歌人・辰巳泰子の公式ブログ

2019年4月1日以降、こちらが公式ページとなります。旧の公式ホームページはプロバイダのサービスが終了します。

執着しない事

2022-10-31 11:58:10 | 日常
元紀さん、きのうのイベント、代わりにご観覧くださって、本当にありがとうございました。
感想までくださって、行き届いたご対応に深く御礼申し上げます。
元紀さんがくださった感想。


《……声は若々しい艶めきと張りを保ち
南米を中心としたさまざまな歌を聴かせてくれました。
ギターの腕も素晴らしく、「マシュ・ケ・ナダ」などとても興奮いたしました。
他の二人の演奏も合せて、新しい世界に出会ふことができました。》

やはり、誹謗中傷の影響を受けない方とのご縁がよろしいですね。

それから、誹謗中傷した人も、おなじ人間なのだから、心を直してほしいです。
素晴らしい面をお持ちだと思うのですね。
わるい面がこちらに向かっただけでね。

誠実そのものの人間関係に支えられております。
こちら被害者なのに、誹謗中傷されるような人という無根拠かつ一方的なお疑いで、態度の変わってしまう人については、残念だけれども、執着しないのがいいと思っています。

無根拠すぎて、弁明すらとっかかりが無い、それほどに不毛なのに、誹謗中傷のほうが気になる人に、心の目など、ありませんね。

心の目は、誠実であればおのずと備わり、備わるからこそ苦しくもなるけれど、まぁ、持ってない人は、あらゆる意味で、世間が気になってしかたがないでしょうね。

自分のすべきことに、邁進しますね。

辰巳泰子拝




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心の目

2022-10-29 20:15:02 | 日常
あらためまして。元紀さん、ありがとう。

心の目が開いていたら、初めから、こんなことにはならないのだよなぁと、ひとの気持ち、見えるはずだよなぁと、思うことがあって、
あなたに話したら、あなたは、本当に、すぐにわかって、すぐに対応してくれました。

通じるひとがいてくれて良かった。
経緯も飲み込んでくれて。

感謝でいっぱい。

なんべんでも書きたいぐらい。

本当に、ありがとう。




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お弁当づくり その2

2022-10-20 06:22:38 | 日常

近況のご報告。



月曜のお弁当。豚生姜ピーマン焼、ブリ照り、人参コンソメ炊き、うずら煮玉子。白いごはん。葉唐昆布、梅干、つぼ漬けは、市販品。



火曜のお弁当。豚ヒレ肉の赤ワイン煮込み。鶏団子とシメジ、人参、玉ねぎの味噌炊き。ブロッコリのコンソメ炊き。白いごはん。梅干、葉唐昆布、つぼ漬けは、市販品。




水曜のお弁当。二段重ね牛めし。豚ソーセージとピーマン、シメジ、人参、玉ねぎの蒸し焼き。プチトマト。ゆかりごはん。葉唐昆布と梅干は市販品。




木曜のお弁当。竹籠に、左から、韓国海苔フレークと高菜バター混ぜごはんに大根の味噌漬けを包んだおにぎり、梅干混ぜごはんのおにぎり、高菜バターごはんに葉唐昆布を包んだおにぎり。どれも持ちやすいよう日本海苔で巻きました。一口おかずは、プチトマト、買ってきた鶏天。


お弁当づくりはたのしいので、ふつうに続けられるのですが、写真撮るのがとっても苦手。ほどほどにしますね。

多感なひとと暮らしているので、平和とは言いかねますが、こんな感じでやってます。




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お弁当づくり

2022-10-14 05:50:21 | 日常

新生活サポート中。お弁当づくりに励んでいます。




ある日のお弁当。ブロッコリと人参スープ煮はきのうと同じ。ハンバーグは玉ねぎとチーズでグラタン風にまとめて味変。ゴボウと人参と椎茸とあぶらげの煮付。雑穀入りごはん。梅干と練梅の梅ダブル。仕上げは、ごはんの上に刻んだ海苔をパラリ。




