歌人・辰巳泰子の公式ブログ

2019年4月1日以降、こちらが公式ページとなります。旧の公式ホームページはプロバイダのサービスが終了します。

寄贈先の皆様へ、ご入金の皆様へ

2022-07-10 21:34:55 | 月鞠の会
寄贈先の皆様、ご入金の皆様へ、こちらのブログにて、現在の状況として、告知させていただきたいことがございます。

まず、皆様からの日頃のご厚情に、深く感謝申し上げます。

「月鞠」は、結社誌です。
ここで、書き手として刺激を受けたり育っていってくれる人が、一人でも多くいればうれしいと考えておりますが、
お原稿が存在しないご送金につきましては、ご入門ということではなく、運営のためのカンパ金として、受け取らせていただいております。

「月鞠」の送付は、もとより、見本誌としての寄贈がほとんどで、送りつけて代金を支払えということは一切ございません。
それにまた、送付につきましては、現在は、ご購読という契約の形態をとっておらず、見本誌を随時の寄贈という形で、させていただいております。
奥付には、ご講読についての記載がございますが、書店に置かせていただく場合や、文学フリーマーケットなどへの出品の可能性をも考えて、ご購読についての記載を残しております。

これまで、個人の方への送付は、短歌をなさいます方は、ご高齢の方が多いこともあってか、ご購読のお申し込みをお忘れになられて、もしくは、意識の回復しないご病気になられて、ご親族がその方のご趣味が短歌であることをご存知でなかったため、送付へのご苦情をいただくことが稀にはございました。

不定期刊ということもあり、金銭トラブルを避けるためにも、見本誌は当方により、随時、寄贈にて送付させていただき、ご入金は、運営のためのカンパ金として拝受すると、このようにさせていただくことにいたしました。

つまり、ご送金の対価としての送付、後ほど対価請求をさせていただく送付は、一切しないということです。
ご承知おきいただければ、幸いです。

ひきつづきのご愛顧を賜りますよう、何とぞよろしくお願い申し上げます。


2022年7月10日

辰巳泰子拝

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

次号予告

2022-07-04 22:05:33 | 月鞠の会
「月鞠」第20号の発行日は6月12日。
無事出来し、見本誌の寄贈もおおかた済みました。

20号の内容は、次のとおり。

辰巳泰子
歌論「『新古今和歌集』――恋の正体」
百首歌「あしたの私よ」

佐藤元紀
歌論「透玉」――『新古今和歌集』恋歌私見」
二十首歌「旦夕」

サンタ(石川実)
小説「灰屋」

私の歌論「『新古今和歌集』――恋の正体」は、400字詰換算でおよそ100枚。
佐藤元紀さんの歌論「透玉」――『新古今和歌集』恋歌私見」は、およそ20枚。
サンタ(石川実)さんの「灰屋」は、時代物の短編小説で、およそ20枚。

初めは、自分のは、元紀さんやサンタさんと同じ紙幅で、つまり20枚ぐらいで、多分恥ずかしい自分の思い込みをサササッと書いてしまえという調子でいたのです。
書き始めたら、やはり推論を積み重ねる体にしたいと思うようになり、それからが、大変でした。
ツイッターにまず混沌と書きつけ、ここのブログで草稿を投稿し、また直したものを投稿し……。途中経過をご覧になっていた方は、さぞハラハラなさったことでしょう。

論考として書くのは、これが初めてです。研究者に笑われるようなことを書いているのかもしれないと思うと、胸が張り裂けそうですが、それはきっと、年齢を重ねてから短歌の実作を始めた皆さんと、同じ気持ちでしょう。

私の書いたことが、息苦しい時代や境遇のにんげんの真実に寄り添うものとなっているのであれば、そのことばかりは、歌の神様は認めてくださると確信しています。

さて、「鬼の正体」として、続編を準備中です。「定家十体」に「拉鬼体」(「毎月抄」では「鬼拉の体」)という謎の歌体があり、これについて書こうとしています。

元紀さんとそれぞれのあり方でアプローチをかけますが、私のほうは、「鬼」という言葉に、古代から現代にかけて、人々がどのような意味をこめたのかを見ていこうとしています。

「定家十体」では、天神御製とし、菅原道真の歌を「拉鬼体」に取り上げています。しかも、同じものを天神御製として「新古今和歌集」にも取り上げています。定家は、晩年の「小倉百人一首」にも、菅原道真の歌を取り上げていますから、思い入れがあったのではないかと見ています。

菅原道真は、本当は、「古今和歌集」のスター歌人であったはずの人です。しかし、「古今和歌集」には、たったニ首しか入集していません。政敵に貶められ、無実の罪で太宰府に流され、没してわずかニ年後に編まれたのが「古今和歌集」でした。

私は、定家は、「古今和歌集」のなし得なかった怨霊の鎮魂を、「新古今和歌集」で成し遂げようとしたのではないかと考えているのです。「目に見えぬ鬼神」の鎮魂です。情念をとことん掬いとるのであれば、物質には滅びの美を見、霊魂不滅の哲学に立つのであれば、怨霊の情念までもキャッチアップできなければ嘘だと、思い詰めて同僚を燭でぶん殴ったほどの激情のひとは考えたであろうし、道真の気持ちもわかった気がします。

まだ資料にあたる段階ですので、方向性が変わるかもしれませんが、この独りゆく夜道で、私のうえにも、お月様が明るいのです。

そうして次号、第21号は、三年もかけずに、なんとか来年じゅうには発行したいものです。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする