お盆のお花に、植木鉢の千日紅を少し、生けました。
このお盆のあいだ、ずっと考えていたのは、栄子姉ちゃんのことでした。
栄子姉ちゃんとは、祖父母がおなじ。
血縁上はわたしのいとこですが、辰巳の祖父母の養子に入り、わたしの母、千枝子が、嫁入りする前から、辰巳の家で、生まれたも同然に、育った人です。
栄子姉ちゃんのお母さんは、祖母のミちゑさんが、いちばん最初に産んだ子でした。
お母さんが、産褥熱で亡くなって、その娘の栄子姉ちゃんを、祖父母が引き取って、育てたのです。
祖母が、よく言いました。
わたしは、栄子さんのお母さん(つまり、わたしには叔母)に、顔がとても似ていると。
戦争できょうだいをほとんど亡くしたミちゑさん。
平和な時代になって、わが子にまで死なれるのは、どれほどの悲しみだったでしょうか。
母が嫁入りしたとき、栄子さんは、高校生。
わたしが生まれたとき、十代の終わり。
そして、わたしが小学三年生のとき、辰巳の家から、和歌山の、心優しい方のもとへ、お嫁にゆきました。
そのあいだ、母は、さまざまのストレスから、年頃の栄子さんにひどくつらくあたり、栄子さんは、幼いわたしに、ひどくつらくあたっていました。
栄子さんは、言いました。
やっちゃんにつらくあたってしまうのは、やっちゃんのお母さんのせいやよ、やっちゃんが、必ず、お母さんの味方をするからと。
そうでした……栄子さんには、お母さんが、いないのでした。
実際、母の、栄子さんを罵るのは、凄まじかったんです。
傷つきやすい年頃だのに、栄子さんは、人としての存在そのものを、根底から貶められていました。
あの子には裏切られた、物の支度などよくしてやったのにと、母は、よく言いました。
それはきっと、そうでしょう。
でも、魂を傷つけて、物質面でよくしてやったのに……は、ないものです。
母は、わたしの成績が伸びなかったことなど、本当に、さまざまのことを栄子さんのせいにし、栄子さんがお嫁にいってからは、ほとんど出禁にしてしまいました。
わたしは、母に、栄子さんのせいにするのを、やめてほしいと思っているんです。
当時、弟が栄子さんに、「どうして泰子姉ちゃんにだけ、つらくあたるの?」と、訊いたそうです。
答えなかったそうですが、重大なウソや隠し事のある人では、なかったように思います。
それに、栄子さんは、小学校で、わたしが豚と呼ばれて苛められているのを、傍らで、慰めてくれたことがありました。
わたしは、体格がよく、小学校1年生で、6年生に見えるぐらい、身長も体重もありました。
(6年生になったときには、ほとんど、おとなの体型になっていました)
「やっちゃん、豚って、きれい好きやねんよ。せやから、豚って呼ばれても、気にすることない、喜びな!」
ただわたしは、子供の立場で、あの頃、母に味方をしなければ、母が、孤立しそうでした。
皆、それぞれの立場があり、その立場を、守ろうとしている。
そのなかで、根底から否定しきっていい人など、いないと思うのです。
自分にも、そういうことが、だんだんわかってき、いい中年になって、親離れというか。
なんでもかんでも母に味方をするのでなく、公平に見ようとするようになり、以来、母と自分との関係が、芳しくなくなりました。
こういうことを書くと、また妹が、鬼のように言うかもしれません。
「姉ちゃんは、お母さんを、恨んでる! お母さんが倒れたのは、姉ちゃんが呪ったせいや!」……と。
父も、言うでしょう。
「えーい! 黙っとれい!」
公平な目で、見ようとするわたしは、いま、母の味方である妹から、攻撃対象にされてしまっているし、砂袋として、ほかのきょうだいの知らないことを聞かされてきたぶん、その砂袋がしゃべるのを好む親族は、ないでしょう……。
この正月、父と母には、葉書で、伝えました。
まず、わたしからは、帰りませんと。
砂袋なりに、母、千枝子が、つらい目に遭わせた人とおなじ目に、娘のわたしが、遭いましょう。
そのうえで、砂袋の役を、降りましょう。
産褥熱で、実の母に死なれた栄子さんに、初めから、なんの罪もない。
何より、栄子さんは、辰巳の……ミちゑさんにとってみれば、亡くした娘の、忘れ形見だったんだよ。
父は、末期がん。
母は、人工呼吸器を外せず、余命を刻む身となりました。
ご縁がなくなり、ここで書くしかありません。
栄子さん、母を、許してやってください。
先祖の守りに、感謝しています。