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(未定稿)鬼さん考 2

2024-03-31 17:40:24 | 月鞠の会
一 日本にもとからいた「おに」を探る

⑵ 周辺事物との関係性を考察する

折口信夫博士は言います。

  〈おには「鬼」といふ漢字に飜された為に、意味も固定して、人の死んだものが鬼である、と考へられる様になつて了うたのであるが、もとは、どんなものをさしておにと称したのであらうか。」〉

馬場あき子氏は言います。

  〈いずれにしても「おに」という語が、中国産の「鬼」とはまったく別個に、独自の土俗的信仰や、生活実感として存在していたわけである。〉

お二人とも、漢字をこの国に迎える以前から、この国には、「おに」の概念が存在していたと述べているのです。

漢字の伝来には諸説がありますが、『新字源』(角川書店)では、「鬼」のなりたちを「象形。顔に大きな面を着けた人の形にかたどる。死者の霊魂に扮するさまにより、神霊の意を表す。」としています。さらに、儒教の教典「礼記」から挙げた用例の意味を、「神として祭られる霊魂。死人のたましい。祖先の霊」としています。中国への仏教伝来は1世紀半ば、『礼記』は、整理されたものの成立年代が紀元前1世紀。「鬼」の字義にみえる「死者の霊。祖先の霊」のイメージは、中国に仏教思想の浸透するよりも古いことがわかります。
そして、漢字が日本で文字として普及したのは、6、7世紀頃といわれています。この国にはその以前の文字による記録が無いため、中国の文化の影響を受けない言葉の例を探すのは難しそうです。いかなる方法を用れば、「おに」の概念が日本にもとからあったと、言ってもよくなるのでしょうか。

折口氏のほうは、『信太妻の話』のなかで、「かみ」と「おに」の「二つの語の境界の、はつきりしなかつた時代もあつた事」を示しつつも、「強ひてくぎりをつければ、おにの方は、祀られて居ない精霊らしく思はれる点が多い。」とも述べています。この伝え方が示唆するのは、「かみは祀られて、おには祀られない」といったことでしょうか。

『新字源』で「神」のなりたちを見ていくと、「会意形声。示と、申シン(いなびかり)とから成り、空中をただよう「かみ」、ひいて、人間わざを超えたはたらきの意をあらわす。」としており、「あまつかみ。天の神」の意味では「鬼」を対義語に当てています。「楚辞」からの用例が「死者の霊魂」の意味で挙げられていますから、古代の中国では、「神」も「死者の霊魂」の意味で使う場合があったようです。

また、折口氏の言葉で気になるのは、「漢字としての意義は近くとも、国訓の上には、鬼をかみとした例はない。」というところです。

日本にもとからいた「おに」とは、どのようなものだったのでしょう。
果たして、精霊のたぐいだったのでしょうか。
この章では、ともに超自然的な意味合いをもつという点で似通った、「かみ」と「おに」とを比較することで、日本にもとからいた「おに」がどのようなものであったか、探っていこうとしています。
また、「おに」と呼ばれているそのものの、周辺事物との関係性にも着目します。
まず、「かみ」との類似点から見ていきましょう。

〇「かみ」と「おに」の類似点

「神」の語源について、阪倉篤義氏の『語源――「神」の語源を中心に』(『講座日本語の語彙〈第1巻〉語彙原論』〈明治書院〉)を見ていきますと、次のようなことが述べられています。

 ・〈カムシロ・クマシロは、「神の御料(シロ)を意味して〉いること。
 ・〈カムに並んでクマという語が、神を意味するものとして存在したことが推定される〉こと。
 ・〈クマという地名を持つ土地は、山嶽重畳して、奥深く隠れた場所であることが多い〉こと。
 ・〈複合語に用いられて、道や川や垣根などの「入りくんで見えにくい場所」を意味するクマと同一の語である〉こと。
 ・「クマ」という名詞は、夫婦のことをおこなう「久美度」(『古事記』神代)「竒御戸」(『日本書紀「神代紀」)という用例から存在が推定される、クムという動詞から派生した情態性の体言で、「隠れたる情態」を意味したこと。
 ・〈「神」の意を有したと考えられるクマは、こうして成立した、同じ情態言であって、「隠れたるもの」というのが神(クマ)の本来の意味であったと考えられる〉こと。
 ・カムという形は、動詞の終止形でもあり、「入りくむ」「つつみこむ・深くしまう」のような、クムと同趣の意味であること。
 ・〈クムと、kumu-kamu という母音交替の関係にあると見なし得るのが、神を意味するカムである。すなわち、カムという語もまた本来、「奥まった所に身を隠しているもの」を意味した〉こと。

そして、阪倉氏は、カムは、i母音接合による名詞構成の方式にならって、「カミ」という語(名詞)となり、同様に、「入りくんでいる」「「奥深く隠れた存在」あるいは「奥深く身を隠している存在」を意味するものであったと結論づけています。

「鬼」のほうは、三省堂『例解古語辞典』によると、〈『日本書紀』や『風土記』の類に「鬼」という字はあるが、訓で読む場合、「もの」をあてたらしく、「おに」と読まれた確かな例はない。「おに」の確例は、文献上は、『竹取物語』『伊勢物語』が古いところ。〉〈平安時代の「おに」のとらえ方には、その本体を人の目にさらすのをきらって姿を隠しており、人の前に現れるときにはいろいろな姿を借りて現れるもの、といったとらえ方が強かったらしい。〉とあります。また、10世紀前半の辞書『和名類聚抄』には、「おに」の語源を「隠(おん)」にあるとしています。

「常陸国風土記」(717~724)に、次のようなおにの話があります。

A 〈郡より西北のかた六里に、河内の里あり。本、古々の邑と名づく。俗の説に、猿の声を謂ひて古々と為す。東の山に石の鏡あり。昔、魑魅(おに)在り。萃集りて鏡を翫び見て、すなはち自づから去る。俗、疾き鬼は鏡に面へば自づから滅ぶと云ふ。〉(「常陸国風土記」)

大意 この里には昔、おにがいて、集まって鏡をもてあそんでいると、自分からいなくなりました。里の人によると、悟ったおには鏡に向かうと、自分から消えていなくなると伝えられていました。

これらのことから、「かみ」と「おに」が似た意味の言葉であるのは、確かに、どちらも「身を隠す」という意味においてであるといえそうです。聖徳太子のお母さん、穴穂部間人皇女の名が「神隈」とも「鬼隈」とも呼ばれていたのも、この意味においてでしょうし、その地名が、身を隠す適地ともいえる洞穴に由来するとの馬場氏(あるいは折口氏)の明察をも、この語源説が裏付けていることになります。

そして、このように明確に語源について説明できることにおいて、少なくとも、「神(かみ)」は、もとから日本にあった言葉で、日本で生まれた言葉(この国に語源がある)だと、はっきりしています。


〇「かみ」と「おに」の相違点

古代社会で、日本古来の「神」と同義の役割を果たした「おに」のあったことをもとに、「おに」の概念が、〈独自の土俗的信仰や、生活実感として〉、もとからこの国に存在していたと言い切ってしまうのは、果たして、正しいのでしょうか。

