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(未定稿)鬼さん考 4

2024-04-20 16:03:02 | 月鞠の会
二 「鬼」の表現をめぐって、死生観を探る

⑵ 『日本霊異記』――死後の世界観を映しだす「鬼」

通称『日本霊異記』には、「鬼」が明確な形で登場する説話が、上巻第3縁、中巻第24縁、25縁、33縁の四つに見られます。
上巻第28縁、中巻第5縁では、「鬼神(おにかみ)」について触れられます。
この書は、日本最古の仏教説話集といわれており、上巻、中巻、下巻の三巻構成。延暦六(787)年に原撰本がまとめられ、その後改編増補されて、弘仁年間(810-824)に現存本の成立をみたとされています。
ここでは、出雲路修氏校注・解説の『日本霊異記』(新日本古典文学大系〈岩波書店〉)に沿って読解を試みます。
その理由として、一つめに、その成立年代が、万葉の次の年代を見るのにふさわしいこと。
二つめ。この書には『日本国現報善悪霊異記』という正式の題名があります。
この題名は、作者である景戒がみずから付けた題名です。
出雲路氏は、この題名にある「現報」「霊異」について作者景戒が何を表そうとしていたのかを見ることで、原撰本説話(まず先に成立した幹説話群)とそうでない枝説話との分類に成功しています。ゆえに、この分類に基づいたとき、原撰本説話の「報」と「霊異」の叙述に、作者景戒の価値観の反映が望めるのです。そして、原撰本説話ではないということは、後に改編増補された説話であり、必ずしも所期の価値観に拠らない、枝説話ということです。

では、正式の題名である「現報」「霊異」について作者が何を表そうとしていたのか。
出雲路氏は、「現報」と「霊異」について、各縁の標題が、作者景戒の理解語彙に対応しているかどうかを分類しました。そして、次のような対応が見られるものを原撰本説話としています。


  〈「現報」とは、「報」のひとつ。「時」を基準としてなされた「現報」「生報」「後報」という「報」の三分類、の一項である。〉(同書「解説」)
 
 〈「現報」は、その人の行為に対する「報」がその人の生涯のうちに現れる。現在世で完結する因果応報のありかた。〉

  〈「霊異」とは、どのようなものか。(中略)たんなる「怪」な現象ではなく、その背後に超越的なもの(ここでは「神祇」)をもった超自然的な現象とみるべきであろう。〉


「報」とは、仏教でいうところの因果応報の「報」を指します。
つまり、作者景戒がまとめようとしたのは、〝その人の生涯のうちに現れた現在世で完結する因果応報を示す、神仏による超自然的な現象の記〟であるといえるでしょう。
そして、これらに基づいて、『日本霊異記』の、さきに挙げた鬼(鬼神)の説話の6編を見ていくとき、この意味合いに対応した説話……すなわち原撰本説話は、このなかで、一つしかありませんでした。中巻第5縁です。
原撰本説話であること、あるいはないことにおいて、どのようなことがわかるでしょうか。
まず、原撰本説話ではないが、「鬼」が明確な形で登場する上巻第3縁、中巻第24縁、25縁、33縁から、順次見ていきます。
それから、原撰本説話である中巻第5縁について、見ていきます。
最後に、原撰本説話ではない上巻第28縁を取り上げます。

上巻第3縁。「雷の憙びを得て子を生ましめ強き力ある縁」。本文の一部を引用します。


  〈時に其の寺の鍾堂の童子、夜別に死ぬ。彼の童子見て、衆の僧に白して言さく「我れ此の鬼を捉りて殺し、謹めて此の死の災を止めむ」とまうす。衆の僧聴許す。〉〈すなはち鬼の頭の髪を捉りて別に引く。〉〈鬼已に頭の髪を引き剥がれて逃ぐ。明日彼の鬼の血を尋ねて求め往き、其の寺の悪しき奴を埋み立てし衢に至る。すなはち彼の悪しき奴の霊鬼なりと知る。〉


大意 ときに、寺の鐘堂の童子が、夜毎に死んだ。彼の童子が見て、僧侶たちに、私がこの鬼を捕まえて退治し、いましめてこの死人の出つづける災いをくい止めましょう、と申した。僧侶たちはこれを許可した。悪霊は、彼の童子に、頭髪を引き剝がされて逃げた。あくる日、血の痕を辿っていくと、寺の、疫病で死んだ奴を埋めた街角に至った。すなわち、この鬼は、疫病で死んだ奴の悪霊だったとわかった。

この前の文脈で、「彼の童子」が、雷と農夫との間に生まれた子で普通の子ではなく、怪力を持っていたことが示されますが、その部分を含めても、因果応報について述べる要素は皆無です。鬼は、疫病で亡くなった者の霊が、人に死をもたらす悪霊となったのでしたが、その退治の方法は、生々しい流血の描写を伴い、力ずくで退治されるのが印象的です。これは私の感想に過ぎないのですが、この上巻第3縁は、疫病で亡くなった者の霊が祟るという点で、古代中国という源流への近さを感じさせます。その一方で、力ずくの鬼退治というアスペクトに、大江山や桃太郎のような、非常にポピュラーな鬼退治伝説への方向性をも感じさせます。頭髪を捥ぎ取っての流血に、江戸時代『雨月物語』(上田秋成)の「吉備津の釜」を想起する人も少なくないでしょう。あとから増補された枝説話ですが、この一本の説話に、大陸に由来しながら、どのようなことを後代の人々が吸収し、見せ場として伝承してきたのか、日本の人々のメンタリティと、日本の説話文学のたどる命運とが、象徴的に示されているように思えます。

