歌人・辰巳泰子の公式ブログ

2019年4月1日以降、こちらが公式ページとなります。旧の公式ホームページはプロバイダのサービスが終了します。

冷たいサラダと朝顔菜

2012-07-30 10:51:31 | 日常
あづいにょ~
おもわず、無言になってしまう、暑さです。



胡瓜は少し、塩もみしてあります。
オクラは、刻まず、明太子とマヨネーズの和えたのをちょちょいと付けて、ガブリ。
全部冷やしてあったので、自分でいうのもなんだけど、美味しい!



空心菜を、朝顔菜というそうな。
豚こまと炒めました。
炒めものの隠し味には、断然、腐乳がほしいけど、近所のお店で取扱いがなくなり、切らして久しい……。

ところで、いつだったか、地域の、あるこどもに、訊かれました。

「どうしてお年寄りは、信号が赤なのに、渡ったりするの?」

「それはね、君たちとおなじ気持ちだよ。おいてけぼりにされたくなくて、慌てて解こうとするでしょう。お年寄りも、孫に叱られたくなくて、世の中についていかれないのがかなしくて、急いでしまうんだ」

……いっしょに考えよう。

この話をする直前、とても騒がしかったんです。
騒がしいとき、静かにしなさいと呼びかけるより、ひきつける話をしてまとめていくのが、自分は、いいかな……。

それに、ちょうど、そんなときです。
こどもたちのほうから、鋭い問いが、放たれるのは。

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槿

2012-07-22 22:53:09 | 日常
一年で、いちばん、暑いときがやってきました。
雨も降ります、台風もきます。



だけど、いつも、魂は、こんなふうに寄り添って、咲いていたいです。
朝な夕な、お疲れ様でしたと……。

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「月鞠」12号、傷の手当て

2012-07-20 04:12:20 | 日常
ご賛助の方のぶん、ご購読の方のぶんを、このように手当てさせていただき、送付し直します。



この写真は、きれいに見えますが、実際は、生々しく不細工な手作業です。
見栄えのしないものですが、危急を要件とおもうので、ご賛助、ご購読の方へは、このようにさせていただきます。

その他、寄贈先の皆さんへは、また、ご賛助の皆様へも、13号発行のとき、刷り直したものを同封させていただきます。

刷り直したうえ送り直しは、考えられないとおもっていましたし、寄贈先については、差し替えページだけ送るなど、あり得ないとおもっていました。
前者は、制作費プラス送料と、経費がかかりすぎますし、後者は、送りつけて手数を増やすのは、もってのほかという想いからです。

しかし、刷り直したものを13号に同封という形でなら、制作費だけで済みます。
また、このことが年を越さないよう、13号は、年内発行を目指したく、そのうえ、13号は、また懲りずに、小説作品を発表するつもりでいます。

お許しをいただきたくおもいます。

また当座、「歌論五」本文は、こちらをご笑覧いただきたく。

なにとぞよろしくお願いいたします。

それから、窪田さん!
すぐのご連絡を、ありがとう。
応急の手当てがかないました。

わたしは、幸せ者です。

辰巳泰子拝

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「月鞠」12号のお詫びと訂正

2012-07-19 23:44:43 | 日常
本日、午後10時30分、窪田さんからご連絡をいただいて、「月鞠」12号の「歌論」に、大きな誤りがあるとわかりました。

2ページ目に該当すべき内容が飛び、おなじ本文が2ページ続いています。
落丁ではなく、面付のとき、自分の手元で発生したミスです。

謹んでお詫び申し上げます。

こちらをもちまして、活字の内容を訂正および代替させていただきますこと、お許しください。

辰巳泰子拝


…………………………………………


●歌論五   命令形の優しさ

紫陽花が、濃く色づいています。今年は、梅雨も台風も同時にきて、「野分」という言葉の季節感も、失われつつあるようです。
さて、短歌作品はずっと、歴史的かな遣い(旧かな)を用い、書いてきましたが、この夏、六冊目の歌集「いっしょにお茶を」を、沖積舎から上梓するにあたり、自作における表記のあり方を、改めることとしました。 他誌への寄稿含め、媒体の手をとおるものについては、今後、一般に使用されている現代かな遣い(新かな)を用いることにします。制作から発表へ至る手数の多さや、「古めかしい」といった印象からなる読者の敬遠を、防ぐためです。ただし、本誌や制作の場(ウェブ上)では、従来どおり、旧かなを使っていくことにします。そして、アンソロジーに収める場合に、前歌集「セイレーン」(邑書林)以前の作品を、新かなに改めることはしません。「セイレーン」以前の作品は、どれも、旧かなの使用を前提として制作されたものですから。