ある日のお弁当。鮭とネギのそぼろ。牛ではなくてラム焼肉そぼろ。味玉。万願寺とうがらしのオリーブ醤油焼。鮭は、自分で焼いてほぐしたけれど、瓶詰め買えばラクでしたね……。瓶詰めは、保存料が入っているのと、思うような味、食感にできないのが不自由な点。ただ手作りは、どうしても小骨が残るので、悩ましい。




そして、こちらが、きょうのお弁当。鶏胸肉を、ヨーグルトではなくて塩麹に漬けてから、ケイジャンシーズニングのタンドリーチキン。あぶらげと小松菜の煮付。人参きんぴらのレモンと白胡麻和え。ごはんは、ゴボウと人参と椎茸の火薬ごはん。葉唐昆布、梅干。鶏胸肉は、調理前に、塩麹に漬けておくとやわらかくなります。



お弁当は、高校生の頃に持たせて以来。当時は、揚げ物が喜ばれたけれど、今はもう……。

そうなのです。今はもう誰もいない秋の海を、必死に泳ぐような、遅咲きの日々の始まりにいるのでした。

そろそろ肩の力を抜いて、短歌のことも、やらなければね。
この土日は、原稿を書かなければですし。

暗いうちから起きたので、これから二度寝したいなぁ……。なんやかや、朝戸出の手伝いがあるかもしれないけれど。

走り去る日々よ、安らかなれ。



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自家製リキュール

2022-10-09 20:42:11 | 日常
そろそろ、五月雨の頃、いただきものの梅の実で漬けた梅酒が仕上がってき、新生活の祝杯をあげました。大好評につき、自家製リキュールの第2弾を仕込みました。ブランデーで、紅玉を漬けます。氷砂糖はまだ溶けきっていませんが、写真の真ん中が、紅玉のお酒。両端が、仕上がったばかりの梅酒。ダークラムに漬けました。



紅玉のお酒は、ウオッカに漬けこんだのをシナモンスティックで香りづけのバージョンをこしらえたいのですが、始めようかな、どうしようかな。それとも別な果実にしようか。まだ様子見。ラ・フランスにも惹かれています。



上の写真が、グラスに注いだダークラム梅酒。

じつは、夏の間じゅう、床作りに手をかけ、ぬか漬けに夢中でした。ひと夏で、胡瓜と人参それぞれ百本は、漬けては食べ……していたのですが、暑さで、部屋に匂いがいつもこもって、とうとう、家族に飽きられてしまいました。

私はぬか漬けに未練たらたらなのですが、嫌われたなら、しょうがない。いったん処分しました。それで、お正月用のリキュール作りの充実に、方針転換したのです。

ではでは。

無聊にまかせての投稿でした。





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わが喫煙

2022-10-09 16:38:46 | 日常
きのう、元紀さんに、「たばこ辞めました」とメールしたのに、きょう、くじけました。

私の喫煙歴は、20代半ばの、上京する前後の頃から。
無添加たばこ、アメスピ1mgのをふかすだけで、肺まで吸い込まない喫い方。

お仕事を始めるときの、もう一つの薬物、コーヒーと緊密に結びついて、たばこ無しのコーヒー、コーヒー無しのたばこ、考えられない。

たばこ、妊娠授乳中は、苦もなくサヨナラできました。
体調がよくないときは、欲しくなりません。
新幹線は禁煙席。
飲食店でも、欲しくなりません。
コロナで、ワクチン接種の前後にも、経過観察の不安要素をなくしたいので、
ひと月ばかり禁煙したのですが、
節煙や禁煙を思うようにできても、もうこれからずっとサヨナラが、できないのですね……。