次いで、中巻第24縁、25縁です。あらすじのみを示します。

中巻第24縁「閻魔王の使の鬼召さるる人の賂を得て免す縁」。
あらすじ 楢磐嶋は、閻魔王の使いである鬼に、命を狙われつきまとわれていたが、大安寺から交易の資金を受けて寺を利する商いの途中だったことを鬼に伝えると、鬼は、商いが終わるまでの猶予を与えた。鬼は、腹が減ったので何か食べさせるように求めた。そして磐嶋が干飯を食べさせると、鬼は、病気になるからおまえは私に近づくなといい、疫病神であることを告白した。磐嶋は、無事に家まで帰り着くことができたので鬼を饗応した。すると鬼は、牛の味が好きだから牛を食べたいと、さらに饗応を求め、自分が牛を死なせる死神であることを告白した。磐嶋が、牛は差し上げるのでどうか免じてほしいというと鬼は、饗応を受けた恩によっておまえを許したら、重い罪となって鉄の杖で打たれる。そうならないよう、おまえと同じ年齢の身代わりを差し出せという。また鬼は、磐嶋に、金剛般若経百巻を読めとも命じた。牛、読経、身代わりの命をもって、磐嶋は許され、九十余歳まで長生きした。

鬼は、閻魔王の使いであるから、勝手なことは許されないのです。校注によると、「酒食をもてなされて人を死から免れさせた冥界の死者の例」はさまざまの典籍で見受けられるようです。

中巻第25縁「閻魔王の使の鬼召さるる人の饗を受けて恩を報ゆる縁」。
あらすじ 山田郡に衣女という女がいて、病気になった。そこへ、閻羅王の使いの鬼が来て、衣女を連れて行こうとしたが、鬼は走り疲れ、祭ってある食べ物を見て、そそられて饗応を受けた。「私はおまえの饗応を受けてしまった。だからその恩に報いよう。おまえと同じ姓名の人はどこかにいるか。」と鬼は言い、衣女は、鵜垂郡に同姓同名の別人がいると伝えた。鬼は、鵜垂郡にいる別人の額に一尺の鑿を打ち込んで、身代わりにとったが、閻魔王に見破られ、別人の女が蘇生し、衣女は、やはり死ぬことになった。ところが、身代わりとなった別人の身体は、すでに荼毘に付されてしまっていたので、まだ遺されていた衣女の身体に別人の精神を宿すことにして、別人が、山田郡の衣女として蘇生した。

中巻第24・25縁については、原撰本説話ではなく、因果応報についての記事ではありませんが、死後の世界からの蘇生譚です。「鬼」は、ともに「冥界からの死者」(校注)、閻魔王の使いとしての死神であり、食の接待を受けたことで、対象者の蘇生を実現させようとします。第24縁と第25縁を比べてみると、24縁のほうは、磐嶋には大安寺を利する交易のあったことや読経百巻の般若の力のあったことが結果の違いとなっているようで、これを現報かつ善報ととらえれば、そうでしょう。いずれも『今昔物語集』に見え、25縁の別人としての蘇生については、添加文により、蘇生の成功譚であることが強調されます。
いずれにせよ、閻魔王の部下である死神の仕事ぶりが、対象者からの饗応次第であることや、饗応や賄賂を受けたことによる刑罰を免れようとして、対象者に経を読ませるところなど、人間の世界が死後の世界におおいに投影されています。死後の世界の秩序を、この世と地続きにあるものとしてとらえていることが、特徴な枝説話です。

さて、中巻第33縁はどうでしょう。本文の一部を引用します。


中巻第33縁「女人悪しき鬼に点され噉はるる縁」。
  〈聖武天皇の世に、国挙りて歌詠ひて謂はく「なれをぞよめにほしとたれ あむちのこむちのよろづのこ 南无南无や 仙さか文さかも酒持ち のり法まうし やまの知識あましにあましに」といふ。爾の時に大和国十市郡 菴知村の東の方に、大に富める家有り。〉〈一の女子有り。名けて万の子と曰ふ。〉〈面容端正し。高き姓の人伉儷ふになほ辞びて年祀を経。爰に有人伉儷ひて念々物を送る。彩帛三車なり。見ておもねりの心をもちて兼ねてまた近き親ぶ。語に随ひて許可し、閨の裏に交通ぐ。其の夜閨の内に音有りて言はく「痛きかな」といふこと三遍なり。父母聞きて相談ひて曰はく「いまだ効はずして痛むなり」といひて、忍びてなほ寐。明日の暁に起き、家母戸を叩きて驚かし喚べども答へず。怪しび開きて見れば、ただし頭と一の指とのみを遺し、自余はみな噉はる。父母見て、悚慄り惆懆て、娉妻に送れる彩帛を睠れば、返りて畜の骨と成る。載せたる三の車は、また返りて呉朱臾木と成る。〉〈すなはち疑はくは、災の表まづ現れ、彼の歌は是表ならむ、或るいは神しき怪しなりと言ひ、或るいは鬼の啖ふなりと言ふ。覆し思ふに、なほし是れ過去の怨なり。斯れまた奇異しき事なり。〉