 細りゆく乳房をそつとわしづかみ 眠つてしまふ 眠つてしまへ
   (「セイレーン」)

「セイレーン」を上梓する頃には、作品中に口語を使うことが増え、旧かな表記では、違和感を覚えることが多くなってきました。ただ、巻頭に置きたかったこの歌を、そのままにしておくために、新かなの使用を見送ったのでした。旧かなは、命令形にしたとき、優しいのです。「眠ってしまえ」では、この歌は、台無しです。
まず、わたしは、実作者が手をこまねいて、語彙を減らすべきでないと考えています。みやびでない言葉を歌のなかに登場させ、詩形を揺さぶるのは、試みられるべきことですし、新しさを求めるあまり、古典語を敬遠してしまうのも、また、どうかと思うのです。
現状、若い作者のほとんどが、新かなを使用し、旧かなの使用者は、ほぼ、中高年に限られるでしょう。こうした世代差が、どこからくるかといえば、作者本人が、短歌に接するようになった時点で、かな遣いの新旧、どちらが主流であったかにより、媒体で活躍する表現者のほとんどが、新かな使用の昨今、初心の人は、ごく自然に、新かなでの表記を選ぶのでしょう。
わたしは、旧かなの魅力にひかれて、旧かなを選んだ一人でした。
戦後、新かな表記こそが、民主主義に生まれ変わった国家の文学にふさわしいと考える人が、多かったと聞きます。アメリカの主導による戦後改革を必ずしもよしとせず、使い分けはいっさいしないで、韻文も散文も、旧かなでとおすべきとする考えも聞きました。いずれにせよ、年号が昭和から平成に移ろう九〇年頃まで、こうした歴史的背景を、歌人であれば踏まえるべきと考える人が、多くありました。
しかし、もとから、かな遣い自体、制度の象徴として、存在したのでしょうか。漢字から万葉仮名が生まれ、平安時代には、宮廷の女性たちを中心に、広く使われるようになり、当時、公文書の表記は、かな(仮名)ではなく、漢字(真名)でした。かな文字は、規範をむしろ、意識せずにいられるものでした。中世では、促音の表記に、小さなカタカナも交じって、明治に入り、藤原定家の時代のかな遣いが、規範として示されるまで、むしろ、自由なものだったのではないでしょうか。
一方、新かな表記のルールは、初めから、規範を示す目的、「正しい使い方」を広める目的で、作られています。漢字の字体統一も、同様でした。戦後、七十年近く経ったいまは、どうでしょうか。教育の現場では、いわゆる「検定」を受けるようしきりに奨めますし、戦後教育は、戦後教育として、規範に則るよう求めてきたといえます。そのようにして、広くゆきわたらせ、万人に共有されるメリットを持った新かなですが、全体主義的な不自由さもまた、潜ませています。
とはいえ、短歌を作り始めた頃のわたしは、まだ中学生で、このような歴史的背景など、知るよしもなく、ただ、旧かなを美しいと思ったから、旧かなで、短歌を書き始めたのでした。こうした動機を持つ者にとり、基準からの距離感……つまり、適切か、不適切かといった話は、ばかげて聞こえました。いかに基準を定めようと、正しく、便利で、適切で、しかし魅力のない表現のほうが、多いのですから。
しかし、歌作が、手すさびでなく、表現者の自覚のもとになされる場面にきて、先人を知らずにいられるものではありません。ことは、表記に限りません。たとえば、与謝野晶子。昭和世代の人は、晶子について、愛と激情の生々しい歌を書いた歌人として周知していますが、二〇一〇年までのゆとり教育下、小学校高学年の子供たちは、日露の反戦詩を書いた歌人として、国語の時間に、まず習っています。しかし晶子は、太平洋戦争のときには、大政翼賛歌を書いています。どうしてでしょう。わたし自身の関心は、晶子の真の考えがどちらであったか、また、矛盾した両極をもって、人柄まで推し量ろうとするところにはありません。晶子とて、すべては、自分と、自分の作品を生き残らせるために、あっただろうと思うのです。世の中が移ろうなかで、どうすれば発言しつづけてゆけるか、作品を遺してゆけるか。いまのわたしたちが、直面しているのも、まさにそこで、やはり、実作者の誰もが、歴史ということに、無関心ではいられないでしょう。
実作に、話題を戻します。
現代語を使用し、旧かなで書くと、いろいろとややこしい場面に遭遇します。以下は、本誌からの引用です。

