私の日課は、一日の最後に、必ずや、自己反省を加える事。自身、自分を省みる。
これが、孔子の「論語」ともなると、日々の三度我が身を省みる、となるが、私も多い日では、二、三度は自身を省みることすらある。
これはこれで良いのだが、問題点は、自己反省、自己批判、悔い改めを行うと、必ず、その日の内で、自己矛盾、その日の朝やって来た事と、今日の晩方、夜寝る前から翌朝にかけての自身の所業の、自己の内面の変化が、必ず起こる。朝令暮改の。
だから、人によっては、「昨日と言っていた事と違うじゃないか?!」との責め苦、文句、自語相違の点を突かれる、等々を必ず言われる事が多い。そんなときは、「君子は豹変す」ということわざはしらないのか?とでも聞き返す他はない。
私だって、生きた人間であり、いつまでも過去にこだわる程、狭量な人間じゃない。実際、私が言った事共を言質にとって、記録にして残しているんですよ(怒り)と騒がれた事も有った(A相談室福祉相談員S氏)が、私自身は、どこ吹く風である。そんなのは、知らない。果たして、誰が言った事なの?勝手気まま、柳に風、馬耳東風、右の耳から入って、左の耳からそれら言葉は抜けてゆく、どうぞご勝手に、の心境だ。
これを、この年にして、齢五十の、「達観」と申す。「人生の達人」を、私は目指す。五十歳は孔子の言葉で、「知命」五十にして天命を知る、である、まさに。この「知命」からいうと、もっと私自身は、孔子様の仰る通り、天眼を見通す、「天命」というものを知らなければならずに、まだまだ学問、勉学、勉強が足りないと見る。もっと学問、More Study!である。
それにもまして、私には、日蓮正宗の信心の頑張りが期待される。これを貫徹しないで、どうすんだって話。自己自身の宗内外の敵共、何よりも「己心の魔」に侵され、負けていたんじゃ、男が、というよりも、人間としても廃る、オワコン、終わったコンテンツ、廃人以下の存在と化してしまうのだ。これは怖ろしい事だ。もっとお題目を!More Chanting ! である。
だから、自行化他に亘る、とにかく、自行だけでも、朝晩欠かさずに執り行う気概、気力、自信を見せて、第六天の魔王の支配するこの世界に於いて、それらの、「魔」と無事に、果敢に闘って見せる、気持ちのこちら側の一歩だけの余裕のよっちゃんが何より必要大事。
つべこべ言わずに、理屈をこねて、手をこまねいている間にも、即、行動行動。実行実行。実践実践。
我ら日蓮正宗は、行動派行動力が、自宗・御宗門の唯一の、売りものなんだから。良い事は学び、その上で即実行に移す、正に是なり。