大意 聖武天皇の世に、わらべ歌が流行った。(わらべ歌の現代語訳は後述。)そのとき、あむち村の東の方に、大金持ちの家があった。(その家に)一人の娘がいた。名を万の子といった。たいへん美しい娘であった。位の高い人が求婚するのにそれでも断って年月が経った。そこへ、物を送って求婚する人が現れた。染められた絹布が車三台ぶんであった。それを見て気に入られたいと思うようになり、仲良くなって、結婚を許した。夜中に三度、「痛いなあ」という声が聴こえた。父母は、性交になれないせいだととらえて、それでもじっと寝ていた。夜が明ける頃になって、母親が大きな声で起こしても答えない。怪しんで戸を開けてみると、東部と指一本だけを遺して、ほかはみな食われていた。結納の豪華な品々を載せた車は、畜骨と呉茱萸の木に変貌していた。つまり、こういうことではないか。災いのしるしは歌となってまず現れる。それが、あのわざ歌だったのだ。このできごとを、ある人は神の起こした怪異だといい、ある人は鬼の仕業だという。にれかんで思うに、これはやはり、過去に怨まれたせいである。これはまた、あやしい事である。

出雲路氏は、傍線部のわざ歌について、次のような校注を付けています。


  〈仏教語を多用しての戯笑歌。歌の歌詞それ自体に奇怪なものが含まれているわけではない。仏教というきらびやかなイメージを織りこんで、男たちが、「おれたちみんな、おまえが好きなんだぞ」と、女にからかい半分で歌いかけたもの。語音の連想から連想へと展開する歌。〉
  〈汝(な)も南无(なも)や、仙(ひじり)釈迦文(さかもに)、さかも酒(さか)持(も)ち。「汝(な)も」から同音の南无(なも)がみちびかれ、南无から仙(ひじり)釈迦文(さかもに)(釈迦牟尼仏)へと連想が展開し、さらに、釈迦文から同音を共有する「酒(さか)持(も)ち」がみちびき出されている。釈迦牟尼を「釈迦文」とする例は、たとえば妙法蓮華経・方便品をはじめ諸書にみえ、めずらしいものではない。〉


またさらに、出雲路氏のわざ歌の訳を校注から拾ってまとめますと、次のようになります。


  〈「おまえを嫁にほしい、と言うのは誰か。「おれさまだぞ。」「このおかただぞ」といっている、みんな。おまえも、酒持って。車に乗って、こぼれるほど、たくさん。」〉


本文では、結びの文に、冒頭部分のわざ歌を「災の表(しるし)」としていますが、校注者が、同じわざ歌を、不吉の予兆と解釈していないことがわかります。
仏教語にきらびやかなイメージを結ぶのは、歌人がいにしえの歌語にまばゆさを覚えるのと、同じことでありましょう。
そして作者である景戒は、この書を、仏教説話集として著そうとしている僧侶です。
加えて「知識」が、「友人。三宝供養のための行動に党を結び力を合せる人々。」(上巻第35縁の校注)の意であることを踏まえると、やはり、このわざ歌は、仏教的な価値観からいって、災いの予兆であるとはいえないように思います。
そして、この中巻第33縁は、原撰本説話ではありません。しかしながら、本文中に「奇異しき事」という表現が出てきます。
この説話中で「奇異しき事」らしいのは「彩帛三車」の変貌ですが、しかし「彩帛三車」の変貌は、本文に「返りて」と、「返」の字が使われていることから、もともと畜骨と呉茱萸の木だったと校注者は指摘します。
「奇異しき事」が、神仏による超自然の現象でないならば、作者景戒の理解語彙に対応しているといえません。そればかりか、ここでは、限りなく人のしわざとしての、凶悪殺人事件でありましょう。
またさらに、結びの部分の「なほし是れ過去の怨なり。」とは、いかなる「怨」を指すのでしょうか。
景戒は、過去世の報ではなく、現報について書こうとしていたはずです。
校注者は、上巻第3縁で、「日本の前世説話では、過去世においていかなる行為がなされたのか、といったことは記述されないのがふつう。」とします。
『今昔物語集』巻20第37が、この中巻第33縁を出典としています。
「耽財、娘為鬼被噉悔語」と題され、「たからにふけりて、むすめをおにのためだんぜられくゆること」と読めることから、『今昔物語集』では、子の過去世の怨みから起きた事件ではなく、親が貪欲であったために、その娘が鬼の被害に遭ったという現世での因果応報に解釈している点が霊異記と異なります。そして、今昔では、わざ歌について記しません。
こうした編集は、編纂者の解釈次第なのでしょう。
『日本霊異記』、『今昔物語集』、そのいずれにせよ、解明のならない、受け止めがたいできごとを、一足飛びに超自然の現象であるとするところに、ある種の無理を生じています。人ではなく鬼のしわざ、超自然のしわざであると、なんとか合理化することで、日々の平安を守ろうとした人々の心もようが、見えてくるようです。