 喧噪の静まりたればいさかひはニュースとなりて人ひとり逝く
   窪田政男(第八号)

 おばちやんがスパツツ履くと芸人の長州小力に似てる…ゴメンネ
   吉崎あかり(第十二号)

窪田さんは、「ニュース」を、新かなと同様に表記しています。しかし、吉崎さんは、「スパッツ」を「スパツツ」と、旧かなのルールにのっとります。外来語は新かなルールでいくか、外来語も旧かなルールに沿うか。外来語については、作者が自分で決めてよく、どちらも通用した表し方です。他にも、旧かな表記にそぐわない言葉があるとき、「」などの符号で括り、そこだけ新かなを使ったり、悩みそうなら、漢字表記にしたり。かな遣いとは離れますが、「蛍」という漢字があります。拙著「紅い花」(砂子屋書房)では「螢」と旧字。まだ、原稿を、誰もが手書きにしていた時代。手書きの時代には、特に意識されない、その人なりの書き癖が、用字、送りがなにも表れていましたが、以来、二十数年。ワープロで変換しやすい文字や言葉に、押し流されていった表記、表現があるかと思います。
次に、旧かなの魅力について、見ていきましょう。

 来年の夏のふたりの不確実 黄色のあはきチュニックを買ふ
   真狩浪子(第九号)

わたしたちは、まず、文字を、目で見ます。それから音を、実際に声に出したり、黙読でも、味わうときには再生したりして読みます。味わった場合、「ふたり」「ふかくじつ」「あはき」「かふ」と、ハ行音が響き合い、「あわき」「買う」とした場合より、その効果は高まるでしょう。見ために期待するのは内容がない、本質的でないという人があります。そういう意見の人は、食事を召し上がるとき、栄養価だけをお考えでしょうか。たしかに、表記に、質実はありません。味というほどの味ですらなく、香りのようなものですが、栄養を、サプリメントで摂る時代だからこそ、香りを味わう食事を、覚えておきたいものです。 また、わたしたちは、便利であれば、それを使います。不便になっても、愛着があれば、折り合いをつけて付き合おうとします。そして、愛着する人がなくなれば、捨てられるのが道具というもの。旧かなは、古道具のようなものかもしれませんが、この古道具でなければ表せない、言葉や思いもまた、あるのです。

 しやぼん玉のなかにゐしやう綴ぢられて夢にまた逢ふしぐさ細かし
   (第十二号)

本誌の百首歌から、自作を引用しました。「ゐしやう」を新かなにした場合、「いしよう」となります。「ゐし」は、動詞「ゐる」に、過去の助動詞「き」が連用形となって続いたものですが、「ゐし」だとその意味がすぐ分かります。しかし、「いし」ですと、「石」「意志」など、無関係なものを想起させ、読後に、違和感が残ります。無関係なものの想起、映像でいうサブリミナルの効果として、おもしろい場合がありますが、ここでは、邪魔でしかありません。この部分を、どうしても新かなで表記するなら、そっくり、現代語に変えなければなりません。すると、自然、古典語を使用する機会は減ります。使わなければ、どうなるでしょう。わたしたちは、その言葉を忘れていくでしょう。現代語の文脈でしか、制作できなくなった作者は、「心ばへ」をを、いかに表現していくのでしょう。
広く共有される道具の強みは、もちろん、無視できないものですが、使う側が感性を貧しくしてはいないか、神経を、研ぎ澄ましておきたいもの。
この稿を書くにあたり、そもそも、旧かなで書かれたものに触れた、いちばん初めは何であったか、思い出していました。それは、「太陽」(平凡社)という、七〇年代当時、月刊の雑誌でした。「太陽」に組まれた、近代詩歌の特集に、わたしは、夢中になったのでした。小学校の四、五年生でした。「太陽」は、母が営む喫茶店に置かれてあり、十三の自宅から、喫茶店のある三国まで、踏切を越え、工場地帯を過ぎ、徒歩三、四キロも歩いて、日参したのでした。デルモンテのトマトジュースを片手に、「太陽」をひらくために。表記がどう、修辞がどうといった、書き手の意識を持ったのは、もっと理知がはたらくようになってからで、その頃、つまり、説明する言葉を獲得する以前、魅入られてしまっていては、その以後に、何をどう語ろうとも、後付です。歴史を意識するようになったのは、さらにその後。あげつらうのは、気おくれがします。
ですから、なるべくなら多くは語らず、心を奪われた一つ一つのものごと、子供の足で、あの道のりを、おのずから歩かされた事実を示しおくだけにするのが、誠実ではないかと、内心、思ったり。
最後に、新かな表記の歌集、「いっしょにお茶を」から、かな遣いを改めてよかったといえる作品を挙げておきます。

