タカ長の山ときどきタカ見

「タカ長のタカの渡り観察」の別室です。八十路の坂を登りながら更新してゆくつもりです。

山屋のハイマート

2021-04-05 11:29:58 | 山歩きから
    

加藤武三作品集を読んでいます。

と言ってもこの本は画集みたいなものですから、加藤武三の絵を鑑賞していると言うほうが正確なのかも分かりません。

それらの絵を見ながら涙腺がゆるんでくるように感じるのは何故でしょうか?

加藤武三の絵が素晴らしいのはもちろんですが、そこに描かれた山々を歩いていた青春のころが思い返されて、涙腺が緩んでくるのかも分かりません。

    

巻末に掲載されている地図です。

少し読み難いでしょうが、画像の下に横川(よこごう)谷が描かれ、その左端が古屋敷です。

古屋敷から画像の左端を上に牛小屋高原、ナツヤケ峠と上り、右に曲がって中の甲へ、そして、、、

中の甲から樽床峠を越えて聖湖へ至る径は、恐羅漢山をめぐる山の、東側のメインルートとも言える径でした。

樽床峠から左に登ればススキの光る聖山。樽床峠からは往復30分の小さな山ですが、山頂からの展望が好きで、タカ長的には西中国山地の名山でした。

    

「国定公園 西中国山地」(加藤武三著)で紹介されている写真です。ご覧のように当時は笹山でした。今は木が茂り、展望が無くなり登る気がしない山になってしまいましたが、当時は時間が無い時でもこの山だけは外せず、走って往復したこともあります。

タカ長よりひと時代前の中の甲をめぐる山はブナの原生林に囲まれていたようです。今では語り草になってしまった原生林です。

中の甲は林業の基地となった集落で、最盛期には分校もありました。今になって言っても仕方ないことですが、もしあの頃の原生林がそのまま今に残っていたら、恐羅漢をめぐる山は世界自然遺産になっていたかも分からないと夢想しています。

   

恐羅漢山をめぐる山旅の表参道は間違いなく内黒峠を越えて行く道です。その峠道から見た恐羅漢山の写真(部分)で、上記の本に紹介されているものです。

    

加藤武三作品集にはこのような作品もあります。おそらく、上の写真と同じところで描いたものと思われます。

黄色に見えているのが牛小屋高原で、右の中山の向こう側に広がっています。右下に画像を外れたところが古屋敷。

このあたりの風景は広島の登山者なら誰もが分かる風景です。そうです。このあたりの山は広島の登山者の心のふるさと、ハイマートだったと言って間違いありません。

    

タカ長が知っているのは、古き良き時代の恐羅漢をめぐる山の、一番手前の部分だけです。その頃には原始林に斧がはいり、多くのものが失われ始めていました。

そのことを悲しんだ詩人山田廸孝(1920―1998)が民宿のノートに残した万年筆の太字は今でも目の底に残っています。しかし、肝心の詩は記憶にありません。

山田廸孝は職場の山岳部の先輩のご主人でした。登山者としても一流の先輩ですから、軟式山岳部のタカ長とは接点がありませんが、あのノートのことはよく覚えています。

この加藤武三作品集を見ていると、あの頃のことが次から次へと想いだされてくるので涙腺がゆるむのかも分かりません。
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