将棋のこと全くわかりません。でも、ふとしたきっかけで、将棋の雑誌を初めて手にとって、それから自分のなかで、勝手に久保利明という棋士を育てています。
その号は、藤井聡太の特集号でしたけれど、藤井の時代に居合わせる強豪たちの総集編でもありました。
天才で、勝負への執着の凄まじさで絶対王者だった羽生善治が、勝ち負けにこだわらないという新世代の藤井聡太に打ち負かされました。
久保利明は、最盛期の羽生に恐怖を覚えるまでに負かされています。久保は、羽生との勝負でズタズタになったメンタルを鍛えようと護摩行に及び、試行錯誤の果てに、あるとき肩の力が抜けて将棋と向き合えるようになったといいます。そして、新星として登場した藤井に勝ち、話題となりました。
ここまでが既読の記事の内容。ここからが私の思ったことです。
まず一つに、久保は紙。藤井は石。羽生は刃。紙は刃に刻まれましたが、石を包みこむことができました。紙は木、刃は金属でできています。石は、さしずめ大地でしょうか。木は土を抑え、金は土を抑え、土は金を産出します。ここに、陰陽五行のような自然物の循環があります。まるで天地自然の摂理であるかのごとく棋風が存在することに興味を覚え、このことは将棋の世界のみならず、人生の真実であるように思われました。
もう一つ。久保が、羽生に恐怖しても、打開の策として羽生に倣おうとはしなかったことにも興味を持ちました。
勝つために何をするか。そのとき選ぶ手段は、合理性をもって勝つことを追求するものでなければならないでしょう。しかし、久保の選んだ道はそうではなかった。反時代ともいえる精神修養でした。久保は、負かした相手を打ちのめすことではなく、地についた顔をあげるためにできる限りのことをしたのだと、私には思われました。
地についた顔をあげるためにできる限りのことをする。これはもともと、勝ち負けによって切り裂かれる性質のあり方ではなく、久保は、そうした自らの天分に気づいて「将棋をたのしめるようになった」のではないかなと、私は勝手に想像したのでした。
短歌もまた、コンピュータがそこそこの作品を合成する時代となりました。
私が現在、仕事にしている選歌は、AIに作らせた歌が投稿作品に混じっているかもしれない、その火事場なのです。
すなわち、将棋と短歌は、同じ課題に直面しています。
人の生き方には、その人なりのありようがあり、それが花であると思います。単に勝ち負けであれば、コンピュータに持っていかれる時代です。
コンピュータに、花はあるかということです。
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その号は、藤井聡太の特集号でしたけれど、藤井の時代に居合わせる強豪たちの総集編でもありました。
天才で、勝負への執着の凄まじさで絶対王者だった羽生善治が、勝ち負けにこだわらないという新世代の藤井聡太に打ち負かされました。
久保利明は、最盛期の羽生に恐怖を覚えるまでに負かされています。久保は、羽生との勝負でズタズタになったメンタルを鍛えようと護摩行に及び、試行錯誤の果てに、あるとき肩の力が抜けて将棋と向き合えるようになったといいます。そして、新星として登場した藤井に勝ち、話題となりました。
ここまでが既読の記事の内容。ここからが私の思ったことです。
まず一つに、久保は紙。藤井は石。羽生は刃。紙は刃に刻まれましたが、石を包みこむことができました。紙は木、刃は金属でできています。石は、さしずめ大地でしょうか。木は土を抑え、金は土を抑え、土は金を産出します。ここに、陰陽五行のような自然物の循環があります。まるで天地自然の摂理であるかのごとく棋風が存在することに興味を覚え、このことは将棋の世界のみならず、人生の真実であるように思われました。
もう一つ。久保が、羽生に恐怖しても、打開の策として羽生に倣おうとはしなかったことにも興味を持ちました。
勝つために何をするか。そのとき選ぶ手段は、合理性をもって勝つことを追求するものでなければならないでしょう。しかし、久保の選んだ道はそうではなかった。反時代ともいえる精神修養でした。久保は、負かした相手を打ちのめすことではなく、地についた顔をあげるためにできる限りのことをしたのだと、私には思われました。
地についた顔をあげるためにできる限りのことをする。これはもともと、勝ち負けによって切り裂かれる性質のあり方ではなく、久保は、そうした自らの天分に気づいて「将棋をたのしめるようになった」のではないかなと、私は勝手に想像したのでした。
短歌もまた、コンピュータがそこそこの作品を合成する時代となりました。
私が現在、仕事にしている選歌は、AIに作らせた歌が投稿作品に混じっているかもしれない、その火事場なのです。
すなわち、将棋と短歌は、同じ課題に直面しています。
人の生き方には、その人なりのありようがあり、それが花であると思います。単に勝ち負けであれば、コンピュータに持っていかれる時代です。
コンピュータに、花はあるかということです。
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