 「紙をこう、あ、でもそこまでしはらへんわなぁ」うまく光れぬ蛍に言いぬ
 嫌われた赤みのつよきひともとをわたしは好きでいよう紫陽花
                                        (辰巳泰子)

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晴天

2012-07-18 12:40:41 | 日常
梅雨が明けましたね。

窪田さんから、梅雨明けの前の日、素敵な贈り物をいただいていたのに、気づいたのがさっきでした。



黄色いダリア。
寝そべって撮らはったでしょ。

この広い空は、わたし一人の空でないから、美しいと感じています。

ありがとうございます。

ところで、以下に、12号の会計報告と、11号会計報告の訂正をさせていただきます。

《賛助会員各位》

11号は、項目の金額を合計するとき、計算を間違っていました。
お手数ですが、項目の金額はそのままで、お手元でお直しください。

《皆さまへ》

12号から、会計報告を公開にします。(残高は、非公開。会員のみ知りうる)

12号の支出は、

印刷製本 30500
配送郵送 20690
文具・コピーなど 1000(概算)
交通費 1180
――――――――――――――
合計 53370

「月鞠」は、結社誌。
所期に頂戴したカンパのおかげで、やや黒字です。
会費を高いと感じています。
会員が、10名を超えれば、会費を半分にできるのですが、10名を超えると、事務処理を継続的にお手伝いいただける体制がいり、悩ましいところにいます。

他からの引き抜きなどは、一切、考えずにきました。
お金のことと、勧誘、この2点は、他から誤解されることのないようにしたいと考えています。
歌会も、まだ一度しかおこなっていませんし、皆さんには、発表の機会を数多く持たれるよう、お勧めしています。

人との出会いは、縁のもので、機の熟すのを待ちたくおもいます。

辰巳泰子拝

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善意

2012-07-18 05:52:45 | 日常
かつて、わたしに、全身全霊の善意を、はたらいてくれる人が、ありました……。
多く、そのとき素直に受け取れず、また、その人に、お返しできないので、わたしも、善意をはたらかせるときは、全身全霊でありたいとおもっています。

いつもおもうのは、叩いた扉がひらくとは限らないってこと。

一度も叩かない扉がひらいて、あずかりしらぬところで、いつのまにか、物事が、運ばれている。
のぞんだとおりに。

そのときに、自分が関係したかしないかは、問題ではない。

善意って、そういうものだ。

運ばれて、素直によろこんでいると、「あんたが影響したとでもおもってるのか、おもいあがるな」って、いう人が、現われる。

善意って、そういうものだ。

報われないとき、「あの人は、才能と時間を無駄に使っている」と、陰で非難される。

善意って、そういうものだ。

さらにいえるのは、善意は、素直に受け取れるひとが、いちばん、えらい。

施すひとではなく。

そうなれなかったことが、自分を前に、進ませたのだなと、おもってる。

「月鞠」12号が、きょう、発送されます。

わたし一人のちからでないことが、しみじみ、うれしい。

皆さんのおかげ。

ありがとうございます。

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泰子の涙

2012-07-17 04:50:10 | 日常
脱原発集会は、17万人が集まったとか。
署名が、投票につながるなら、うれしい……。

大江健三郎さん、坂本龍一さん。
それだけの人気と知見があるなら、事故が起きる前から、呼びかけていてほしかった。

原発作業に従事する人たちの住宅が、放火に遭っています。
原発は、稼働しなくても、廃炉までには、番人がいります。
福島では、事故処理にあたった作業員が、何人も急死なさっています。
東電は、これらの人々の通夜葬儀は、本社の正社員のにしか、参列しないそうです。