その説明の方法は、「おに」と「かみ」が完全に一致して同じものしか示さないか、「おに」の持つ意味のすべてが「かみ」に含まれる場合においてのみ、有効である気がします。少なくとも「かみ」については、語源における意味が日本に固有のものであるとき、確かに「かみ」は、日本にもとからある概念であると説明がつきます。そして、「おに」が、「かみ」と同一の意味以外の意味を持たないとき、「おに」もまた、日本にもとからある概念であると説明できます。しかし、「おに」のほうに、「かみ」と明らかに区別される要件のあった場合、やはり、別の言葉なのですから、「かみ」と区別される「おに」において、日本にもとからあった使い方を探してみなければ、どの意味において日本に固有といえるのかが、はっきりしないのではないでしょうか。

つまり、むしろ、日本にもとから「おに」の概念の存在したことは、折口博士のいう「国訓の上には、鬼をかみとした例はない」ことや、かみは祀られてもおには祀られないという背景らしいところから、断定され得ると私は思うのです。すなわち、決して「かみ」と交換しえない「おに」の概念が、古代社会に存在したことにおいて、紛れなく、日本にもとから「おに」の概念はあったと、言い切れると思うのです。

さらに、同じものをさして、「神」とも「鬼」とも呼んだ例を挙げておきます。それは「雷」です。

  
B 〈已にして伊奘諾尊に謂りて曰はく、「吾が夫君尊、請はくは吾をな視たまひそ」とのたまふ。時に闇し。伊奘諾尊、乃ち一片之火を挙して視す。時に伊奘冉尊脹満れ太高へり。上に八色の雷公有り。伊奘諾尊、驚きて走げ還りたまふ。是の時に、雷等皆起ちて追ひ来る。時に、道の辺に大きなる桃の樹有り。故、伊奘諾尊、其の樹の下に隠れて、因りて其の実を採りて雷に擲げしかば、雷等、皆退走きぬ。此桃を用て鬼を避く縁なり。〉(『日本書紀』「神代上」〈岩波文庫〉)


ここでは、イザナキを追いかけてくる雷たちを「鬼」としています。この雷たちは、その前の一文で「八色の雷公」とされており、黄泉の国で、イザナミの膨れ上がった腹の上にいた雷たちです。イザナミから、私の姿を見ないでと懇願されているのに、イザナキは、火をかざしてイザナミの姿を見ました。そして、逃げ出しました。そのイザナキを追いかけてきた雷たちを、「鬼」と表現し、桃の実を投げることで退散させたとしています。


C 〈天皇、少子部連繋贏に詔して曰はく、「朕、 三諸岳の神の形を見むと欲ふ。或いは云はく、此の山の神をば大物主神と為ふといふ。或いは云はく、菟田の墨坂神なりといふ。汝、膂力人に過ぎたり。自ら行きて捉て来」とのたまふ。 蜾蠃、答へて曰さく、「試に往りて捉へむ」とまうす。乃ち三諸岳に登り、大蛇を捉取へて、天皇に示せ奉る。天皇、斎戒したまはず。其の雷虺虺きて、目精赫赫く。天皇 畏みたまひて、目を蔽ひて見たまはずして、殿中に却入れたまひぬ。岳に放たしめたまふ。仍りて改めて名を賜ひて雷とす。〉(『日本書紀』「雄略天皇」〈岩波文庫〉)


ここでは、雄略天皇が「三諸岳の神の形」を見たいといって、少子部連繋贏に捉えるよう命じ、繋贏は確かに三諸岳に登って、大蛇をとらえてきました。蛇は水神で、雷となって降雨をもたらします。

このようにして、雷という自然現象は、古代社会のとらえ方において、主体性のある霊的存在であり、生命体になぞらえられての格を持ちました。簡単にいえば、古代社会において、「おに」の概念は、中国由来かどうかはひとまずおいて、自然の物象に存する霊魂、自然霊として「かみ」と同一の性格を有し、まったく同じものを指すことがありました。

しかし、同じものなのに、それが、前者のエピソード(B)では「鬼」と呼ばれ、後者のエピソード(C)では、「神」とされています。さて、それが「神」であるか「鬼」となるかは、何による違いであったか。

前者のエピソード(B)では、イザナキとイザナミに対立が発生し、イザナミの立場にいた雷たちがイザナキの追手となりましたから、イザナキと雷たちは、敵どうしとなってしまった関係性です。いわば、敵となったものをイザナキの立場から「鬼」と呼んだとして差し支えないでしょう。
しかし、後者のエピソード(C)では、「三諸岳の神」とは「蛇」の姿をして降雨をもたらす水神であり、雄略天皇は畏まり、少子部連繋贏に捉えさせたものの放させてもいます。その後、繋贏に「雷」を称号として与えていますから、ここで「雷」は、善神の意味合いで一貫しています。
つまり、雄略天皇の立場から畏まる態度を表明し、利害において対立しない(対立が発生するのを避けた)関係性です。

このことから、そのものが「かみ」だったか「おに」だったかは、利害対立の有無や、畏敬の表明の有無に拠ったのではないかと思わされます。このようにとらえて、折口氏のいう「強ひてくぎりをつければ、おにの方は、祀られて居ない精霊らしく思はれる点が多い」こと、ひるがえして「おに」は祀られていないらしく「かみ」は祀られていることに、矛盾しません。

さらに、同一語彙、「雷」に関連して、「神」や「鬼」の出てきた例を、『日本書紀』から挙げていきます。
『日本書紀』は、天武年間に編纂が始まった、わが国で初めての正史といわれています。「正史」とは、すなわち当時の朝廷が公式に認めたということですから、朝廷の立場を正として編纂されています。内容は、天皇紀として区切られていますが、まだ文字による記録のない神代の昔から始まっています。
岩波文庫『日本書紀』の解説によると、もとになった史料は、帝紀と旧辞であり、「帝紀と旧辞とは、もとは口々に伝えられていたものであるが、天武天皇のときには諸家が所有して異本が多く生ずるほど、文献として定着していたのである。その筆録は六世紀欽明朝の前後から始まったのであろう。」としています。そのほか、個人の記録など多様な記録がもとにされ、潤色のために中国の史書が用いられるなどしているようです。これらのことから、『日本書紀』は、六世紀以降の記録をもとに、『日本書紀』編纂の始まった天武年間の価値観でもって、まとめられているといってよいでしょう。

「雷」は、「神」ともされ「鬼」ともされる典型的な例として、『日本書紀』に多く出現します。同一語彙の例に当たるのは、用いられ方に違いがあったときに、比較しやすいからです。次に挙げるのは、推古天皇紀から。「雷」が「神」とされて順当にストーリーが展開される例です。加えて、推古天皇は、聖徳太子が摂政を務めた折の女帝ですから、聖徳太子のお母さんが「神隈」「鬼隈」とも呼ばれたのと同時代の記録です。


D 〈是年、河辺臣――名を闕せり。――を安芸国に遣して、舶を造らしむ。山に至りて舶の材を覓ぐ。便に好き材を得て、伐らむとす。時に人有りて曰はく、「霹靂(かむとき)の木なり。伐るべからず」といふ。河辺臣曰はく、「其れ雷の神なりと雖も、豈皇の命に逆はむや」といひて、多く幣帛祭りて、人夫を遣りて伐らしむ。則ち大雨ふりて、雷電す。爰に河辺臣、剣を案して曰はく、「雷の神、人夫を犯すこと無。当に我が身を傷らむ」といひて、仰ぎて待つ。十余霹靂すと雖も、河辺臣を犯すこと得ず。即ち少き魚に化りて、樹の枝に挟れり。即ち魚を取りて焚く。遂に其の舶を脩理りつ。(『日本書紀』「推古天皇」二十六年〈岩波文庫〉)


