うつくしま未来博、福島が輝いた日
November 23, 2015, 7:12 am≫ Next: 傘を見ると…≪ Previous: 川崎へ
今から14年くらい前、2001年(平成13年)、夏。福島県須賀川市の郊外で、福島県の博覧会「うつくしま未来博」が開かれた。ふくしま国体に並び、何年も前から計画が練り上げられ、周到な準備の元、開かれた博覧会だった。
うつくしま未来博へは、母と一緒に行ったが、入場料が割と高かった気がしたのを覚えている。
中に入ると、とても広かった。とても暑くて母とわたしは、かき氷のストローで差した飲み物を早速買った。
母は、その時から何か木工だか植物だか陶芸だかに興味があり、そこの場所で何かのブースのコーナーで係りの人に聞くと、その日はたまたまその先生がいない日で、何も聞けずに残念そうだった。
わたしも、急いで中を早足で駆け巡り、焦っているようで、怒っているようでもあった。その日はわたしはなぜか不機嫌であり、母が勧めるパビリオンには進んでは行かず、わざと混んでいるからと辞退してしまった。
しかし、帰り際、地元の新聞社、福島民報のパビリオンに入り、少し興味深く見入った。そこでは、昔の新聞紙一面を、日付を言えば無料でもらえるサービスを行っていた。わたしは、母の誕生日の新聞を所望し、母もわたしの誕生日をリクエストした。
それをじっくり見ると、母の時代は、戦時中の、時代がかった日本の歴史が映し出されていた。しかし、わたしの誕生日といえば、ろくに事件も何もなく、平々凡々とした平和な昭和の、ニュースらしいニュースがない一日だった。ただ、暑い日だったらしい。
未来博会場で催された音楽・歌謡ショー、臨時ラジオ局などを見て、夏の日を一身に浴びながら、その場を後にした。
その後、バスで須賀川駅前まで帰り、夜の真っ暗な中、駅前のもう今はないが平凡だが、当日は未来博がえりの客で混んだ店で丼物(どんぶりもの)の夕食を食べて、帰路に着いた。
佐藤栄佐久県知事と県民が共に成し遂げた未来博。あの頃のふくしまは、間違いなく輝いていた。今は終わらない原発事故の後処理と、悪意の風評被害に悩み苦しむ福島県だが、この地が再び輝きを取り戻し、笑顔あふれるふくしまになって欲しいと念ずるのみ。また、いつでも復活する、復活できると信じている。
うつくしま未来博へは、母と一緒に行ったが、入場料が割と高かった気がしたのを覚えている。
中に入ると、とても広かった。とても暑くて母とわたしは、かき氷のストローで差した飲み物を早速買った。
母は、その時から何か木工だか植物だか陶芸だかに興味があり、そこの場所で何かのブースのコーナーで係りの人に聞くと、その日はたまたまその先生がいない日で、何も聞けずに残念そうだった。
わたしも、急いで中を早足で駆け巡り、焦っているようで、怒っているようでもあった。その日はわたしはなぜか不機嫌であり、母が勧めるパビリオンには進んでは行かず、わざと混んでいるからと辞退してしまった。
しかし、帰り際、地元の新聞社、福島民報のパビリオンに入り、少し興味深く見入った。そこでは、昔の新聞紙一面を、日付を言えば無料でもらえるサービスを行っていた。わたしは、母の誕生日の新聞を所望し、母もわたしの誕生日をリクエストした。
それをじっくり見ると、母の時代は、戦時中の、時代がかった日本の歴史が映し出されていた。しかし、わたしの誕生日といえば、ろくに事件も何もなく、平々凡々とした平和な昭和の、ニュースらしいニュースがない一日だった。ただ、暑い日だったらしい。
未来博会場で催された音楽・歌謡ショー、臨時ラジオ局などを見て、夏の日を一身に浴びながら、その場を後にした。
その後、バスで須賀川駅前まで帰り、夜の真っ暗な中、駅前のもう今はないが平凡だが、当日は未来博がえりの客で混んだ店で丼物(どんぶりもの)の夕食を食べて、帰路に着いた。
佐藤栄佐久県知事と県民が共に成し遂げた未来博。あの頃のふくしまは、間違いなく輝いていた。今は終わらない原発事故の後処理と、悪意の風評被害に悩み苦しむ福島県だが、この地が再び輝きを取り戻し、笑顔あふれるふくしまになって欲しいと念ずるのみ。また、いつでも復活する、復活できると信じている。