17万人。

それだけの人が集まりながら、がれきの受け入れが、進まない。

どうして。

がれきの受け入れを呼びかけてください。

落合恵子さんなら、呼びかけてくれはるでしょうか。

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根性の事

2012-07-14 23:07:11 | 日常
46歳。これから何がある。



照り翳り、日むらもありますが、自分で勉強するようになってきました。
でも、まだまだ、道険し。
めげそうでしたが、ふと思えば、生活習慣にしていくという、かつての自分のことばどおりに、してるなぁって。

世の中への批判をたくさん書いていますが……どうすればいいと思うかを、方法について、望む未来について、必ず、書いています。
心がけていることです。

子供をいじめから守ろうとするおとなは、はっきりいって、自分が、傷つくだけです。

子供は、時勢に敏感ですから、自分さえよくなれば、強きにつきますし、それを、裏切られたとおもう人は、教師には、向いていません。

ずるくていいというひらきなおりは、やはり、教えないほうがいいです。
綺麗ごとは、教師の、つくべき嘘。
やがて、ことだまになります。

そして、ほんとに騙されていたら、だめですが、騙されていても、気づかないふりを、し続けていられる根性が、いります。
綺麗ごとを、ことだまに、していくために。

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目覚め

2012-07-11 13:42:37 | 日常


わたし寝てたんだけど、家の人に起こされました。
「寝てるとこ、ごめんなさい」と前置き。

先に動かれるの、何か月ぶり。

倒れてからこちら、いま初めて、何日の何時からはこう、と、自分の予定を告げてくれて、ああ、自分の人生を、取り戻してきたんやなって。

検定の勉強も、もう、一人でできるということでした。

まずは、「月鞠」12号の遅れを、お詫びします。
すでに出来しているのに、お届けできていません。

写真は、ダリア。
芯が、真紅。
時計草といっしょに、撮りました。

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あやしい気休め

2012-07-11 02:42:01 | 日常
あやしい気休め……。

石さん編みです。

以前にもはまったのですが、そのときは、必死の災難よけに、お数珠として編み始めたのが、きっかけでした。だんだん、デザインするのがたのしくなってき、これ以上石を買うと、お小遣いが持たないので、中断。

余った石で、ママ友に編むようになったのをきっかけに、また、ちょこちょこ、いまは、必死にはなっていず、気休めに編んでいます。



プラスチック、ガラスだと、癒し効果、半減。
なぜって、石さんは、どれも組成が違い、触れて温かかったり、冷たかったり、硬かったり、やわらかかったりするのです。

目に美しく、触れて個性豊か。
でもここまでは、自分で編まなくても、感じられること。

自分で編んでこそ、実感されるのは、法則性。

ひとそれぞれ、違う手首のサイズが勺になり、半径4ミリ、6ミリ、8ミリといった玉を並べ、最後に結わえます。

個数だと、3、1、1、1……
大きさと種類に分けての配列だと、AAABCBDADBCBAAA……

3、11、3、11、3、などという数字の並びになるときも。
決まった勺に、あたらしい数列を発見したときは、得もいわれぬ快感。
6と素数が好き。
6と素数で決まると、うまくいった気がします。

この話のどこが、あやしいかって、数字の並びに快感を覚えるのは、一種のフェティシズムだからでございます。

この快感は、算数で、答えを合わせるのとは、また違ったもので……。
数字の哲学と申しましょうか。

そういえば、古代のカバラ哲学や、その昔、流行した、アキストゼネコも、名前の母音を1~5の段に分けて占うのでした。

いつも思うことですが、物事がうまく運ぶときには、数列が美しい。

どの石に、どんなまじない効果が……ということを言い出すと、精神世界にはまってしまうので、それは、いまは、書きませんね。

正直、石言葉というのは、信じていないです。
写真の組み合わせだと、見たとおり、かわいらしさを増す感じ、ということで、ええとおもう。

しかし、石言葉は、迷信であるとしても、見た感じが柔和でも、組み合わせの難しい石というのもあって、まるで、石にも、人柄が、あるよう。

自分でデザインして、編んでみなければ、それも、わからないこと。

ちなみに、写真のは、アメジスト、ラベンダーアメジスト、インカローズ、水晶。
インカローズはやわらかい石。
入手先は、吉祥寺のユザワヤという、全然あやしくない場所でした。

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