同書校注に、「霹靂の木」の木とは、「雷神による木の意か。」、「落雷は稲と雷との交接であり、それによって稲が稔るのだと、当時の人々は信じていたので、雷電をイナツルビと訓む。」とあります。「伐るべからず」と言われているのに、その雷の木を切ったから祟られるのかといえば、そうではなく、ここで河辺臣は「神」に呼びかけ申し入れをしており、雷神は、誰を傷つけることもなく、船舶も完成しています。つまり、「神」に呼びかけることで対立を避け、それによって「雷」は稲を稔らせる善神として温存され、勅命もまた成りました。

時代がくだって、同書「斉明天皇」の七年には、「雷」をめぐって「神」と「鬼火」がでてきます。


E 〈五月の乙未の癸卯に、天皇、朝倉橘広庭宮に遷りて居ます。是の時に、朝倉社の木を斮り除ひて、此の宮を作る故に、神忿りて殿を壊つ。亦、宮の中に鬼火見れぬ。是に由りて、大舎人及び諸の近侍、病みて死れる者衆し。(『日本書紀』「斉明天皇」七年〈岩波文庫〉)

この「神」は、同書校注によると「雷神」であり、この災厄は落雷に依るものとわかります。五月は梅雨明けであり、落雷の多い季節ですから、落雷のあること自体は順接に発生する自然現象で、落雷があっただけでは、祟りや怪異に結びつきません。「雷の木を伐った」だけで祟られるわけではないのも、「推古天皇」二十六年のエピソードから明らかです。ここでは、「鬼火」が現れ病死者の出たことで、それが雷の木の祟りによるものと示唆されますが、順接の自然現象でありながら、そののちに発生した、無関係かもしれない凶事とひもづけて、それを祟りによるものと受け止めるには、そう受け止めるだけの背景が、別途、あったはずです。

じつは、この文脈には、直後に、この頃、百済救援の拠点であった済州島からの朝貢が始まったこと、百済が滅亡してからも、百済救援の拠点であった済州島を助け、大和朝廷と半島との関係性に大きな変化は見られなかったことを印象づける挿話がつづきます。さらに、韓智興という人物の付き人からの讒言を受け、遣唐使人らは、唐の朝廷からの「寵命(みめぐみ)」が無かったことが記されています。
「斉明天皇」の五年にも、智興の別な付き人から遣唐使人らが讒言を受け、流罪を被るということがありました。同種のことがうちつづくと信憑性を増し、国と国の問題となることは必定です。このままでは遣唐使どころか、大和が、大国である唐と戦争になってしまうかもしれない。このような文脈をととのえる挿話が、「鬼火」の出る背景を語っているのでしょう。この挿話は、次の二文をもって、締め括られます。


F 〈使人等の怨、上天の神に徹りて、足嶋を震して(雷を落として)死しつ時の人称ひて曰へらく、『大倭の天の報近きかな』といへりといふ。〉(『日本書紀』「斉明天皇」七年〈岩波文庫〉)

「死しつ」は「ころしつ」と読みます。遣唐使人らの怒りが天の神に通じて落雷が讒言者を殺しました。この挿話によってととのえられてから、つづく本文の文脈に注目です。「鬼」は、百済救援を推し進めた斉明天皇(皇極天皇)の、喪の儀を、山から見下ろすという姿で、登場したのでした。


G 〈秋文月の甲午の朔丁巳に、天皇、朝倉宮に崩りましぬ。八月の甲子の朔に、皇太子、天皇の喪を奉徙りて、還りて磐瀬宮に至る。是の夕に、朝倉山の上に、鬼有りて、大笠を着て、喪の儀を臨み視る。衆皆怪ぶ。〉(『日本書紀』「斉明天皇」七年〈岩波文庫〉)


大意 斉明天皇が崩御されました。その喪の日、朝倉山の上に大笠に身を隠した「鬼」が現れ、喪の儀を見下ろしていました。人々は皆、怪しんだということです。

書紀の文章として、E→F、F→Gは、そのままつづきます。この文脈は、どういうことでしょうか。「鬼」出現の直前には、落雷によって讒言者が天誅を受けています。そして、当時の人々が、天の怒りを称えていうには、〈『大倭の天の報近きかな』といへりといふ。〉です。
この部分では、「大倭」にも天の報いやいかにと、「時の人」の秘められた逆心が表明されているのではないでしょうか。戦乱に兵士としてかりだされる以上の負担はありません。すでに民心の離れてしまっていることを、すぐあとに登場する大笠を着た鬼が、暗示しているのではないでしょうか。
あの鬼火は、「雷の木」を伐ったことによるものと読者に思わせながら、決して、そのアクションだけでそうはならないこと、「雷の木」の伐採をきっかけに、政治への批判が、こうした「鬼」の姿をとって山上にまで現れたとみるのが、もっともではないでしょうか。
つまり、ここでとどろき閃く雷は、国難を暗示させて、焉りゆく斉明天皇の時代を劇化する、盛大な演出としてはたらいているのです。

E→F→Gの「鬼」出現までは、「斉明天皇」七年です。さかのぼって、「斉明天皇」六年にも、百済救援の失敗を予感させる次のような「わざ歌」が、取り上げられています。


H 〈是歳、百済の為に、まさに新羅を伐たむと欲して、乃ち駿河国に勅して船を造らしむ。已に訖りて、続麻郊に挽き至る時に、其の船、夜中に故も無くして、艫舳相反れり。衆終に敗れむことを知りぬ。(中略)或いは救軍の敗續れむ怪といふことを知る。童謡有りて曰はく、
  まひらくつのくれつれをのへたをらふくのりかりがみわたとのりかみをのへたをらふくのりかりが甲子とわよとみをのへたをらふくのりがりが〉
(『日本書紀』「斉明天皇」六年〈岩波文庫〉)


同書校注によると、この童謡(わざ歌)の意味は解明されていませんが、「要するに征西軍の成功し得ないことを諷する歌に相違ない。」とあります。つまり、このわざ歌は、船の前と後ろが夜のあいだに理由もなく反対になっていたという怪異を、戦に敗れる予兆として位置づけるとともに、斉明天皇崩御に至る流れの伏線としても、機能していたということです。そして、喪の儀を見下ろす「鬼」出現の怪が、大和と百済が小国どうし同盟の絆で結ばれていた政治の季節の終わりを象徴していたことをうかがわせます。『日本書紀』編纂者の工夫としていえば、一つの政治的局面の終焉であることを強く印象づけるために、わざ歌の伏線を張り、喪の儀を見下ろす「鬼」出現に至るまで、文脈を仕込んであるということです。
つまり、大和朝廷という絶対者を浮き彫りにするために、「鬼」を出現させているのです。大和朝廷が絶対者である。この浸透こそが、天武朝の、『日本書紀』編纂の意図であったからでしょう。

『日本書紀』の「鬼」の用例を、もっと見ていきましょう。


I 〈二の神、諸の順はぬ鬼神(かみ)等を誅ひて、一に云はく、二の神遂に邪神及び草木石の類を誅ひて、皆已に平けぬ。〉
(『日本書紀』「神代下」〈岩波文庫〉)


「二(ふたはしら)の神」とは、地上の世界である「葦原中国」を平定するために派遣された武甕槌神(たけみかづちのかみ)、経津主神(ふつぬしのかみ)であり、「鬼神」の記述で「かみ」の訓になるのは、「鬼」の字が修飾語であることを意味しているでしょう。そしてここでは、直後に出てくる「邪神」とイコールであることから、「鬼」の意味は、ここでは「身を隠す」という古来の意味よりは、「邪」のほうが近いでしょう。
『日本書紀』では、朝廷の日本統一を阻害する存在を、おしなべて敵とみなす態度が明白であり、朝廷の敵を「鬼」と呼んでいるようです。次に挙げる、孝徳天皇紀も同様です。