それでは、原撰本説話として分類を受けている、中巻第5縁を見ていきましょう。あらすじのみを示します。

中巻第5縁「漢神の祟により牛を殺して祭また生を放つ善を修ひて現に善と悪との報を得る縁」。
あらすじ 摂津の国にいたある金持ちが、鬼神(漢神)の祟りを恐れて、一年に一頭ずつ供物として牛をほふった。七年かけて七頭を祭り終わったが、たちどころに重い病となり、殺生の業のためだと思って、放生供養をせっせとおこなった。そして臨終のときを迎え、亡骸をすぐには焼かないように妻子に伝えて、亡くなった。九日のちに蘇生した。金持ちの男は、冥界での出来事を語った。冥界には、七人の非人がいて、牛の頭で人のからだ、彼らは地獄の獄卒でもあったが、この金持ちにほふられた牛たちの霊であった。牛たちは、自分たちを供物にして祈り、そのあと肴にして食べた男を激しく怨んでおり、この男に苦しみを与えてほしいと訴える。その一方で、この男を赦してやってほしいと訴える声もあり、閻魔王は悩んで、赦してやってほしいという声の数の多さにより、この金持ちを蘇生させることにした。蘇生させた者たちは、じつは、この金持ちに放生された生き物たちであった。殺生が悪報につながり、放生供養が善報につながる。

ここでの「鬼神」は、あの世の鬼ではなく、主人公が生前、祟りを免れるために牛を殺して供物としていた鬼神で、本文中、「漢神」「鬼神」と二通りの呼び方をされています。
『今昔物語集』巻20第15が、この中巻第5縁を出典としています。
「摂津国殺牛人、依放生力従冥途還語」と題され、「つのくにのうしをころすひと、ほうじょうのちからによりてめいどよりかえること」と読めることから、霊異記と同様に、放生供養の大切さを説いています。
殺生を求める鬼神という反仏教と、仏教とを対照させ、殺される生き物の、悲痛と嘆きをとらえさせます。終局、放生供養の大切さが説かれるための流れにおいて、完成された仏教説話といえるでしょう。

鬼神信仰については、『抱朴子 内篇』(引用部分は古典籍総合データベース『全文抱朴子』。公開者:早稲田大学図書館)に、次のように述べられています。(原文の句点筆者。)訳文については『抱朴子 内篇』(東洋文庫。校注訳:本田濟)から引用し、その解説を参考にしました。


  〈楚之霊王躬自為巫靡受斯牲而不能却呉師之討也。〉(巻9 道意)

  〈孝文尤信鬼神咸秩無文而不能免五柞之殂。〉

  〈楚の霊王は神がかりのことが好きで、自身巫のまねをし、惜しまずに犠牲を供えたが、呉の軍勢が攻めて来たとき、これを斥けることはできなかった。(桓譚『新論』)〉

  〈武帝は最も鬼神を信じ、文献にない民間の神々にもすべて禄を与えたが、不老不死の願いはかなわず、とど五柞宮でなくなった。(『漢書』武帝本紀)〉


『抱朴子』は、317年に成立。作者は葛洪。内篇は道家の理念を、外篇は儒家の理念を示す書として著されました。
ここから、家畜をほふり鬼神への供物とする祭祀や、鬼神を使役する方術が、楚の霊王(前541-前529在位)、漢の武帝(前140‐前87在位)の頃、古代中国においてさかんにおこなわれていたことがわかります。ただし『抱朴子』では、供物や賄賂で鬼神の機嫌をとることに否定的な見解を示し、長生のための仙術、呼吸法などを重んじます。実際、このような祭祀で家畜を殺してしまうと農作業ができなくなるので、古代中国でも禁じられることがあったようです。

霊異記において、殺された牛たちは、「明に知る、是の人主と作りて我が四足を截り、廟を祀りて乞祈り、賊して膾して肴に食ひしことを。」と閻魔王に訴えています。つまり、お祀りしたあと、その牛を食べていたのです。『日本霊異記』の中巻第5縁の校注に、791年、牛を殺して漢神を祭ることが、諸国で禁じられたことが示されます。逆にいえば、禁令がでるほど流行しかかっていたのでしょう。霊異記の原撰本がまとめられたのは787年、直近です。作者の景戒は、殺された牛たちの無念の声を聞き届け、鬼神を崇める肉食祭祀を、強い気持ちで咎めようとしたことでしょう。

最後になりましたが、上巻第28縁。あらすじのみを示します。

上巻第28縁「孔雀王の呪法を修持ちて異しき験力を得て現に仙となり天に飛ぶ縁」。
あらすじ 役優婆塞は、大和国葛木上郡茅原村の人である。生まれつき頭がよく、いろいろなことを学んで、道を会得した。仏教の三宝を仰いで信心し、四十余歳で岩屋にこもり松を食して清水を浴み、孔雀の呪法を修得して不思議な仙術を身に付けた。鬼神を自在にあやつり、「大倭国の金峯と葛木峯とに、橋をわたして通えるようにしよう」などというので、使役される鬼神たちはうんざりした。その鬼神の一人である葛木峯の一語主大神が、「役優婆塞が天皇を傾けようとしている。」と託宣したため、役優婆塞は朝廷に追われる身となったが、験力を使えるので捕まらない。しかし、代わりに母が捕らわれたので、母を放すために自ら捕らわれた。伊豆に流されたが、空を飛べるので夜は富士山で修行をし、処刑されようというとき、その刃に富慈明神の表文があらわれ、これを奉り、赦免を乞うた。701年、辛丑に次ぐ年の正月、役優婆塞は、天朝の辺に近づかれて、ついに仙人となられて空を飛んだ。一言主大神は役行者に呪縛され、今の世に至ってなお、その術は解かれない。

ここでは、道教の方術が仏法として用いられ、鬼神たちは、仏法に使役される鬼神であり、その鬼神たちのなかで、役優婆塞の圧倒的な霊力を疎ましく思い、朝廷に讒言した一人の鬼神には名前があります。本説話は、異教の方術をも駆使し、強かな鬼神たちをも支配するのが仏法であることを示しており、結びの文では〈仏の法の験術の広く大なることを、帰り依まばかならず證を得む。〉と、仏教に帰依することの大切さが強調されます。原撰本説話ではなく、因果応報を記す気配もありません。強いていえば、仏教が道教の神々を使役する様子を前面に押し出すことで、仏教の優位性を見せつけています。この説話が盛り込まれた意味合いは、そこにあるのかもしれません。

では、『日本霊異記』の鬼(鬼神)説話について、まとめます。

①上巻第3縁に、日本の中世以降の鬼退治伝説や、近世の怪談につながっていく方向性が見られる。
②中巻第24・25縁に見られる死後の世界の秩序には、人間の世界の秩序が地続きに投影されている。
③中巻第33縁に、人のしわざである凶悪事件が「霊異」によって合理化されるという、受け止めがたいできごとへの人間的な反射が見られる。
④原撰本説話である中巻第5縁に、仏教の死生観である輪廻転生が明確に前提され、あの世へいった人々が生前の人格を保っていることが、死後の世界観として見てとれる。
⑤上巻第28縁に、仏教が他の民間信仰を統合する優位性を持つことが強調されている。

①~④の点は、現代人の所作とつながり、現代人もまた、知らず知らずのうちに、「あの世へいった人々が生前の人格を保っている」と見ているように思われます。現代人の死後の世界観と、通じるのではないでしょうか。
⑤については、この以降、和歌や文学において、興味深い展開が見られるようになります。
超自然の霊性を、日本に古来からある自然物の、そのままの姿に象徴させるようになっていくのです。その過程を次いで述べます。











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(未定稿)鬼さん考 3

2024-04-14 14:44:08 | 月鞠の会
二 「鬼」の表現をめぐって、死生観を探る

⑴ 万葉の時代の死生観――「死者の霊」のイメージを中国と比較する


「鬼」の字義は死者の霊。中国ではそうだといっても、「死者の霊」の意味合いもまた、中国と日本とで、違っています。
中国では、死者の霊を「鬼(キ)」と呼んで、古くから信仰の対象でした。
それは、現代の日本文化の一つでもある盂蘭盆の行事に想起される、子孫を見守るという穏やかな祖霊のあり方とは、かなり異質です。そして、中国では、仏教と、仏教以前から存在する道教を含めた、中国古来の民間信仰が分かちがたく結びついていることを、知っておく必要がありそうです。

孔子の編纂といわれる歴史書『春秋』の、注釈書である『春秋左氏伝』「昭公七年」には、鄭の宰相である子産によって、取るに足りない人でも非業の死を遂げることになれば祟りをなすことが述べられます。


  〈人生始化曰魄。既生魄。陽曰魂。用物精多、則魂魄強。是以、有精爽至於神明。匹夫匹婦強死。其魂魄猶能馮依於人、以為淫厲。〉

  〈人間が生まれて、最初に動き出すのを魄(目・耳・手・足などの肉体の作用)といいますが、魄ができますと陽、すなわち霊妙な精神もできますもので、それを魂といいます。さまざまな物を用いて肉体を養うのに、そのすぐれた精気が多いと魂も魄も強くなります。そこでその魂魄が精明になると天地の神々と同じはたらきをするようになります。いやしい男女でも非業の死をとげた場合には、その魂魄が後に残って他人にとりついて、みだらなたたりをするものです。〉


新釈漢文大系『春秋左氏伝』「昭公七年」 (鎌田正著 明治書院)から、原文・現代語訳とも引用しました。ただし原文からは返り点を省略し、漢字を新字体もしくは通用しやすい書体に改めました。この原文と同じまとまりにあたる箇所を、中国古典文学大系『春秋左氏伝』(竹内照夫訳 平凡社)では、次のように訳しています。


  〈人が生まれるとき、まずできるものを魄といいます。魄ができてのち、陽の気が身に添いますのを、魂といいます。そして物を取って身を養い、精力が多くなれば魂も魄も強くなり、こうして清く明るい心が育てられ神にもひとしい知恵を持つにも至るのです。ですから卑しい男ひとり女ひとりでも、変死などしたならば魂魄がなお他人にとりついてよこしまなたたりをすることもできます。〉



中国で「鬼」と呼ばれる「死者の霊」については、一般書においても次のように述べられます。


  〈『漢書』の「地理志」にはすでに、「江南は土地が広く、……巫・鬼を信じ、淫祀を重んじている」とあるように、特に中国の南方では、かなり古い時代から鬼に対する信仰が盛んに行われていた。〉(『中国の呪術』松本浩一〈大修館書店〉)

  〈たとえば『楚辞』「九歌」中の「国殤(こくしょう)」は、戦死者のための鎮魂の歌とされているが、「身すでに死して、神(しん)にして以て霊、子(し)の魂魄、鬼雄とならん」とあるように、のちの時代に横死者の霊魂が、厲鬼(れいき)として恐れられたことを彷彿とさせる。やはりこの「国殤」の目的も、彼らを祀り慰めることで、たたりを免れることが目的だったのだろう。〉(同)


漢民族が考えた「鬼」、すなわち死者の霊とは、生前の貴賎によらず、横死や非業の死を遂げることになれば、人々に取り憑き、不満を申し立て、救済が得られるまで祟りをなす存在のようです。それが古来からの考え方であり、現在でも、浙江省磐安県では三十六種の孤魂(祀り手のない魂)と、異常死した三十六種の殤冤鬼を供養し救済する儀式がおこなわれているそうです。それは、祟りを受けないためにそうするのです。
この点が、中国と日本とで、死者の霊についてのとらえ方の大きく異なる点です。
本章において後述しますが、日本では、祀らないからといって、すぐさま死者から祟りを受けるとは考えないでしょう。貴人の怨霊を御霊として区別し、祟りを恐れ、お祀り申し上げるといった信仰が平安時代にはありましたが、誰でも祟ることができるとは、考えませんでした。

さらに、同じ一般書から、祟りをなすもののうち、「鬼」とは由来を区別される「精怪」について述べた箇所を引きます。


  〈精怪は鬼の一種として考えている著作もあるが、鬼とはある一点で明確に異なっている。それは、鬼はもともと人間だったわけだが、精怪はもとは人間以外の存在だったという点である。もとの物とは、動物であったり、植物であったり、あるいは器物であったりするが、それらが長い間、天地日月の精気に感応することによって、変化を来たし霊物となったものを精怪という。〉


自然霊や精霊もまた、中国と日本とで、そのイメージが違っているようです。
日本人が身近に感じてきた精霊の類については、中国では「精怪」と呼ばれ、死者の霊である「鬼」とは、明確に分けられていました。中国では、「精怪」もまた、祟りをなします。しかし、日本人にとっての精霊は、もっと身近にいて、祖霊と地続きにつながるような、親しみ深いものではなかったでしょうか。たとえば、現代になっても、針、鞠、筆、人形の供養がなされますが、それは祟りを恐れてというよりも、愛用した事物への哀惜の所作でしょう。


出雲路修氏は『説話集の世界』において、仏教伝来ののち、死後の世界観の展開がまだ希薄であった時代、その萌芽の古例に、山上憶良の歌を挙げ、次のように述べます。


  〈たとえば、《万葉集》巻五・九〇五「わかければ 道行き知らじまひはせむ したへの使 おひてとほらせ」は、「まひ」「したへの使」といった、中国の志怪小説の世界では普通であるが当時の日本においてはかえって孤立した〈冥界游行〉伝承を歌う。志怪小説の世界を念頭においての詠歌である。〉(『説話集の世界』[「よみがへり」考]出雲路修著〈岩波書店〉)
  
〈八世紀初頭における中国志怪小説との接触が、一方では《万葉集巻五・九〇五》の歌を生み出し、一方では在来の〈蘇生〉説話を〈冥界游行〉説話へと変貌させたのではなかったか。〉


引用中の和歌の大意は、「まだ幼いのであの世への行き方も知らないだろうから、贈り物はしましょう。あの世からの使いよ、この子を背負って、連れていってやってください。」となります。わが子の死を悲しむ父親になり代わって、詠まれた歌です。
あの世の使いに贈り物をするのは、祟りや障りを恐れるからではなく、苦しい旅路とならないよう、配慮をくれてやってほしいからでしょう。親としてよくよくのことをしてやらなければ気が済まなくてそうするのであって、贈り物をする理由を、祟りを封じるためと受け取ってしまったら、和歌として成り立ちません。和歌は、愛の世界をうたうものです。「まひ」が、愛の世界の所作となる点で、大陸との違いが決定的です。


出雲路氏は、この和歌によって、在来の〈蘇生〉説話が〈冥界游行〉説話と変貌したのはいつ頃かを探り、死後の世界観がこの国の言葉の世界に注入され始めた時期を推し量りました。すなわち『万葉集』の頃、仏教が、国教として浸透するようになり、それまでに希薄だった死後の世界観もまた、具体的に示されるようになってきたのです。

『万葉集』の、他の和歌を見てみましょう。「新日本古典文学大系」(岩波書店)の『万葉集』(校注:佐竹昭広氏、山田英雄氏、工藤力男氏、大谷雅夫氏、山崎福之氏)から作品を引用し、大意については、校注を参考に付しました。読みやすくする目的で、漢字表記を仮名にした箇所があります。


  〈117 ますらをや片恋せむと嘆けどもしこのますらをなほ恋ひにけり〉


舎人皇子の御製。「原文では「鬼乃益卜雄」。注記に〈「しこ」は罵りの言葉。原文「鬼」の字は、漢語「鬼」「鬼子」が罵る語に用いられることによる表記であろう。〉とあります。恋に囚われる自分自身を「ますらを」であるとしながらも、同時に「鬼(しこ)」と自虐せずにいられない。片恋が深まるにつれ、激しさを増した嘆きをうたっています。ここでの「鬼」は、心の中の想いが、みにくい化け物のようにつのってしまった自分、という意味で「しこ」の訓を当てていますが、このあとの時代では、「鬼」の字に「しこ」の訓を当てなくなっていきます。


  〈608 相思はぬ人を思ふは大寺の餓鬼のしりへに額づくごとし〉


笠女郎から大伴家持に贈った歌です。女が、男を、「餓鬼」と罵って、恋が終わろうとしています。思うように愛してくれない人を愛するのは、立派なお寺でもその仏様ではなく、餓鬼を後ろから拝むようなものだというのです。


  〈3640 寺々の女餓鬼申さく大神の男餓鬼たばりてその子はらまむ〉


詞書に〈池田朝臣の、大神朝臣奥守を嗤ひし歌一首 池田朝臣、名忘失す〉とあります。注記に〈痩せている大神奥守を「男餓鬼」と戯れた。〉とありますから、池田朝臣が痩せている大神奥守を「男餓鬼(おがき)」と呼んで、「女たちがあなたの子を産みたいと言ってるよ」などと、からかった歌のようです。

「餓鬼」は死後、餓鬼道に落ちた亡者を意味する仏教語ですが、そのままの意味に使われてはいません。いずれの歌でも、メタファーとして、人を罵ったりからかったりする言葉となっています。このように『万葉集』の時代には、大陸からやってきた仏教語が、身近に浸透していたことをうかがわせます。

和歌ではありませんが、特に見ておきたいのは、巻五の、896番と897番のあいだに挟まれた題詞「沈痾自哀文」です。
山上憶良最晩年の作で、病苦を嘆きます。
形式は、全体に七つの連で構成され、本文と憶良自身によるごく散文的な注記を含みます。ここで取り上げるのは、その⑴⑷⑸⑺の連から、本文のみの抄出です。冒頭の連番は、出典が七つの連を⑴~⑺の連番で示したことに従い、注記については、大意のほうに反映しました。


(1) 〈窃かに以みるに、朝夕に山野に佃食する者すら、猶し災害なくして、世を度ることを得。〉〈況や、我胎生より今日に迄るまで、自ら修善の志有りて、曾て作悪の心なきや。〉〈この 所以に三宝を礼拝して、日として勤めずといふことなく、百神を敬重して、夜として闕くること有ること鮮し。〉〈嗟乎媿しきかも。我何の罪を犯してか、この重疾に遭へる。〉


大意 ひそかに思いみるに、一日中慎むことなく山野で狩りをして生き物を殺している人ですら、災害にも遭わずに生きていくことができる。生まれてこのかた、善行をしたいと思うことはあっても、悪事をはたらこうと思ったことなぞ、これまで私にあっただろうか、いや、ない。仏法僧の三宝を礼拝し、神々を敬い尊ぶこと、夜でも欠かさなかった。ああ、それなのになんと恥ずかしい。私が何の罪を犯したというのか。こんなにつらい病気にかかるなんて。


⑷ 〈命根既に尽き、その天年を終ふるすら、尚し哀しと為す。〉〈何に況や、生録未だ半ばならずして、鬼の為に枉げて殺され、顔色壮年にして、病の為に横に困めらるる者や。世に在る大患、敦かこれより甚しからむ。〉


大意 生命力がすでに尽き、天寿を全うするときですら、それでも死ぬのは哀しいと人は思うものだ。それなのに、本来の寿命をまだ半分も生きられず、鬼のために理不尽に殺され、病気のためにこれでもかと苦しめられる者は、どれほど哀しいだろうか。これにまさる苦しみが、この世にあるだろうか。


⑸ 〈抱朴子に曰く、「神農云はく、[百病癒えざれば、安ぞ長生を得むや。]」といふ。帛公略説に曰く、「伏して思ひ自ら励ますに、この長生を以てす。生は貪るべし。死は畏るべし」といふ。天地の大徳を生と曰ふ。故に死人は生鼠に及ばず。〉〈遊仙窟に曰く、「九泉の下の人は、一銭にだも直らじ」といふ。〉〈孔子曰く、「これを天に受けて、変易すべからざるものは形なり。これを命に受けて、請益すべからざるものは寿なり」といふ。〉〈故に生の極めて貴く、命の至りて重きを知る。言はむと欲ひて言窮まる。何を以てかこれを言はむ。〉


大意 「[もろもろの病気が治らなくて、長生きできるはずがない]と神農にある」と抱朴子がいう。帛公略説には「ひそかに自らを励ますときに、長生きしようと思っている。貪欲に生を求めるべきで、死ぬことは恐れるべきだ。」とある。天地の偉大な徳が生だ。ゆえに死んでしまえば生きているネズミにも劣るのだ。遊仙窟には、「あの世にいってしまった人には一銭の値打ちもあるまい」とある。孔子がいう。「天から授かって変えようのないものが人の姿かたちである。天命として授かって、もっと続けさせてくださいと請願できないものが寿命である」と。ゆえに生がきわめて貴く、命がまことに重要なものであると知る。このことを言葉で表したいのに、言葉に詰まってしまう。どうすれば言葉にできるだろうか。


⑺ 〈若しそれ、群生品類、皆尽くることある身を以て並びに窮りなき命を求めずといふこと莫し。この所以に、道人方士、自ら丹経を負ひて、名山に入りて、薬を合はするは、性を養ひ神を怡びしめて、以て長生を求む。〉〈帛公また曰く、「生は好き物なり。死は悪しき物なり」といふ。〉〈今吾病の為に悩まされて、臥坐すること得ず。〉〈「人願へば天従ふ」といふ。如し実有れば、仰ぎて願はくは、頓にこの病を除きて、頼りて平の如くなること得むと。鼠を以て喩と為すこと、豈に愧ぢざらむや。〉


大意 そもそも生き物はどんな生き物でもいつかは死ぬ身でありながら、終わりなき命を求めずにはいられない。だからこそ、道人方士たちが、仙薬の処方を記した書巻を背負い、名山に入って薬を調合するのは、性を養い心神をよろこばせることで長生きしようというのである。また帛公に、「生はよいもので、死はわるいものだ。」とある。今、私は病気に悩まされて、寝ているのも座っているのもつらくてできない。「人が願えば天は従う」といわれる。もし本当なら、天を仰いでお願い申し上げます。ただちにこの病気を取り除いて、健康な体に戻してくださいと。ネズミをたとえに出したのは、恥ずかしいことでした。

(1)のように、「沈痾自哀文」は、不殺生戒への「窃か」な疑問に始まります。狩猟採集、殺生を生業とする人々ですら、健康に一生を遂げられるというのに、自分は、欠かさず経をよみ三宝を礼拝するという信仰生活を実行してきた。それなのになぜ、病気にかかって苦しむのかと。そして、⑸の『抱朴子』は、道教の教典として著された前仏教時代の漢籍(次章)、『遊仙窟』は唐代の伝奇小説。『帛公略説』が未詳ですが、校注者は、「死人は生鼠に及ばず」の部分を、引用ではなく作者自身の言葉であると解しています。この解に従うと、憶良は、「人間だって、死んでしまったら生きているネズミ以下だ」と、天に唾するように言い切ったことになります。そして、⑺の結びの部分では、一転して天を仰ぎ願い、いますぐ健康な体に戻してください、さきほどのネズミのたとえを恥じいるので、と殊勝です。この起伏の激しさは、居ても立ってもいられぬ病苦のゆえでしょう。

結びの部分に示されている憶良の本望、真の願いは、病の癒えることでした。仏教による「死後の世界観」の注入があったとしても、生命の根源にある瀬戸際の価値観が、どうであったかということ。この作品は、仏教の教えを受け入れ順いながらも、生きとし生ける者の本心をあらわにしているでしょう。

そして、「沈痾自哀文」にでてくる「鬼」は、本来の寿命をねじ曲げてでも生命を奪う鬼、死神です。

『万葉集』に出てきた「鬼」を、いったん、次のようにまとめておきます。


・「しこ」と訓じ、「鬼」は、心の中の想いが、みにくい化け物のようにつのってしまった自分。
・餓鬼。もとは死後、餓鬼道に落ちた亡者を意味する仏教語だが、ここでは人物や人々への嘲り、からかいのメタファー。あるいは、人の姿形の特徴をたとえていう。
・本来の寿命をねじ曲げてでも生命を奪う死神。


仏教は、中国に仏教が入ってくる以前の中国の世界観(道教など)を残したまま、日本に伝来しましたが、日本的には、大陸から伝来の「鬼」が、そのもの「死者の霊」であることをほとんど拒絶しているのです。
日本で「鬼」と「死者の霊」は、別のものです。

大陸と違って、死霊は祟るものではなくて、惜しむものだと、私たちの祖先は考えたのです。ですから、「鬼」の字の、祟るものだというネガティブな意味合いに、日本の古代社会において排除対象を意味した「おに」という和語が、くっついたのかもしれません。

そして、万葉の時代よりあと、死後の世界は、日本においても具体的に描かれるようになります。
その死後の世界で、日本における「死者の霊」たちが「鬼」の姿ではないとしたら、いったい、どのような姿をしていたのでしょうか。






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