池田大作は青年時代、日蓮正宗創価学会の座談会に来て、学会で伝わる所の、その場で自作の詩をそらんじた、等々は真っ赤な嘘であり、当の本人は折伏されて理論的に反論もできずにその場で入信が決まってしまったのが悔しかったと後年池田は語っている。
そして、頂いた御本尊もそのままほったらかしで、一週間ほどして、自分の家の頭上で雷が始終鳴っていて、恐ろしくなってつい、題目を唱えた、という感じの入信であり、創価学会内などで言われている程の美談は無いのである。
戸田城聖第二代会長には常に叱られっぱなしで、総本山富士大石寺で戸田会長を乗せようとした御輿が金をかけた割には使い物にならず、その時も戸田会長の叱責を受けた。
戸田会長亡き後は、権力闘争に打ち勝ち、三代会長に就く。戸田会長死去後三年も会長職が不在だったのは、池田が後継者と指名されてはいなかった事を物語る。
最初のうちは日蓮正宗宗門に従うよう見せかけていた池田だったが、徐々にその本性、新興宗教の新教祖となる野心、野望を現わす。
何といっても、自身が三代会長に就く前にも、「会長先生は仏様です」と言って、お膳立てを自分で行い、その仏様の会長に自分がなる。根回しは欠かさない。
昭和平成と、少しずつ創価という巨大な船の舵を正反対に持っていき、最終的には宗門に泥を塗り、裏切った。巨大な船には、何も知らずにそのまま乗っている哀れな学会員達が残った。
これを用意周到、と言わずして何と言う。
池田のような人間を生み出した創価学会の罪は万死に値する。