J 〈乙卯に、天皇・皇祖母尊・皇太子、大槻の樹の下に、群臣を召し集めて、〈今より以後、 君は二つの政無く、臣は朝に弐あること無し。若し此の盟に弐かば、天災し、地妖し、 鬼誅し人伐む。皓きこと日月の如し」 とまうす。〉(『日本書紀』「孝徳天皇」〈岩波文庫〉)


年号を日本独自の年号として大化にあらためるに際し、孝徳天皇は家臣らを集めて、従わぬ者を滅ぼすことを宣言しました。校注によると、この改元には、従わない者へのとりこぼしのない制裁が強調されています。この強調は、強権を誇示するばかりでなく、大和朝廷こそが正統・正義であることを前提とするでしょう。

さらに、『日本書紀』では、「鬼」のどのような様子を邪悪としたのかを、具体的に見ていきます。


K 〈亦山に邪しき神有り。郊に姦しき鬼有り。衢に遮り徑を塞ぐ。多に人を苦しびむ。(中略)或いは党類を聚めて、辺堺を犯す。或いは農桑を伺ひて人民を略む。撃てば草に隠る。追へば山に入る。故、往古より以来、未だ王化に染はず。〉(『日本書紀』「景行天皇」)〈岩波文庫〉)


ここでは、「邪しき神」「姦しき鬼」と呼ばれる人々が、山や辺境など、村里の外れに潜んで、グループを形成し、村里の生活を脅かす姿が描かれています。そして、天皇は、日本武尊に武器を授け、このような「邪しき神」「姦しき鬼」を討てと、熊襲征伐を命じます。この対句は、あとで「即ち言を巧みて暴ぶる神を調へ、武を振ひて姦しき鬼を攘へ」とつづきます。つまり、「神」は言葉で調伏し、「鬼」は力づくで追い払えということです。ここに、「神」と「鬼」の違いが示されているように思われます。

つまり、それが「神」であるか、「鬼」となるかの違いであったのです。関係性が対立へと向かえば、「鬼」となり、利害対立する「神」には対話、しかし「鬼」には、武力行使だったのです。実際、雄略天皇紀では少子部連繋贏が、推古天皇紀では河辺臣が雷神に言葉で申し入れをして、対象は、「神」であることを温存しています。そのことを、これらの記述が裏付けてくれます。
つまり、「かみ」か「おに」かは、絶対的な意味合いではなく、環境(周辺事物)との関係性の持ち方で、決まっていたのです。


⑶ 様相の具体的な記述から考察する

この章では、古代の文献において、「おに」と呼ばれているものが、直接に描かれるとき、どのような具体性をもっているかに着目します。
『日本書紀』と同時代の国書に『風土記』があります。
『風土記』とは、「国史が大和朝廷に対してお答え申し上げる性格の公文書であり、国の過去と現在の忠実な報告記事に終始するもの」であり、「内容は史籍地理志を意識して書けということ」であると、『風土記』(新編日本文学全集〈小学館〉)の校注・訳者の植垣節也氏は、同書の冒頭において紹介します。つまり、『風土記』は、公式の歴史書である『日本書紀』を正もしくは主としつつ、各国情を報告差し上げる『風土記』は、事実に忠実でなければならないということです。

各国の『風土記』のなかで、完本で遺され、「鬼」の古例が見られるのは「出雲風土記」(733年)でした。


L 〈阿用の郷。郡家の東南一十三里八十歩なり。古老伝へて云ひしく、昔、或る人、此処に山田を佃りて守りき。その時、目一つの鬼来て、佃る人の男を食ふ。その時、男の父母、竹原の中に隠れて居りき。時に、竹の葉動(あよ)けり。そのとき、食はるる男「動く動く」と云ひき。故れ、阿欲と云ふ。神亀三年、字を阿用と改む。〉(『風土記』「出雲風土記」新編古典文学全集〈小学館〉)


大意 目が一つしかない鬼が来て、ある農夫の息子を食べました。その父母は、竹原に隠れてじっとしていましたが、竹の葉が動くと鬼に見つかりそうになるので、農夫の息子は、みずからが食われながらも父母に、「動(あよ)く、動(あよ)く」といって、じっと隠れているように教えました。この伝承は、地名のもととなりました。


この「目一つの鬼」のエピソードについて、植垣氏は同書「古典への招待」及び本文校注にて、次のように述べます。


  〈風土記の執筆者は、これが高天原から追放された神の仕業という大和側の見方を排することで出雲の立場を貫きました。八岐の大蛇の話の原型は、須賀の宮のすぐ近くにある大原の郡阿用の里の、目一つ鬼の伝承です。〉

  〈出雲は明治以前、鉄の生産が日本一であったが、鉄鋼から鉄を取り出す技術が大陸から伝えられた。技術者は尊敬されながらも、一方、不思議な術を使う集団に見えたと思われる。ところで、鍛冶の仕事では火の温度を知るために火の色を見る。これを長年続けると片目が失明する。目一つの鬼の正体はじつは自分の片眼を犠牲にして仕事をした人であった。愚かな恐怖心から鬼に仕立て、子を食う話が語られた。八岐の大蛇の伝承の原形はこれであろう。〉(『風土記』「古典への招待」植垣節也)


馬場あき子氏は、『鬼の研究』のなかで、この「目一つの鬼」について、次のように推察します。


  〈日本の書物に登場する鬼が一つ目であることは、日本の鬼の原型を考える上にたいへん参考になることである。神犠にえらばれたしるしとして片目をつぶされた一つ目の男が、ある時よこしまな暴力をもってふいに民衆の収穫を奪い去ることは考えられぬことではない。〉


馬場氏がこのように述べるのは、「目一つの鬼」の由来を、柳田国男氏の研究に求めたからです。柳田国男氏が、『一つ目小僧』のなかで、日本の古代の風習を挙げ、「大昔いつの代にか、神様の眷属にするつもりで、神様の祭りの日に人を殺す風習があつた。恐らくは最初は逃げても捉まるように、その候補者の片目を潰し足を一本折つておいた」ことの名残であるととらえたからです。また。馬場氏は、「鬼」に「しこ」という読み方があったことに言及し、異形であったり、身体の一部が損なわれていたりする姿のものを「おに」と呼んだ可能性を示唆します。

じつは、私は、両氏の説の、ある部分に、違和感を持ってしまうのです。両氏とも、ここで「目一つの鬼」とは、二つある目のうち、一つが潰れた(潰された)人物を想定しているのですが、二つある目の一つが潰れている、そのようなすがたかたちを見て、人々は、「目一つ」と認識するかということです。その場合、「片方の目の潰れた(潰された)」と認識するのではないでしょうか。またそれに、片方の目が潰れているといったようなことは、一見してわかりにくく、近くに寄って認識できることです。ですので文字どおり、この「鬼」の目は、初めから一つしかなかったのではないかと、私は思うのです。