8月の終わり頃から、逆流性食道炎がひどくなり、よくなったりわるくなったりしながら、お薬に副作用があるようですし、もう、どうしようって感じで。

私の主訴は、悪心です。ほとんどメンタルの病。

ひどい間、たばこを辞めていて、このまま辞められそうに思ったのになぁ。

小紋さんが酒、たばこ、食道がんで亡くなっており、私はなんとかそこを逃れたいのですが、悪戦苦闘しています。

ひらきなおってないだけ、ま、いっか。

コーヒーのときにありさえすればよく、コーヒーは、たいてい日中しか飲まないから、コーヒーのときだけにする!……と、きょうのところは、決めました。

自分で決めて守れなくても、意志薄弱どうこうという、人間性ジャッジ、人格ジャッジをしないほうです。

誰に対しても。

だってね、たいてい、他人の人格ジャッジをするひとは、そもそも他人の人格も自分の人格も、ジャッジできるほど見てもおらず、見識も無しに自分の憂さ晴らしを正義の建前でいたしたいという皆さんなので、それこそ人格どうよ、と思いつつ不問とする私の優しさと孤独は、深遠なるモカ・コーヒーの酸味を、鼻孔において淡麗の甘みに感じさせる装置である無添加たばこ1mgの1本においてしか、慰撫することは困難なのでした……。




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鬼さんノートその1(読書ノート『鬼の研究』馬場あき子著)

2022-10-02 12:24:47 | 月鞠の会
このノートは、対象書籍の要約ではありません。読書しながら、私自身が感じたことや着想を、順次、追記していきます。


1
「はじめに」を書いて、ふと思ったのですが、押しくらまんじゅうなどの子供の遊びの中の鬼は、『鬼の研究』の対象となっていません。ここを、私自身の独自の視点とすることが可能だと思いました。ただしかし、子供の遊びの中の鬼を、それ自体研究するのは、至難のわざで、専門家にまかせます。敷衍するときに、自分の視点を添えられればいいと思います。


2
以下、ツイッターからの転記を、少しずつ直し中の記事。

馬場あき子はいう。カミもオニも身を隠すものであったと。後年、オニは隠れなくなったと。隠れなくなったところから、カミとオニが分離していったと。平安末まで、「鬼」の字は、「もの」とも読まれ、それはつまり、物の怪の意味を含んだと。

であれば、鬼には、そもそも、もともとヒトではないオニと、もとはヒトだったオニがいたということになる。

馬場さんは、カミからかけ離れていく、まさしくオニについて、身を隠さず、あるいは進んで自己顕示し、その狂暴性をさらけ出すことにカミでもモノでもない、まさしくオニを見ておられる。そのまさしくオニは、やはり、もともとヒトであったほうのオニではなかろうかと、私は思う。

なぜまさしくオニが、凶暴性をさらけ出して自己顕示するのか。それは、オニになる前のヒトが、おなじヒトであるがゆえにヒトの世間と何らかのつながりを持っていたために、世間にアピールするのではないか。カミであっても、モノであっても、それがもともとヒトでないなら、ヒトの世間にアピールしたくなるほどの業はなかろうし、隠れているのは、業を作らぬためでありましょう。

普通の人ののぞみは、自分がオニにされないことと、オニとコミットしないことである。オニをわざわざ退治しようとするのは、オニとすでにコミットし、その必要を感じた人であって、無関係なのに、つまりコミットしないのに、オニ退治に乗り出すというのは、普通の人は、しない。では、誰が、当事者でもないのに、正義のために、オニを退治しようとするのか。

