本日日曜日は、おおつきふれあいセンター、大槻公民館に於いて、短歌の会・歌会が開かれた。
最初は私と先生しかおらず、私は早めに行ったお陰で、先生を独り占め出来た。
一応、先々月十月号らしい、群山郡山歌会での、先生から頂いた、短歌結社「群山(むらやま)」の、私の一首が載ったコピーを有難くも頂戴した。
そこには、これは、以前、前回もこのブログ記事中にも乗っけたとは思うが、何度でも出す。
命皆仏の心有りといふ山川草木悉有仏性(さんせんそうもくしつうぶっしょう)
とあるが、私の「悉」(しつ)の字が、ミスプリントで、「恙」(ヨウ、つつが)であり、ツツガムシの文字の一部となってしまっていた。如何に、この、群山という短歌結社に、仏法を知り得る者が少ないかを物語っていた。
先生にも、こういう、仏教用語のそのまんまを、私の短歌に盛り込むのはどうか、と私からも疑問符を投げ掛けたが、その時、先生は、短歌は自由なんだと仰り、勿論、そうした、仏教から言葉を持ってきてもいい、とは言っていたが、おそらく、宮城県仙台市にある、東北大学文学部の故扇畑忠雄教授が居た、その、短歌結社の住所に構える校正者、評者、の誰かが間違えたとしか思えない。
とにかく、この今日本日は、大槻公民館に於いて、先生が、斎藤茂吉の歌集から、持ち出した歌がある。
最上川の上空にして残れるはいまだうつくしき虹の断片
という、素朴な歌であった。
先生は、事実=写実、と申し、斎藤茂吉は見たまんまを、歌にした、という。
私が、この一か月間は、まるっきり、スランプに苛(さいな)まれ、歌が一首も出来なかった、私の限界を感じた。
本当に、他事の、多事の、私の場合は、音楽というものに、この一カ月も何か月も半年以上、熱中し続けていて、それが、今の所、ハーモニカであったり、最近は、電子キーボードに夢中になっていて、特に、洋楽のザ・ビートルズやらレッドツェッペリンなどの英国ロック、それからアメリカのエルヴィスプレスリーやら、サイモン&ガーファンクル等々、カーペンターズも含めて、とにかく、音楽が大好きな私は、それが、日本では、最近の曲で、YOASOBIの「アイドル」だとかそれ以前の曲、Uruやら、古いけれど、オレンジレンジ他、日本にも沢山の私の好きなアーティストが居り、その全ては今日は先生には言えなかったが、とにかく、膨大な量の音楽漬けの毎日であり、とてもじゃないが、短歌になど、他にもお寺に行ったり、ネット通販に真剣になってポチる時間が大好きでもあり、それが中毒であるのは、自分でも大問題ではあると認識はかなりしている。
月額980円の、読書が自由に出来得る、Amazonの電子書籍の読み放題のkindleアンリミテッドは、最高ではあるが。読書家である私は、かなり、必ず、原価、元値以上のモノは有意義に自身、取っていると豪語したい。元が取れなければ、とっくにやめる覚悟である。
ここでは、一切、というか一部分しか言わなかったが…。音楽の事は大抵お話し申し上げた。
とにかく、大忙しで、短歌が一首も出来なかった事を、私なりに、音楽を理由にして、キーボードも最近凝り出した事等言っても、先生は決してお叱りにはならなかった。そういう個人的な裁量を認める、男性でもある優しい先生が私は好きだ。
それで、最初の斎藤茂吉先生の話に戻るが、斎藤茂吉は、好きなものを、歌を、見たまんま、写生、写実で表現する。
最初っから、完成品の一首を作ろうとはしない。何度も作り直しては、歌を作り変えてゆく。
そこで私が思い出したのが、その、東北大学の教授の扇畑忠雄先生の歌、今年の七月九日日曜日の歌会での先生の白板(ホワイトボード)へ書いた、一首。
