エンディングに対する監督の立場はいかがなのですか? ひょっとして結末を変えたいという考えはなかったんですか?
結末に対してはいろいろな手がありましたが、主人公が死ぬのはある程度妥当性があったけど、二人とも死ぬのは多分ほとんど考えなかったでしょう。金先生が結局二人一緒に死ぬことと決められた時、私は無条件金先生の意見に従いました。
オスとスンハが一つになった瞬間、このドラマが話そうと思ったことが出てきたし、すでにそこで結論が出たと思ったので死ぬか生きるかに大きい意味があると思わないので悲劇ということにしてみた。 死ぬことによって彼らが真の和解と容赦ができるならばそれも一つの救援でないですか? そして二人のうち一人だけ生き残るならばその生き残った者の苦痛を誰が耐えられるでしょう。 それは私も耐えることができなくて、スンハも、オスも耐えることができないことです。 それで二人の救援のために死を迎えるのも大丈夫と考えました。
エンディンシンでスンハがオスの肩に寄り添う時表情が非常に安らかに見えました。視聴者たちごとにその場面に対して各々他の解釈をしますが監督の考えはいかがなのですか?
二人の主人公の死がドラマではあまりないということと、それだけ視聴者たちの衝撃が大きいでしょうにそれを昇華させることができる方法がないだろうか考えました。初めには衝撃が大きくて胸が詰まった感じでよく思えないが、時間が過ぎるほど元に戻して考えることができる場面がなければならないということみたいでしだ。スンハがオスの肩に寄り添ったのは金先生が<魔王>で話そうと思った容赦と愛に対する最も感性的な表現だったと考えます。 二人があたかも兄弟のように並んで座っている姿をとりながら自らも少し安心をしました。 ‘君たちはとても良いのに行っただろう’したかったし視聴者たちも理解をしてくれそうな気がしましたよ。
ひょっとして二人の主人公中監督の感情がより移入されたキャラクターはどちら側でしたか?
感情移入というよりオスの人生がより理解できて同情しました。もちろんスンハもやはり一生をみるならばもちろんそんな生き方はあるが、ドラマに出てきた部分だけで見た時はオスがはるかに人間的でしょう。オスは罪を犯したにもかかわらず否認したし弁解もするなど卑屈な姿をたくさん見せます。これが普通の人々の姿でしょう。そのようなオスの姿を見て人々が‘自分自身はどうなのか’をたくさん考えるのを見ました。
セットを製作するところで最も気を遣った部分は何ですか?
セット中でも最も難しかったのがタロットカフェで、撮影一日前まで修正をしました。タロットカフェが持っている神秘的なところと、そしてその中に集まった人間の二重的な姿がうまく出るべきなのにそれが容易でなかったんですよ。それでセットを二回程度作りなおして最後まで修正したことを思い出します。
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