昔話の一つに、困っている都の人のために、地方からわざわざ徴兵されて、鬼を退治するという、金太郎伝説がある。金太郎伝説自体は、とても古くからあるのだが、後代、この説話が、中世以降の武家社会の価値観を如実に示すものとなっていくことをとらえておきたい。端午の節句、その武者人形のモデルが金太郎に由来するまで、現代の庶民にも定着したオニ退治の話である。しかし、よく考えれば、不自然な話なのだ。昔話の荒唐無稽さは、その混沌にかえってリアリティを感じさせるものが多いのに、現代に残る金太郎伝説は、その中心が、子供がマサカリを常に担いでいることの不自然さが薪割りのためであると、どこかしら、言い訳めいていたり、源頼光による、いわば徴兵に我が子を差し出すことを手本とするような、ヒトの世間の描写にあって、御伽草子に見られる、大江山の鬼の所業の生々しさは、金太郎をヒーローとして描くときには、希薄となる。昔話の一つの型が、正義の御旗をふりかざした、侵略戦争を正当化するための型ではなかったかという一つの疑念が、ここでもたげはしまいか。大江山の鬼は、金太郎が退治のための軍に加わったとされるのだが、いまに伝わる金太郎伝説として、その鬼の具体は、御伽草子のそれのようには、如実には描かれない。私は日本霊異記の鬼も、ぬえも、大江山の鬼も、実在のヒトや獣に由来したと考える。原文のリアリティに、圧倒されるからだ。そして説話は、時代に合わせて形を変えていく。金太郎伝説が、武家社会の男児養育の手本となってゆくプロセスで、金太郎が退治に加わったとされる大江山の鬼の生々しさが、薄められて伝承するのは、なぜか。いずれにせよ、金太郎伝説は、徴兵制度の刷り込みを作りやすい構造、戦争を美化しやすい構造を持っていたはずである。

金太郎のオニ退治を正当化するのであれば、それがいかなる凶悪なオニであるかを描いた、御伽草子の生々しい描写を残したほうが、口実を得やすいにもかかわらず、その部分が具体的でなくなったのは、戦争から生々しさを抜きとって、正義のためという綺麗事に仕立てる作為であると私は考えている。

馬場あき子さんが研究したオニに、これは含まれません。しかし私は、このことが、随分前から気になっており、いずれにせよ、現代にもっとも浸透したオニ退治の説話、金太郎伝説で、本来、最大の見せ場であったはずの、大江山の鬼の存在感が薄められていることが、どんなことよりも気になる。

裏を返せば、古典のオニは、戦争の仮想敵として、いかようにも印象操作を受けうるということ。


3
超越者と逸脱者! もともとヒトでないオニは、カミないしはモノ。超越者であろう。対して、もとはヒトであったオニは、逸脱者。ヒトからオニになるとき、それは、ヒトであるゆえ、超越ではありえない。世間からの逸脱である。ただしかし、超越者に扮することはできる。身を隠すというかたちで……。『鬼の研究』の冒頭部にある、女と鬼を考察したいくつかのエピソードに、それは示される。

古典のオニとしては、超越者としてのオニ、逸脱者としてのオニ、もう一つは、戦争美化のための仮想敵として、印象操作されたオニの3つを、考えておく必要がある。


4
馬場あき子さんは、鬼を描いて、鬼と対話している。馬場あき子『鬼の研究』の世界は、あき子と鬼の、一対一だ。逆にいえば、世間の猥雑さは捨象されている。馬場あき子は、鬼を苦しめる世間を、鬼の前から取り除いたのである。これほどの手柄があろうか。

私は、何をなすべきか。オニと世間は表裏一体。それは、異質なものは価値が低いとみなして止まない価値観。ある者が、自ら異質でありながら、その異質さを謙遜という名の卑下自虐において封印しないとき、これをオニの価値観に照らした場合、もとより異質であることによって価値が低いうえに、自身の価値の低さを自覚せず開陳する、この不届き者!……ということになる。異質なひとが、誹謗中傷やイジメを受けやすいカラクリの一つは、こういうことである。言うまでもないことですが、オニの価値観は、個人の資質ではなく、あくまでも、価値観。この価値観を共有する世間では、世の中のあらゆるイジメが正当化されているはずです。こういうことなら、私は書ける。世間に、変わっていってもらいますよと、私は思っているから。


5 こちらの読書ノート、まったく途中になってしまっており、ひと月以上も中断しました。このノートは、もっと以前から書くことを決めていたものですが、1~4を書くまでのあいだ、小難あって心乱れ、体調も崩しました。それら、11月5日現在、何かと収まりましたので、記事タイトル「鬼さんノート つづき」に、このつづきを書きますね。







