慶応元年の古文書 ヤフー知恵袋による回答です
この史料は、小尉村の村役人である庄屋・勘太夫、長百姓(おさびゃくしょう)・利平、惣代・甚右衛門らが市平へ宛てた証文で、差出人が押印していない点から、原本ではなく写と考えられます。
以下に判読したもの(釈文)と、その内容の概要を記します。
【釈文】
相渡シ申壱一(ママ)札事
右者、川中洲壱件ニ付、定広・小尉両村和談仕り、中洲之内論外
四ヶ壱分、市兵衛分配ニ付、永々請地ニ相成候ニ付、右雑用等も出来仕候、
依之、村方壱統談事之上、右雑用、市兵衛引受ニ致シ、中洲
論外請(傍記「受」)地之上、半分、市兵衛方へ相渡●(一字抹消)段相定可申候
処、右請地、御差留ニ相成丈故、市兵衛願ニ付、如何様之
支配地ニ相成候共、分り様者不及論ニ、右雑用之方へ
論外支配地半分相渡ス談事ニ相成、尤此以後、何事
ニよらす、入銀有之候得者、匁ニ割懸ケ可申候定、并右□米、又ハ年具(貢)
相定候時ハ右同様之事、然ル処、只今ニ而も相分り候義ハ論所
不申ニ付、村方へ当村利平殿を以御挨拶御願被成被下候様
候義ハ、論所地之内、年々百五拾匁、論外相分り候迄御渡シ
被下候様願ニ付、右願之通村方談事之上相定り、
猶論外双方和融支配ニ相成候得ハ、右論所之内
百五拾匁、村方へ其尽(侭ヵ)相返し可被成候定ニ御座候、
為後日、役印証文壱札相渡申処、仍而如件
右之内弐匁、勘大夫方へ相渡ス定ニ御座候
小尉村
惣代甚右衛門
長百役(姓ヵ) 利平
庄屋 勘大夫
慶応元年
丑十二月
市平殿
(端裏書き)
右念書之通、善(傍記「善右衛門」)・藤平
持分丈自分持之約速(束)ニ
御座候
一、利平分配之上、御村方事す(ママ)ニ相成候ニ付、市平支配地之内
之(ヵ)五拾匁、利平方へ相渡シ、丑年より十一年目、亥年
四月切ニ急度相渡シ、其為証文相渡候
【内容の概要】
関連史料が無いため史料の記載内容を正確に把握するのは難しいのですが、恐らく以下のようになるのではないかと思います。
①:九頭竜川の中洲の土地所有権について、川の両岸に位置する定広村と小尉村で争論となったが、和議によって、「論外」(争論が決着した部分の土地)の4分の1を市兵衛(=市平?)に渡すことになった。この争論で「雑用」(雑費)が生じている。
②:この雑費について村役人たちで協議し、これを市兵衛の負担とし、かわりに、「論外」を全て「請地」(検地帳に登録され年貢を負担する地)とした上で、その4分の1ではなく半分の所有を市兵衛のものとしようとした。
③:②の案では(①の協約と異なってしまうため?)「請地」とすることは認められなくなってしまう。よって、市兵衛が以下のことを村役人たちへ願うことにした。それは、「論外」の各所有者が誰になるかに拘らず、「論外」の半分の地にかかる年貢米銀に上乗せするかたちで雑費を捻出すべきというもの。
④:市兵衛は、村役人の一人でもある利兵衛に託し、村役人たちへ③の願を出し、また「論所」(係争中の土地)(の雑費?)は、毎年、銀150匁(を村役人の立て替え?)にしてほしいとした。村役人たちはこれを認めた。また、争論が完全に決着したらこの150匁は(「論所」の所有者となった者がその取得と引き換えに?)村役人たちへ返還するとした。なお、そのうち2匁は庄屋の勘太夫へ渡すことになっている。
⑤市平は丑年(1865〈慶応元〉年〉から亥年(1875〈明治8〉年)まで毎年50匁を、村役人である利兵衛へ渡すことになっている。
なお、『角川日本地名大辞典 18 福井県』(角川書店、1989年)の「小尉村」の項に、『浜四郷村誌』を出典として、「寛政二年には九頭竜川対岸の定広村の者が茅を刈り取ったため、傷害事件が起こっている」と記されています。九頭竜川をはさんだ小尉・定広両村間でいさかいが起こることがあったようですが、今回読んだ史料は、幕末の小尉村と定広村の争論の一端と、その処置に関して知ることが出来るものです。
この史料は、ご先祖様が現れるというだけではなく、当時の小尉をめぐる歴史を知りうるもので、質問者さん以外にとっても意味のある地方史料です。福井市立郷土歴史博物館あたりへ、史料をネット上にアップされていることをお知らせになられてはどうでしょうか。また、関連史料がないかお問い合わせになられてもよいかもしれません。
http://www.history.museum.city.fukui.fukui.jp/
ということです 感謝いたします
実際小尉の中洲は昭和のはじめころまで 定広と小尉の折半で定広の人は船で耕作に渡っていたらしいです。ここで九頭竜川が湾曲していて小尉側に砂州がつくわけです。昭和40年代にはこの中州をさらって砂利として販売していました、毎日でっかいダンプが川岸にやってきていたのを覚えています。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます