歌人・辰巳泰子の公式ブログ

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ただ一つの花

2018-08-18 05:59:04 | 日常
連歌連句の正式は、百吟、つまり百句。半歌仙は最小単位の、わずか十八句という略式ですので、花はこの一か所、しかも、花といえば、正花でなければならないそうです。正花(せいか、まさばな)とは、正(まさ)しく花、桜を示すものでなければならず、桜と言ってしまっては花にならず、花というからには、それが何かを説明してはならない。花というのみに、桜の外の何物でもない、そのような花でなければならないと、芭蕉の説くのを読みました。
「花」とは、古来から美の象徴です。
 和歌から短歌一三〇〇年。連歌から連句六〇〇年。俳諧から俳句三〇〇年。美を象徴するところの「花」が、後年に至るほどに、観念の謂、作法や工夫の謂として語られるようになったとしても、古人が、実景の、実在の、そのものの花から離れて「花」を感じていたと、私には、とうてい思われないのです。
 実際の花は、自分で環境を選べません。与えられた環境で、必死に咲くしかないのです。花に言葉はなく、何一つ理屈をこねません。しかし、その生命の働きは、すべて理に適っています。咲くときも、咲かないときも、すべてが道理。
 見上げてもそこに咲き、俯いてもそこに咲いているものが、花。見る人を選んで勿体をつけることもありません。
 連歌の影響を受けて世阿弥は、著名な文言を残しています。
 「秘すれば花」……それは、果たして、あからさまにしてはつまらないという意味でしょうか。私たちの多くは、目を開いているのに見ていない。人事にとらわれ、そのもののありざまを、見ていないのではないか。私には、世阿弥の言葉がこう聴こえます。
 「つべこべ言うな。そのものを観て分かれよ」と。
 「時分の花」とは、ひととき開き、萎れていく器官の営みそのもの。「まことの花」とは、花の咲く日を支える、根も葉も土中の虫の役割も含めた、生命活動のすべてを指していると思うのです。人の生き方になぞらえれば、環境を与える見えないものの愛を、自分自身を取り巻く世界を、感じられる心にあると思うのです。
 やり過ごした歳月を、別のことに使っていたら、また別のことを言えたかもしれません。そうして、ただ一事に打ち込む時間には、他のすべてを失います。生命は、一人に一つしか持つことを許されず、取り戻すことができないのです。
 だからこそ、お茶を濁していられない。
 花になりたい。まことの花に。

(「月鞠」第18号連句レポートより)

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