それから、『日本書紀』の八岐大蛇の伝説は、強力な霊性を感じさせる水神伝説でもあります。


M 〈時に素戔嗚尊、乃ち所帯かせる十握剣を抜きて、寸に其の蛇を斬る。尾に至りて剣の刃少しき欠けぬ。故、其の尾裂きて視せば、中に一つの剣有り。是所謂草薙剣なり。(中略)一書に云はく、本の名は天叢雲剣。蓋し大蛇居る上に、常に雲気有り。故以て名くるか。日本武皇子に至りて、名を改めて草薙剣と曰ふといふ。〉
(『日本書紀』「神代上」第八段〈岩波文庫〉)


そもそも朝廷が、『風土記』の編纂を各国に命じたのは、各国から税を、余すところなく搾取する目的があったでしょう。この伝承のある出雲国ではよく雨が降るということになり、五穀豊穣の地という印象になります。遠国である出雲国において、このような伝承を「風土記」の報告に認めてしまうと、租税がたいへん重くなる可能性があったでしょう。

『日本書紀』欽明天皇紀には、飢餓による食人の記録が残されています。

N 〈廿八年、郡國大水飢、或人相食。轉傍郡穀、以相救。〉(この書き下し文は後ほど。)

食人の強烈な描写は、増税回避のために、かつての大災害、大飢饉を、中央政府に想起させることにあったのではないでしょうか。大災害が発生すれば、どうなるかわからない。出雲国とて例外ではない。そして、目一つの鬼が、遠巻きにも「目一つ」とわかるほどの、文字どおりの異形の姿であったとしたなら、この郷の人々にとり、伝承すべきであった事柄は、何だったのでしょうか。

実際、班田収授法は、税を納める農民にも、取り立てる側の国司にも過酷すぎて、ほどなくして戸籍を偽るなどの不正が横行したほどでした。男子は六歳になると口分田を支給されますが、六歳など、まだほんの子供で、おとなのように働けるはずもありません。そして、成人男子が死亡すると、その口分田を返納しなくてはなりません。男親は、六歳にはなったがまだ幼い男の子のぶんをも耕さねばならず、税を滞納すると、兵役や建設工事にボランティアで駆り出されます。すると、家には女子供だけとなり、田畑を耕す人がいなくなってしまうのです。そのようなわけで、農民のほうでは、男子が生まれたら女子と偽ったり、高齢者が亡くなってもまだ生きていると偽って、収穫を見込める口分田を手放すまいとしました。そのようななか、なんらかの事情で労働力と見込めそうにない子は、口分田支給の六歳までに死んだことにして、山などに移したり、遺棄したりしていたのではないでしょうか。

またさらに、「おに」は、欽明天皇紀にて、次のようにも記されます。北陸地方に伝わったとされる、放浪民の伝承です。


O 〈越国言さく、「佐渡嶋の北の御名部の埼岸に、粛慎人有りて、一船舶に乗りて淹留る。春夏捕魚して食に充つ。彼の嶋の人、人に非ずと言す。亦鬼魅なりと言して、敢て近づかず。
〈人有りて占へて云はく、『是の邑の人、必ず魅鬼の為に迷惑はされむ』といふ。久にあらずして言ふことの如く、其に抄掠めらる。是に、粛慎人、瀬波河浦に移り就く。浦の神厳忌し。人敢て近づかず。渇ゑて其の水を飲みて、死ぬる者半に且とす。骨、巌岫に積みたり。俗、粛慎隈と呼ふ。」とまうす。〉


「粛慎人」がどのような人々をさすのか諸説あるようですが、彼らは、どこからかやってきて、その土地に隠れ棲んでいたようです。定住はせず、放浪民であり、地元の人々から「おに」と呼ばれて、地元の人々を悩ませるようになったという伝承です。この「鬼魅」の様子は、前項(2)、書紀におけるKの文章が述べた「鬼」の様子と重なります。

ここで、もう一度、Aの文章に戻っておきたく思います。


A 〈郡より西北のかた六里に、河内の里あり。本、古々の邑と名づく。俗の説に、猿の声を謂ひて古々と為す。東の山に石の鏡あり。昔、魑魅(おに)在り。萃集りて鏡を翫び見て、すなはち自づから去る。俗、疾き鬼は鏡に面へば自づから滅ぶと云ふ。〉(「常陸国風土記」)


魑魅(おに)は、集まって遊ぶことがあり、鏡に映るのは自分自身であると認知できる。鏡に映ったのは自分自身だと分かれば、姿を消してしまったーー。姿を消して、どこへ行ったのでしょうか。集まるまえは、どこにいたのでしょうか。

私には、「風土記」に登場する「阿用の鬼」も「河内の魑魅(おに)」も、なんらかのハンディキャップをもって生まれた子が、労働力とはならないために、物心つかないうちに、そう遠くない山のなかに棄てられ、なかには生き残るものもいて、山の民となった姿と思えるのです。そして、生きた人であるからには、食べ物などを求めて、しばしば、郷にも出没をします。山のなかでグループになることもあったでしょう。郷の人々のほうでも、もとは自分たちの血縁者であり、戸籍を偽るなど、生きていくためのやむなき不正のためにそうなったものであるからこそ、事件化を避けて、なんとか山へ追い返そうとしたでしょう。逆に、こうした者たちに事件を起こされたときも、「おに」が現れては消えたことにして、その形で伝承もし、「風土記」なる中央への報告書としても、このような形でバランスを取ったのではないでしょうか。

いずれにせよ、日本にあったもとからの「おに」の概念とは、折口博士のいう精霊や自然霊のような土俗の信仰のそれではなくて、生きながら棄てられた人々を、あるいは定住民と対立する流浪民を、もとから「おに」と呼んでいたではないかという問題提起を、私は、しようとしています。中世以降、山の民や流浪民を「おに」と呼んだらしいことは、『鬼の研究』ほか、先行の研究で明らかにされていますが、農耕が始まり、条件のよい土地を奪い合うようになったときから、そのような人々はすでに発生していたでしょうし、そのような人々への呼び名が無かったとは、むしろ、考えにくいことだからです。ですので、そうした人々を、とっくに「おに」と呼んでいたのではないかと、考えてしまうのです。
この国の言葉の使い方に、外来文化の影響の乏しかった頃にも、共存の難しい人々、異質な人々を排除しようとする向きと、対立を避けて、なんとか折り合いを付けようとする郷の風情は、常にないまぜであったようにも思われます。
 
欽明天皇紀にあった、「佐渡嶋に鬼魅(おに)あり」の「粛慎人」「粛慎隈」は、異文化の部落の存在を示し、異文化の人々との対立を暗示します。この景行天皇紀における「邪しき神」「姦しき鬼」のふるまいは、まさに、定住民から見た、対立する異文化集団のふるまいと同様ですし、「常陸国風土記」の目一つの鬼のふるまいも、「農桑を伺ひて人民を略む」行為そのものでした。そして『日本書紀』が、そのような人々の排除を、朝廷の権力でもって唱えるようになるまで、郷の人々は、彼らをひそかに「おに」と呼びつつ、折り合う道を模索していたかもしれないのです。
いずれにせよ、古代の人々が「おに」と呼んでいたのは、重い税に耐えかねて逃げ出すなどした人々、戸籍操作のために山などに棄てた子や、あるいは放浪することになったグループ、ハンディキャップピープルであった可能性が高いでしょう。

さて、ここまででわかってきたことを、まとめます。
古典籍からの引用を、アルファベットでA~Oとしています。①~⑤に、A~Oの引用部分を対応させると、次のようになります。
間接的な引用部分は、主たる引用部分にひもづける形で(‐●)として示しました。


【⑴2のまとめ】

① 「おに」の概念の、中国に由来しない、日本にもとからあった意味合いとは、「身を隠す」という意味合いであった。……阪倉「神」語源説、折口信夫説、馬場あき子説、A、G

② 「おに」の概念の、「かみ」の概念と意味の重なるところが多いなか、「おに」の概念の独自性は、文脈の中心人物と対立する関係性となったときから、中心人物の立場で、「おに」と呼んだ。なかでも『日本書紀』においては、朝廷が武力において制圧すべき敵とみなした存在を「鬼」とした。…B、I、J、K

③ ②を受けて、『日本書紀』では、雷のような、信仰対象であった自然現象を絶対視してはおらず、大和朝廷と対峙する関係にあるものとしてとらえている。もとは「神」として順接にとらえてあっても、災厄を結果としたものについては、同一文脈中にあっても、「神」から「鬼」へと関係性をとらえ直した。朝廷からの、対話や対立を避けるアクションなどにおいて災厄を避けられた場合は、「神」であることを温存した。つまり、「かみ」か「おに」かは、絶対的な意味合いではなく、環境(周辺事物)との関係性の持ち方で、決まっていた。……C、D、E

④ 『日本書紀』では、わざ歌を用いるなどして、大和朝廷に対する大衆の反感や逆心を、「鬼」の出現によって暗示した。……H→E→F→Gの流れ

⑤古代社会の人々に 「おに」と呼ばれていたのは、流浪民や棄民、ハンディキャップピープルであった可能性が高い。……A、K、L(‐M、N)、O



このように見ていきますと、日本にもとからいた「おに」は、どうやら精霊のたぐいではなかったということになります。
あるときは、逆賊のメタファーであり、メタファーでないときは、現実の人間もしくは人間集団を指し、その内実は、悪意のある無しによらず。社会と協働していくことの難しい人々だったようです。
であれば、なぜ、折口博士や馬場氏は、日本にもとからいた「おに」に、精霊や自然霊といった、土俗信仰の対象である可能性を、取り置こうとされたのでしょうか。
なぜ自分もまた、同じ指向を持ったのでしょうか。
このことを、和歌文学をその精神風土におくものにとり、『古今和歌集』「仮名序」の影響が大きかったせいではないかと私は考えました。(本考5)

さて、「おに」という和語には、中国から入ってきた漢字のうち、「鬼」の字が当てられています。
この「鬼」の字は、大陸では「キ」という音を持ち、死者の霊を表しました。それにまた、天武朝の頃には、同じく大陸から渡ってきた仏教が、浸透してきた時代でもあります。
本考では、次いで、大陸から受け入れた死生観が日本でどのようにアレンジされていったかを、「鬼」の字において表現される事物をめぐって、見てまいります。














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(未定稿)鬼さん考 1

2024-03-29 12:54:18 | 月鞠の会
一 日本にもとからいた「おに」を探る

⑴ 特記すべきこと


日本にもとからいた「おに」とは、きっと、精霊のたぐいだろう。――この論考を始めたとき、私は、そのように心づもりをしていました。

見通しのよくない道を歩いていて、袋小路に入り込んでしまう。山茶花の咲くのを目印にして出られたけれど、その次に通ったときには散っていて、また迷う。道を抜けてから、何かに遭ってしまった気分が残る。何かを見たわけでも、耳に聞こえたわけでもないのに、あやしい気配に遭ってしまったという、「体験」に類するできごと。――自然にまつわる、そのような感覚を、古代の人は、どのように表現したのだろうか、と。そして、それを、「おに」や「おに」に類する言葉によって、表現していたのではないかと。

折口信夫博士が、次のように書いています。(傍線筆者、以下同)


  〈一体おにと言ふ語は、いろいろな説明が、いろいろな人で試みられたけれども、得心のゆく考へはない。今勢力を持つて居る「陰」「隠」などの転音だとする、漢音語原説は、とりわけこなれない考へである。聖徳太子の母君の名を、神隈(カミクマ)とも鬼隈とも伝へて居る。漢字としての意義は近くとも、国訓の上には、鬼をかみとした例はない。ものとかおにとかにきまつてゐる。して見れば、此は二様にお名を言うた、と見る外はない。此名は、地名から出たものなるは確かである。其地は、畏るべきところとして、半固有名詞風におにくまともかみくまとも言うて居たのであらう。二つの語の境界の、はつきりしなかつた時代もあつた事を示してゐるのである。強ひてくぎりをつければ、おにの方は、祀られて居ない精霊らしく思はれる点が多い。〉

「青空文庫」『信太妻の話』(折口信夫)から、表記を若干改めて引用しました。「青空文庫」の底本は「折口信夫全集 2」〈中央公論社〉、底本の親本は「古代研究 民俗学篇第一」〈大岡山書店〉、1929(昭和4)年4月10日発行。

 
  〈「おに」と言ふ語(ことば)にも、昔から諸説があつて、今は外来語だとするのが最勢力があるが、おには正確に「鬼」でなければならないと言ふ用語例はないのだから、わたしは外来語ではないと思うてゐる。さて、日本の古代の信仰の方面では、かみ(神)と、おに(鬼)と、たま(霊)と、ものとの四つが、代表的なものであつたから、此等に就て、総括的に述べたいと思ふのである。〉
  〈鬼は怖いもの、神も現今の様に抽象的なものではなくて、もつと畏しいものであつた。今日の様に考へられ出したのは、神自身の向上した為である。たまは眼に見え、輝くもので、形はまるいのである。ものは、極抽象的で、姿は考へないのが普通であつた。此は、平安朝に入つてから、勢力が現れたのである。〉
  〈おには「鬼」といふ漢字に飜された為に、意味も固定して、人の死んだものが鬼である、と考へられる様になつて了うたのであるが、もとは、どんなものをさしておにと称したのであらうか。

こちらも、「青空文庫」に公開されている『鬼の話』(折口信夫)から、表記を若干改めての引用。底本は「折口信夫全集 3」〈中央公論社〉、底本の親本は「古代研究 民俗学篇第二」〈大岡山書店〉、1930(昭和5)年6月20日発行。


つまり、昭和の初め頃、折口信夫博士によって、だいたいこのように考えられていたのを、私は、自身の感覚に近いこととしてとらえていました。馬場あき子氏は、『鬼の研究』(三一書房)において、博士の言説について、以下のように考察しています。『鬼の研究』は、一九七一年です。

  
  〈聖徳太子の母は、書紀その他に拠れば、穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)で、穴穂部は安康天皇の名代(なしろ)として雄略天皇十九年におかれたものである。間人皇女は欽明天皇の皇女で、「欽明紀」には泥部穴穂部皇女(はしひとのあなほべのひめみこ)とある。これにたいして、異母妹の磐隈皇女(いわくまのひめみこ)は伊勢の大神祠であり、夢皇女(ゆめのひめみこ)の別称をもっていた。いかにも夢占や巫言に長じていたことを推測させる名で、もし「神隈」という字を当てるとすればこの方の名としてふさわしい。しかし、「穴穂」という呼称は穴太ともかかれ、この皇女の墓は大和平群の地を占めて築かれているので、穴穂は山沿いの洞穴の多い地形の名であったことも考えられる。折口氏もまた、「おにの居る処は古塚、洞穴などであるらしい。死の国との通ひ路に立つ塚穴である。――鬼隈の皇女などという名も巌穴、洞穴にかんけいありさうだ」(『鬼と山人と』)と述べて、穴と鬼の連想を明らかにしている。
  いずれにしても「おに」という語が、中国産の「鬼」とはまったく別個に、独自の土俗的信仰や、生活実感として存在していたわけである。〉(『鬼の研究』)

