私への忠告に違いない、だから、私はこの信心を始めたのだ、と皆の前で、小さな、しかし、勇気をもって体験発表をした。
それに対して、場を盛り上げる、太った司会者の年上女性は、凄い人が現れたものですね、と私をねぎらった。
そこの座談会では、様々な思い出がある。しかし、そうする内に、母とも仲良く二人でそこへ通う内に、嫌な思い出も次第に多くなってゆく。
何といっても、私たち親子に対して、快く思わない人などが、自分があげたお菓子でもないのに、私たちに勧めて、「食べな!」と乞食にでも与える風に言った時が、母にとっては、自身が受けた最大の屈辱・侮辱と受け取ったようだった。
私は、この座談会では、男子部に属していて、そこでは、男子部の教学部を中心にして、この場を借りて、即席の教学の指導が、その場で男女関係なく、執り行われていた。
私から見ると、その男子部でも、その教学部の中心者は、数歳、年上の、ある電機メーカーに勤める、郡山北工業高校卒業の、高卒の男性が、何か、教学の資格を持っていて、私達に教えを垂れていた。
この人は、別の機会に、私の玄関先にきて、実際、この今から二十年位前の話だが、携帯電話の料金値下げの国会陳情に、署名が欲しいと我が家へとこの男が乗り込んで来た。
しかし、私は、実際には、当時、郡山駅前の中町通りで、私がCDショップの新星堂にCDを買いにゆき、その足で、中町通りを自転車を引いて歩いていると、その場に、当時、市議会議員だか県議会議員だかを務めていた、箭内議員と言う人を中心にして、街中で派手に、公明党ののぼりと車を置いて、熱心に署名活動をしていた。
それにその熱意に私は乗って、一筆、署名をしたのだ。
それから、その、前述の、北工卒の男が我が家に来て、どうしても署名が欲しいと言った。
しかし、私が、既に、駅前に先週だか(当時)行き、公明党議員がいた場所で、署名は済ませた、と言うと、半ば、へえー、そうなんですかー、と言いつつ、何か、不審そうに、こちらの顔色を窺い、疑問視するような目つきで、私と相対した。
それで、私も、本当なんですよ、と言うも、どこまで信じてもらえているのか、私には判らなかった。
しかし、明らかに、私に対しては、信用・信頼などは全くしていなかったようだった。この男は信用ならぬと。
そんな経緯もあった。そして、私は当時から、作業所に通っていて、そこの作業所の住宅・グループホームにも住み込んでいた、障碍を負った私よりもより病状・障碍が重そうなやはり年上の男性が、この北工の男を、それはそれは、私よりも誰よりも、何か特別待遇でもしてもらっているのかという位に、持ち上げていた。
何かにつけて、○○さん○○さん、と、まるで、その指導する男が居ないと、自分の居場所すらないと言いたげな様子を、何時も見せていたその弱弱し気な障碍者男性。
そして、その重い障碍の男性も私達の地区の座談会場に姿を見せるようになった。
そうして、御書講義を受けて、良かった、を連発した。私には、全然、心のこもってなんかいない、御書講義だとしか思えなかった。
結局、その北工上がりの、電機メーカー勤めの男の、御書講義の最後の決めゼリフは、必ず、日蓮大聖人の言葉より何よりも、「池田大作センセー」は、こう仰っている、とこういう結末で、締めているのが通例であった。
何よりもまずは、大聖人様の言葉は参考にしか過ぎずに、最も言いたい事は、「池田センセー」の言い分を最後には必ず持って来て、これが初めから言いたかったのだ、と言いたげであった。
私には、とても陳腐にしか聞こえなかった。例え、その当時の、熱意ある学会員だったとしても。
ダブルスタンダード、二重基準がある、二重人格、二枚舌、偽善者然とした、創価の間違える、狂った教学だと、この時、図らずも、私の当時、「創価脳」の足りない頭だったとしても、「池田教」「池田創価学会」の表看板に、皆騙されているんだ、と、少しずつだが、私は気付き思い始めていた。
それに、その職業高校の、北工上がりの先輩?!講師も、年に数回、教学試験が行われているならば、私はその問題集や答案が、聖教新聞紙上に当時から、何回となく載せられていたのを見ていたが、それら、地区の学会員の、男子部にしろ何にしろ、一度たりとも、私に試験を受けてみませんか?などという、お伺い等を聞いた試しが一度もなかった。
その、前述の、グループホーム住まいの、障碍の重い男性ですら、何かしらの教学の資格を持っているのに、だ。
私が、この地区、郡山市内でも、最難関高校の進学校、福島県立安積高校入学合格者である事は、この座談会場でも、来ている人のほとんどは知っているみたいであった。
しかし、それを見越して、私に、教学を下手に身につけさせて、「正教授」等でもなられたら自分らの首が困る、とでも言うのであろうか。一切、私への、それら、御書の教学試験への誘いの話など、通り一遍でも、聞いた試しなど全然なかった。
時折見せる頭の切れの良さを警戒されて、出世を妬まれ、わざと疎んぜられているようにしか思えなかった。
それに、私の屈辱とするべく画策があり、その当時、私の作業所には、精薄、知的障害の、高齢女性も働いていた。
どうやら、その女性も、創価学会から勧誘されていたらしい。年に似合わずに、自分の名前すら書けない、幼稚臭い女性なんだが、「その人に、ヨロシクね!」などと、私の帰り際に、私に面と向かって、その他の或る女信者が言った。
私は家に帰って来てから、この侮辱じみたそれら、創価の座談会での事を、一緒にその場に行っていた母とよーくと話し合い、実際に母には、これは、私を不当に面罵して、罵倒して、屈辱を与えて、侮辱するものだと訴えた。
母も、最初はそのヨロシクと言われた女性が判らなかったみたいだったが、私から真実を聞いて、本当に酷い話だ、と私に同調し一緒に激怒していた。
どうして、あんな、名前も書けない、知障の女を、私が面倒見て上げるかの如くの、そんな関係性もないのに、又、その情報、私が同じ職場で働いている、という、この恥とも言える話に、無性に自身を責めて、恥じ入り、創価学会という団体に対して、この時程、疑問と怒りの念を沸々と燃やし湧き上がらせた事等無かった。
今では終わった出来事であるが、私の心の中では、いまだに終わってはいない。
決着をつけるとすれば、日蓮正宗が、創価学会を解散破門勧告した、平成三年のその時に戻って、創価が実際上、それらを受け入れて、全て、自ら、宗教団体を解散する時が来るまで、私なりに、この悪徳団体とは、戦い続けなければならぬ、と強く思い念じつつ、感じて、考える次第です。
どっちが学力で秀でているか。創価の、ひなびた福島県立郡山北工業高校くんだりなど、今となれば、くそくらえだ!
以上。よしなに。wainai