今から三十年位前の、作業所時代の歴代の同じ仲間・人脈に、これはすごい人、J保さんという、学歴は中学校卒だが、中学卒業後、就職列車で東京まで働きに行った程の働き者であり、人格的にも非常に尊敬出来得る人がいた。
彼の話は、数年前に当ブログ記事で、歌を一度聞いただけで誰よりも早くしかも正確に簡単に覚えてしまう特技を持っている。それを皆の前で暗唱して歌って見せる。ムードメーカー的な感じもあった、と書いた。
私は彼と一緒に同じ作業所で働ける喜びを感じていた。御兄さんと慕っていた。この時、私、二十代前半。J保さん、四十代頃か。
T橋とかいう、インテリぽくて、実際には真の両親じゃなくて、それら両親が遺した遺産で別の親代わりの人に育てられて、大学まで卒業してエンジニアになった男に、J保さんは中卒で就職列車に乗って東京へ行った、一体それはいつの時代の人なのかねえ、といってせせら笑われていたのが、私には非常に許せなかった。
そして、そのJ保さんは、私の家の宗教にも非常なる理解を示した。
私は、私の家の宗教が、当時は創価学会であったが、その時にはもう既に、学会は要らぬ騒動を惹き起こし御宗門からは破門となっていた。
私達学会員も、その当時数年間は、一応、創価学会にも属し、日蓮正宗にも属する、という、複雑なる機構の歯車の軋(きし)みの中で、私の希望志望は、その頃の願望では、「日蓮正宗」が一番の伝統宗教でもあり、法灯連綿、唯我与我、血脈相承、法水写瓶、それらの教えが、当時の学会では教われなかったが、母からは見事に御宗門の御事をそれとはなしに聞いていた。
母は常に、自分らは「日蓮正宗信徒」だと言った。御僧侶は大切にしなければならぬと。東京立川市にいたおばあちゃんも、母からもらっていたお小遣いで、定期的に総本山へ行っていた。おばあちゃんも人生後半は、大石寺御登山に打ち込む程の信仰厚き者の一人であり、それを後ろ楯で資金面で母が大事にサポート守護保護、親孝行を立派に努めたのだった。
そんな環境の我が家だったから、創価学会という新興宗教なんかよりも、日蓮正宗という伝統宗教が私はその頃から大好きだった。
大体、新興宗教の創価学会は「価値創造」の学ぶ会、なんて言って、当時から教えていた事は、打倒 ! 日顕(上人)宗、などと口汚く罵るチンピラ団体か、国家権力と結び付いて、横暴を振るう公明党を自分の手駒にしていた当時の池田名誉会長率いる悪党下等下衆集団の、極悪の邪教の創価と邪政治団体公明に日本の中枢部に段々と国民皆が静かに知らない内に忍び込ませて送り込み、最期最終段階は日本を乗っ取る。それを彼らは自身で「総体革命」と呼ぶ。実際事実、計画的にそうなってるのだから恐ろしい。
これらを聞いてるだけでも何か胡散臭い。不穏な匂いがする。
それに比べて、「日蓮正宗」という御名前の何と美しい事か。正に、日蓮の正しい宗なのである。
あと、正宗の「正」の字は、一を止どめん、とも読めて、これは初心に帰れと言うことなのだろうか。
しかし、私はその頃、今から三十年位前のころは、正宗式の祈りをまだ一度も祈ったことがなかったのだが。
それは創価式の祈りも全く知らない。その頃の私ほど宗教に無頓着な人物はいない。
ただ、福島県立安積高校でもらった、勝手に配られたギデオン協会の英語と日本語が両ページ載っている新約聖書は後生大事に抱え持っていて、時々読んでみては、重要な箇所に線を引きまるで本がボロボロ状態に。(のちに日蓮正宗無量山寿海寺に全ての邪教の本、勿論、旧・新人間革命他、聖書等何十冊、創価の書籍が一番多かった。それに神社等のお守り、あとはニセ本尊の類いは全て返納廃却した)。
私が本格的に祈り出すのは、1998年夏の八月の、栃木・福島で起こった大雨災害で、白河西郷にしごうで、福島県の障碍者施設・太陽の国が流されて幾人も亡くなられたのを契機に、忸怩たる思いと、これは何か天か仏様といったものが、自分に信仰を振るい起こせとばかりに、自ら思い至り自然と行い出した勤行唱題行であった。その時まで、時系列で、あと数年間は待たねばならぬ。
それら以前から、我が家は日蓮正宗だ!といつしか私からは皆にカミングアウト、発表を大々的にする事になる。これはその当時でもまだ、学会員の正宗信徒の資格停止にはまだかなりセーフだったので、日蓮正宗創価学会は磐石で不滅と思われたが実際違くて残念至極だが、やはり創価は失敗してしまったが、その頃の我々学会員は、日蓮正宗を名乗る事も出来たし、日蓮正宗に移籍する事も自由だったのである。(これは今でも日蓮正宗に帰伏する事は立派に全て可能です。私自身うちの母含めてその一人一人ですから)。
皆、驚く人もいれば、しかし、創価学会員の人なんかは多くて、ある人など、正宗の坊主は耳にヘッドフォンをして題目唱えて、その姿はまるでヘッドロックされたオウム真理教とやってる事はおんなじと、明らかにウソ・デマと判る事を大袈裟に語る学会員もいた。
結局、皆、その場一同の前では、当時の私は教学が一切なく、本当にwainaiさんは日蓮正宗の信徒なの?と聞かれる度に、この先程登場したJ保さんが、私を守ってくれて、wainai君は日蓮正宗だよ、と極めて断定的に私の応援に回ってくれた。
J保さんは、個人の宗教的遍歴が彼の人生上あったみたいで、立正佼成会にその頃最近は入っていたみたいで、その他、彼の車のバックミラーには神社の守りがいくつもある程、邪教にまみれてはいたが、創価の当時からの狂暴性には恐れを為していた模様だった。それに長年の勘で、彼は伝統宗教の日蓮正宗へは畏敬の念慮すらあったようだった。
私があの当時、今位の日蓮正宗教学があるならば、必ずや、彼を折伏している筈だ。そうしてそれが実れば、その育成にも華麗に取り組んでいた所だろう。
母が、ある精神科病院の老人病棟にいた頃、そこの売店は我々が元々いた作業所の系列の経営だ。
ある日、これはコロナまがいなどが流行る前の事だが、その売店の店長格に当たる、その作業所の所長に会い、しばらくお話をした。
すると意外な事が判った。
先ず、亡くなってしまった人、一家離散した人、入退院を繰り返す者、ずっとあれから入院中の者等…。その成り行きは決して楽観視出来ないショッキングなものであった。
しかし、なぜか、私は大方聞いて自分で何か胸にストンと落ちるものがあった。
結局、この時、勿論、大変親しかった、J保さんの事を聞くと、もう同じ作業所には年齢的に通えず、遠方から車で来ていたがそれも廃車にして、今では遠方まで送り迎えしてくれる車で移動する、別の作業所だか、デイサービスに通っているという。
私の日蓮正宗信徒狂言詐偽はその後、見事にバレたが、最もガッカリしたのが、そのJ保さんだったかもしれない。それ以前、日蓮正宗教学に疎い私に、特に学会員は罵詈雑言、悪口罵詈でいじめるような真似をした創価学会員達。(特に「日顕(上人)宗 !」などと言う)それに対して、wainai君は日蓮正宗の信者なんだかんない!と強い口調で私に応えていたJ保さん。
彼こそが法華経の諸天善神の一分ではなかったかと、今更ながらに思う今日この頃だ。
以上。よしなに。wainai 、長文失礼。