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はじめに

2022-10-02 10:06:35 | 月鞠の会

私はこれから、馬場あき子さん『鬼の研究』を読んでいきます。後でまとめやすいように、ツイッターやブログに着想を書き留めながら進めるかもしれません。これまでもそうしてきました。

私は大変怖がりなもので、映画を観てはいないのですが、宇崎竜童さんが、凶悪犯を演じておられます。その映画のテーマ曲は、「ハッシャバイ・シーガル」です。宇崎さんは、政治発言こそしないけれど、凶悪犯の役どころを引き受けられたところからも、テーマ曲からも、宇崎さんのイデオロギーがしかと受け取れます。普通の人が、疲れ切った状態で追い詰められたらどうなるかということは、人権思想が、初めに措定するところです。

私は、自分を含め、誰でもそうなりうるからこそ、世間のありようが変わっていかなければならないと考えているほうです。混沌のまま放置されることは、最もあってはならないことですが、厳罰だけでは解決しないと私は思います。

いちばん危険なのは、自分だけは大丈夫と考えてしまうことだと思います。それは、自分は常に正しいという前提を持ってしまっていますよね。自分は、自分たちこそは常に正しいという世間こそが、異質なものを許さない、イジメの温床ですから。押しくらまんじゅうという遊びがあります。あの遊び、誰が押したということはわからない。しかし、押された誰かが、その中に入っていなければならないとされる規範のメタファーから逸脱し、鬼となり、規範の中にいる集団から鬼の代わりを見つけようとして、自分はただ、鬼とされることから逃れたいがために、世間を脅かすことになります。……つまり、自分だけは大丈夫でいたい人たちが集まって、押しくらまんじゅうのように、鬼さんや、鬼さんの犠牲者を生んでいく世間が、あっちにもこっちにもあるのが、実際の世の中だと思います。

私は物心ついたときから、周りの子供たちとは異質で、混ざるのもイヤでした。したいこと、好きなことが、まるっきり違っていたのです。小学生の頃、魂を吸い取られそうに読んだのが、聖書や古典、詩歌でした。聖書を取り上げられて、ドッジボールに混ぜられる苦痛、遊びについて行かされることが、地獄の苦しみでした。遊びの輪は残酷で、必ずイジメが始まりました。

古典というと十二単を連想する人が多そうです。母方の先祖が、いわゆる女房として京都御所に出仕しておりましたから、その世界が血のつながりのなかに、あることはあるのですが、私が選んだバッグボーンは、生まれ育った混沌の十三のほうでした。むしろ、そちらに目を向けるのでなければ、いったい、何が高貴でありましょうか。血縁、地縁をひいて、自分を飾り立てるだけのスノッブという人種に混ざるのも、苦痛なのです。貧民窟で、励ましあって生きる絆を自分で築けることのほうが、大切でした。

もとからの考えを初めに書きました。この記事もまた、「月鞠」第21号の草稿です。ずっと前から、書く予定だったことを書くので、最近の見聞も体験も関係ありません。外部サイトに投稿した際、記名欄に自分のブログリンクを貼ったのを、自己宣伝ととらえる向きがあったのですが、騙り被害防止です。名を騙る人にもリンクは貼れますが、手続きが、ちょっとめんどくさいので、ハードルにはなると考えています。

ツイッターもそうですが、ブログは、私の仕事のなかでも、自由研究を仕事らしいものにしていくためのツールなので、そのなかに、誰それへのあてこすりを書くとかいうことは、あり得ないです。そういう目的を持っては、仕事になりませんよね。揶揄とかあてこすりとかは、一度でもそれをすると、他人の書いたものまで、そう見えてくるでしょう。こちらの受け取り方に、そういうバイアスがかかるのを避けたいので、したためるとしたら、直言します。書いているものを、特定対象への、揶揄とかあてこすりとか、そういうふうに、疑うのはやめてほしいです。でも、そうも読めてしまうというご指摘については、これを歓迎いたします。

では、勉強に本腰を入れたいと思います。




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