  馬場氏のいう「中国産の鬼」とは、漢字として「鬼(キ)」の、もともとの字義である「死者の霊」。折口氏が昭和の初めに「もとは、どんなものをさしておにと称したのであらうか。」として示唆する「もと」の鬼――日本古来の「おに」の存在が、馬場氏によって、「独自の土俗的信仰や生活実感」との限定を加えつつも、このように積極的に肯定されています。
馬場氏は、さらに同著のなかで、『日本書紀』から、「鬼」が「もの」とも訓を当てられた例を挙げ、補足します。


  〈「彼(そ)の国に、多(さは)に螢火の光(かかや)く神、及び蠅声(さばへ)なす邪(あ)しき神あり。復(また)、草木ことごとくに能(よ)く言語(ものいふこと)あり。――吾れ葦原の邪(あ)しき鬼(もの)を撥(はら)ひ平(む)けしめむと欲(おも)ふ」〉(『日本書紀』「神代紀」……『鬼の研究』中の引用部分)

  〈ここで「もの」とよまれている「鬼」とは、「螢火の光(かかや)く神」や「蠅声(さばへ)なす邪(あ)しき神」あるいは、「ことごとくに能(よ)く言語(ものいふこと)」がある草木などの総称である。つまり、これらの例によって知られる、よろずの、まがまがしき諸現象の源をなすものが、〈鬼〉の概念に近いものとして認識されていたのである。それは、はっきりとは目にも手にも触れ得ない底深い存在感としての力であり、きわめて感覚的に感受されている実体である。〉(『鬼の研究』)


ここから、馬場氏がイメージしている、日本にもとからいた「おに」は、折口氏と同様、具体的には精霊や自然霊であることが伺えます。「目にも手にも触れ得ない」けれども、「感覚的に感受されている実体」という表現は、私が冒頭に述べた、「何かを見たわけでも、耳に聞こえたわけでもないのに、あやしい気配に遭ってしまった」という感覚と一致するでしょう。

しかしながら、これらを引用しつつ思うことが一つ。それは、私が、折口信夫博士の言説や、馬場あき子氏の解釈を受け入れているのは、そのものが正しいかどうかとは関係がなく、なおかつ、当然だということ。なぜなら、歌人である私は、一九六六年生まれ、お二人から見て、後の世代の実作者です。歌人として偉大な先達であられる人々の言説を、つづく世代の自分自身が、先達と共有すべき文化として、疑うことなく取り込んでいるのは、むしろ自然でありました。
ですので、この二人の識者の手柄において、すなわち、大陸の文化が入ってくる以前から、自然物の気配を精霊によるものとして感受し、「おに」と呼ぶことがあったと、日本にもとから「おに」と呼ばれる精霊の一身があったと、このように言葉にされていたことで、この章の冒頭に掲げた趣の気配を、私は、「そのように感じるようになった」のかもしれない、ということを、まず、特記しておきます。



















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(未定稿)鬼さん考 序

2024-03-16 11:08:07 | 月鞠の会
鬼さん考 序


現代を生きる私たちが、慣れ親しんで使う言葉に「おに」があります。
「鬼」と書いて、「おに」と読む。とても恐ろしい、程度が人知を超えているといった意味や存在を表します。
ツノを生やし牙をむいた姿態で童話に登場したり、「鬼ばば」のようにさまざまなニュアンスの接頭語になったり、その分野への情熱の傾け方が尋常でない人を「◯◯の鬼」と身近に呼んだりもし、その一方で、非常に残虐な事件があったようなときに、「鬼の所業」のように、穏やかでない使い方をされる言葉です。
いずれにせよ、超自然的で、恐ろしいイメージがあります。
お茶目に呼ぶときにも、恐ろしいイメージが持たれることを前提に、その前提を裏切るお茶目さ、という意味合いになってきます。

そもそも、「鬼」の語は、いつ頃からある言葉でしょうか。
ずっと同じ意味に使われていたのでしょうか。
そうでないとしたら、現代の意味に近づいてきたのは、どの時代からでしょうか。
そして、この言葉が大昔からあるとしたら、古代の人々は、「おに」という言葉で、どのようなものを表そうとしたのでしょうか。

私がそんな疑問を抱いたのは、『新古今和歌集』(1205年)の撰者の一人であり、『小倉百人一首』(1235年)の編者である藤原定家が、その構想した和歌十体において、「鬼拉の体」なる異様の体を、打ち出していたからでした。
「拉ぐ」とは、「かっさらう」「ぶっつぶす」ぐらいの強烈な意味なのです。
弱い、あえかな存在に対して、そのような物騒な行為をはたらくことが、和歌の美意識であるはずもない。「鬼拉の体」は、和歌の体として提唱されたものの一つなのですから、美意識の現れ方でなければなりません。そうすると、おのずから、「鬼を拉ぐ」の「おに」とは、拉がれるべき凶悪な、恐ろしい存在でなければなりません。
逆にいえば、「定家十体」の頃には、「おに」という語に、恐ろしいイメージがすでにあったということです。

もっと昔は、どうだったのでしょう。
そこで、私は、『古今和歌集』(905年)の仮名序に、「鬼神」の語があったことを思い出しました。


  やまと歌は、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。世の中にある人、ことわざ繁きものなれば、心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて、言ひ出だせるなり。花に鳴く鶯、水にすむ蛙(かはづ)の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける。力をも入れずして天地(あめつち)を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女の中をもやはらげ、猛きもののふの心をも慰むるは歌なり。
(『古今和歌集』新潮日本古典集成)(傍線筆者)


校注者の奥村恆哉氏は、傍線部を「おにがみ」と読ませ「もろもろの精霊たち」と注を付し、解説ではこのように述べています。

  「漢語『鬼神』と、大和言葉『おにがみ』とが、中身まで同じだと考えては性急に過ぎるのだ。前者は死者の霊であり、後者は記紀の神話に出てくる、名も記されなかったもろもろの『かみ』である。」

他方、「新 日本古典文学大系」(小島憲之、新井栄蔵校注)による『古今和歌集』では、傍線部を「おにかみ」と読ませ、その意味を「霊魂・神霊の意の漢語『鬼神』の訓読語。」であるとしています。

互いに異説にみえますが、そのいずれであったとしても、現代の「鬼」に通じる、恐ろしい凶悪なイメージは、少なくとも905年、『古今和歌集』仮名序における「鬼」もしくは「鬼神」には、持たれていなかったとみえます。
そして、定家の用いた「鬼拉」の「おに」を『古今和歌集』仮名序における、精霊、自然霊、もしくは死者の霊、もしくは神霊、そのいずれに置き換えても、訳語として意味が通じないことも、わかります。
つまり、『古今和歌集』の時代には、「精霊」「自然霊」「霊魂」といった、かすかな存在の意味を担っていた「鬼」の語は、『新古今和歌集』の時代に至るまでのあいだに、凶悪さ、恐ろしさが、その意味の中心として持たれるようになったということです。

仮名序は、勅撰和歌集という公文書の仮名序です。
真名序よりは自由に書かれているとはいっても、「目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ」とは、少なくとも現代の公文書には登場しないファンタジーでしょう。
おそらく、『古今和歌集』の時代には、今となっては迷信であるとしか考えられないファンタジーに、リアリティがあったのでしょう。「鬼神」たちは、人々の営みから生まれる和歌のしらべに耳を澄まして、しみじみと味わっていたのであり、また、それのできる距離感に、人々と「鬼神」が共存していたはずです。

それにまた、『古今和歌集』の時代の「鬼」と「神」は、「鬼神」として一括りにできた、意味においての近さがあったということ。それがいつ、対極的な存在としての「鬼」と「神」に、分かれたのでありましょうか……?