高きより萌えてなびかむ槻(つき)の木の緑り淡(あわ)しき陰(かげ)を待つべし
この歌を私は先生に自身のノートのメモを頼りに、今日その時、申し上げた。
扇畑先生は、「槻の木」詰まりは、けやきの木が大好きだった。このとき先生49歳。昭和三十五年三月に詠まれた歌。
四月に葉が出て来る。槻の木は葉っぱと一緒に、花が出て来る。花は黄緑色。
私達の先生の想像。⇒ここで、私と共に、時間に遅れた、年上の女性の生徒さんが、私達の所へ入って来て、一緒に机を並べて、又生徒が増えて、授業に打ち込んでいる。
話の続き。四月は入学シーズン。新入生の学生をイメージしたのでは?(私達のK分先生の考察、想い)
扇畑先生の理論というか、作歌上の、理想というのか、歌の作り方。
最初から歌を作らずに、第一の現実⇒第二の現実へ。
第一の現実は歌には出ない。内包されている。第二の現実。これが目的。
そんなカンタンに単純に歌を詠んでいる筈がない。
斎藤茂吉はそのまま、何がいいか、わかりやすい中に、心に残るものがある。
悩んで当たり前。何度も推敲に推敲を重ねている。
人が使った言葉を使いたくない。うんと考える。
茂吉が大好きだった「最上川」で使った言葉。
「さかしらなみ」
「逆白」ここまでは良い。このあとの「なみ」で、
「浪」か「波」が良いかで、茂吉は深く思い悩む。
結局「波」で落ち着く。これを用いた。
言葉を大切にした茂吉。メモ魔=茂吉。
先生の指導。
「俳句」より、「短歌」の方が難しく、そして、深みがある。
「言葉をどうかえるのか」
「俳句」は季語をつけられればどうとでもそれなりに出来上がる。
簡単だから、俳句の方が人気がある。しかし、深みが無い。表現としても、わずかな違いだが、限界も俳句にはかなりある。
「短歌を俳句のように広めようとしたら、正岡子規やアララギ派の万葉調、万葉集に則って習った、古典派、古風な学派、派閥、学び方は流行らないだろう」と先生=『短歌は心・感動』それを、どう表現するか、だ。
短歌は「出だし」と「最後(決め)」が難しい。重要な点。
見たままで物事に勝負する。見たものの中に真実がある。真実に近づこうとする事が大事。
正岡子規から、伊藤左千夫へ、そこから、アララギ派の斎藤茂吉。しかし、この両者、歌境、歌の境涯を巡って、ケンカが絶えず、茂吉は左千夫と別れ、離れている。
この場合、先生は、短歌を、アララギ派で習うのに一番に勧めるのは、正岡子規か、斎藤茂吉だと。左千夫は勧めず、私が本日今日持って行った、同じアララギ派の「土屋文明」の岩波文庫の歌集の本だが、その文明の歌は、内包しているものが時に難しく、難解を極めるので、先生は、出来れば、正岡子規先生か、斎藤茂吉先生なんだと。判りやすさでは、何と言っても、その両者だと。
この時、先生は、扇畑先生の歌も、同じくアララギ派の一派を為したが、何せ、その本は、八巻だか、十何巻だかあるが、その内の三巻が、歌集であり、後半生の何年間が載っていないが、大体若い頃から八十位までの歌は載っている。その後、弟子たちが、扇畑教授の歌を編纂しなかったので、幾らかは散逸したとかしないとか、その後の数年間は、この今の短歌結社「群山」の雑誌にその名と歌とを残し、そこで、教授は雑誌を主宰した。
しかし、この、扇畑教授の歌も、素人、初心者には難解であり、先生はあんまりお勧めしないと。それに、今は絶版となり、売っていた当時、一冊八千円だったらしいが、今は値段がそれより安く古本で売っている筈だ。その点は、図書館等で調べて、あればそれを本当に勉強したいならば、借りればよい、と先生は仰った。
(以下、パート2へと、つづく)続く。乞うご期待!
以上。よしなに。wainai