NHKのETV特集で 日本と朝鮮半島2000年というのをやっていて、武烈王の墓が画面に映し出されて、あっと思った。
武烈王は、金春秋(キム・チュンチュ)が新羅王になったときの名前。
この番組では、大化の改新につながる乙巳の変の真相にせまっていた。
蘇我入鹿が殺された時、そこには韓半島の三国からの使者が来ていて、彼らの目の前で変は起こったという。
そして、この番組での蘇我氏の捉え方は百済派だった。
つまり、蘇我氏は百済からの渡来人で、当然百済との関係を重んじていたが、中大兄皇子は反百済で対立していたとのスタンス。
蘇我氏の邸宅とその裏にある丘に築かれた土塁の配置が、百済の王宮とそっくりだという。
この時代の歴史については、まだ研究途中で、蘇我氏=新羅という説を唱える人もいらっしゃるらしい。
ともかく、日本書紀にしても、三国史記にしても、編纂を命じた王朝を正当化するような部分があるので事実とは異なることが書かれていると一歩引いてよむ必要があるのだそうです。
確かなことはこの時代6世紀から7世紀頃に韓半島と日本列島の間で、人も物も盛んに交流していたということと、お互い勢力争いに利用していたということです。
その武烈王の墓は、円墳で堀も無く、一面に草が茂るツルリとしたもので、前方後円墳とは全く異質のものでした。
肖像の武烈王は、美しく描かれていますね。
武烈王は、金春秋(キム・チュンチュ)が新羅王になったときの名前。
この番組では、大化の改新につながる乙巳の変の真相にせまっていた。
蘇我入鹿が殺された時、そこには韓半島の三国からの使者が来ていて、彼らの目の前で変は起こったという。
そして、この番組での蘇我氏の捉え方は百済派だった。
つまり、蘇我氏は百済からの渡来人で、当然百済との関係を重んじていたが、中大兄皇子は反百済で対立していたとのスタンス。
蘇我氏の邸宅とその裏にある丘に築かれた土塁の配置が、百済の王宮とそっくりだという。
この時代の歴史については、まだ研究途中で、蘇我氏=新羅という説を唱える人もいらっしゃるらしい。
ともかく、日本書紀にしても、三国史記にしても、編纂を命じた王朝を正当化するような部分があるので事実とは異なることが書かれていると一歩引いてよむ必要があるのだそうです。
確かなことはこの時代6世紀から7世紀頃に韓半島と日本列島の間で、人も物も盛んに交流していたということと、お互い勢力争いに利用していたということです。
その武烈王の墓は、円墳で堀も無く、一面に草が茂るツルリとしたもので、前方後円墳とは全く異質のものでした。
肖像の武烈王は、美しく描かれていますね。
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