そこで、時代はくだるのですが、こんどは能楽者、世阿弥が『風姿花伝』(1400~1418年)のなかで唱えた「物まね条々」を見ていきましょう。
「物まね条々」とは、世阿弥が演劇論に挙げている「物」、演じるべき対象です。
講談社学術文庫『風姿花伝』(市村宏全訳注)によると、次のような項目が設けられています。

・女
・老人
・ひためん
・物ぐるい
・法師
・修羅
・神
・鬼
・唐事

世阿弥には、「神」と「鬼」が、線引きされています。
さらに、「神」と「鬼」の項目をそれぞれ見ていくと、「通釈」や「余説」(訳者私見)において、次のように述べられています。


●神
  「およそ、此の物まねは鬼がかり也。なにとなくいかれるよそほひあれば、神体によりて、神がかりにならんもくるしかるまじ。但、はたとかはれるほんゐあり。神はまひかかりの風ぜいによろし。鬼は更にまひかかりのたよりあるまじ。」
  (通釈)「およそ神の物真似は鬼物の風情である。何となく強烈な容子がみえ、扮する神体によっては、鬼の風情になっても差支えあるまい。但し、神と鬼とは本質を異にする。神は舞がかりの風情を見せてよいが、鬼は全く舞がかりでゆけるよりどころはない。」

●鬼
  「凡怨霊つき物などのおには、おもしろきたよりあればやすし。」「まことのめいどの鬼よくまなべば、おそろしきあひだ、おもしろき所更なし。」
  (通釈)「凡そ怨霊や憑き物などの鬼は、面白くやれる手懸りがあるから演じやすい。」「本当の冥途の鬼をうまく真似すぎると、恐ろしいために少しも面白くないことがある。」(余説)「畏怖すべき共通点はありながら、鬼には幽玄に傾く風情はなく、従って舞がかりではゆけない。」

また、「鬼」と演じ分けなければならない条に「修羅」がありました。

●修羅
  「これていなる修羅のくるひ、ややもすれば鬼のふるまひになる也。又は、まひの手にもなる也。」
  (通釈)「このような修羅能の狂は、ややもすると鬼の仕草になりがちである。またときには舞の手になる場合もある。」


世阿弥が、「神」「鬼」「修羅」を演じ分けなければならないとしたのは、なぜでしょう。
私がこの序文に挙げた『古今和歌集』『新古今和歌集』『風姿花伝』の三つの書には、共通点があります。
それは、言語表現として、あるいは身体表現として、それぞれに美意識を現すことを目的としている点です。
世阿弥は、「神」「鬼」「修羅」といった対象物どうしの輪郭を明確にすることで、より美しい表現に仕上がると考えたのでしょう。
このことは、もしこれらが明確に分かれていないとしたら、鑑賞者の抵抗にあうということですから、これもまた、一般の感覚としても、「鬼」と「神」とが明確に分かれているべきものであったわけです。

『古今和歌集』『新古今和歌集』についても、次のようにもいえます。
『古今和歌集』仮名序(905年)のように「鬼」と「神」とをないまぜにできるのは、それを美意識として、鑑賞者である人々と共有できるだけの土台が、その時代に存在していたからであると。
そして、『新古今和歌集』(1205年)の時代においては、「鬼」の一語を特定のイメージにおいて象徴化して打ち出すことができるようになっていたと。つまり、それをして、鑑賞者である人々にも、共有しうる認識、一致しうる認識が存在していたと。
すなわち、何を真善美とするかを探っていくことで、そのときどきの、社会的な状況や背景をうかがい知ることができるわけです。

そしてここまでの、ささやかな問いと答えの繰り返しによって得られたことからも、さらに次々と問いが湧き起こってきます。

第一に、『古今和歌集』が構想した古代社会においては、「おにかみ」であれ「おにがみ」であれ、「かみ」と「おに」は、かつて、私たちの日々と隣り合う異界の存在でありました。では、私たちの祖先は、実際にはいかなる感性をもって、そのものを「おに」や「かみ」と呼んでいたのでしょうか? 和歌文学の伝統的な構想と、古代社会における実態との、重なるところやすれ違うところを見ていきます。

第二に、「鬼」や「神」を、超自然の存在としてとらえおく、その宗教性についてです。604年、聖徳太子が仏教のおしえを政治に採り入れてから、中国の民間信仰を含めた仏教の導入が、「おに」と「かみ」に、どう影響したのかということ。中古、中世の文学的表現に見られる死後の世界観の形成から、死生観の変遷についても、辿っていきたく思います。

第三に、『古今和歌集』の時代には、精霊や霊魂の意味を含んでいた「鬼」の語が、『新古今和歌集』の時代には、強く恐ろしいイメージ、凶悪なイメージを広く持たれるようになり、世阿弥の能楽論の頃には、「鬼」と「神」は、明確に線引きされるようになりました。その線引きは、文学的表現の背景が中古から中世へ移ろったこと、さらに戦国時代へ進展したことと関係がありはしないか。そのなかで、「鬼」のイメージに、どのような変化があったのかということを、とらえていきたく思います。



次の章では、第一のとりかかりとして、「おに」と「かみ」がどのように形づくられたのかを、語源説を中心に、辿っていきます。

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片付けてしまふは惜しき鰯雲  松木靖夫(松木千樹)

2024-03-03 10:21:13 | 月鞠の会
たずねびと、松木靖夫さまの、ご家族さまからご近況を伺うことができました。
深く深く感謝申し上げます。

靖夫さまには、亡母がたいへんお世話になりました。
兵庫県立篠山鳳鳴高校時代から、五十年余の長年にわたる温かきお励ましと、
亡母の晩年には、亡母の句作をご指導くださいました。

表題の俳句は、靖夫さまが、拙ブログの連歌の記録をお読みになられて、そのなかで連衆の詠んだ「どこからかたづけようか鰯雲」の句に、着想を得られたのではないかと拝察した次第です。

「鰯雲人に告ぐべきことならず」という、楸邨の有名な句が、世の中には先行します。
楸邨の句に、「鰯雲」、すなわち取るに足りないものの意を汲むのであれば、「人に告ぐべきことならず」と下句がつづくのは同義反復であり、なぜこの句が名句とされたのか、それはおそらく、軍国時代を背景にもつからでしょう。

そして、靖夫さんの、「片付けてしまふは惜しき鰯雲」の句は、時代を代表する句としても、内容のうえでも、楸邨の句それ以上です。

靖夫さんの句は、「鰯雲」に取るに足りないものの意を汲みながらも、天空一面に広がる実際の景色とともに、このいまの眺めがさらに、未来につながる可能性を示唆しているのです。

靖夫さんの築かれた時代の自由がここには象徴されています。
私ども子の世代は、その恩恵に浴しました。
この句は、さらにそのうえ、子々孫々に未来の広がることを、片付けてしまうには惜しい、一つ一つの生命のつながりを、示してくれているのです。

この記は、さしあたっての雑記であり、ここに示したものを基調に、「月鞠」第21号では、靖夫さん句について、ささやかながら、筆を執らせていただきます。

未来を描いて見せてくれる作品を、私も、多くの人に見せたくなりました。




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