三 超自然の鬼から実体を持つ鬼へ(仮題)
⑷ 『今昔物語集』の鬼説話を事件簿として読む
「事件簿として読む」とは、作中事実どうしの関係を中心に、さまざまな可能性を考慮しながら読んでいくという意味です。
まず、さまざまな可能性の、典型例を挙げておきます。
△27-12「於朱雀院、被取袋菓子語」。よく気をつけていたのに、菓子(果物)の入った容器(竹籠などの)を預かり、届ける途中で中身の菓子だけを盗られていたという話です。このお話は締め括りに、盗人がやったことなら少しを盗って、盗った痕があるだろう、跡形もなく丸ごと消えてしまっているからには鬼のしわざなのだ……という趣旨の文脈を成しています。しかし、注意深く読めば、どの時点のものを預かったかといえば、容器です。持ち運びをする者が、その容器のなかに菓子を容れるところを見たとまでは書かれていません。つまり、容器の中には、初めから何も入っていなかったかもしれません。
これなど、誰も盗った者などいない可能性、事件ごと捏造された可能性が高く、鬼のしわざと決めつけられていれば、私たちは、なるほどそうかと思って読むしかありません。
次に挙げる5件はどうでしょう。
△27-15「産女行南山科、値鬼逃語」。赤ん坊を見て、食べてしまいたいほど愛くるしいと感じるのはごく一般的な感じ方で、父無し子を密かに産んだ女のうしろめたさから、親切な老女を鬼と疑った可能性が高いだろうと思うのです。
△27-16「正親大夫、□(欠字)若時値鬼語」。あいびき中のカップルが、そこを廃屋と思いこまされていただけで、実際、落ちぶれ果てた貴族の棲みかだったかもしれないのです。このような場所で落ち合う二人は、道ならぬ恋でしょう。女はその後、病気になり、廃屋に棲む鬼が祟ったように暗示されていますが、女は、人目をはばかるうしろめたさから、病んでいったのかもしれないのです。
△27-8「於内裏松原、鬼、成人形噉女語」。女が、人気のない場所へ、誘われて男についていったら、なかなか戻ってこない。女は、手と足ばかりが離れてそこにある、殺された状態で発見されました。若い女の体がバラバラにされて、全部が見つからない。文字どおり、獣肉を得るようにその肉を得ることが目的で女に近づき、一部を持ち去っていても、不思議ではありません。まじないと加持祈祷で解決する、非科学の時代です。禁断の肉食祭祀が古代よりありました。若い女の人肉に薬効を期待したり呪術的な意味合いを付したりしても、なんの不思議もないでしょう。
△27-9「参官朝庁弁、為鬼被噉語」。下級官僚が、勤務中に殺害されるという恐ろしい事件が発生しました。自分が殺害されるに至った経緯が現場に書き遺されていたとありますが、読者にその内容は明示されません。
○27-17「東人、宿川原院被取妻語」。京見物に上ってきた旅の夫婦の妻が、廃屋に寝泊まりするところ、手が伸びて来て妻を捕らえ、扉が開かなくなりました。妻は、発見されたときには外傷もなく死んでいました。鬼のしわざとされる不審死ですが、超自然現象でしょうか。
じつは、これらの5件のすべてに、人気のない不案内な場所への立ち入りが戒められています。
邪悪な鬼が超自然の鬼であるとした場合、その悪行を封じるのは神仏の験力でありましょう。そのとき教訓は、神仏をいっそう敬い恐れよと呼びかけるでしょう。しかし、これらの説話では、「人気のない場所へは立ち入るな」と、人々に、主体的で具体的な実行策をとるよう呼びかけています。防御策の呼びかけが、神秘主義に拠らないのは、これらの説話に出現した鬼が、超自然の鬼ではなく現実の人間である可能性を、『今昔物語集』の編纂者が、見ていたからでありましょう。
超自然の霊験譚として収められている説話にも、微妙なものがあります。
●17-43「籠鞍馬寺遁羅刹鬼難僧語」には、鞍馬寺に籠っていた修行僧が、女の鬼に襲われ、毘沙門天を念じ奉ると、その霊験で鬼の上に倒木、夜が明けて鬼の死を確認したと記されます。しかし、超自然の鬼の死を、確認できたりするものでしょうか。それは、確認できる死体があったということ。つまり、人間だったかもしれないのです。校注によると、本文中にある〈「此レ只ノ女ニ非ジ。鬼也メリ」ト疑ヒテ〉は、出典には無い描写。少なくとも『今昔物語集』では、近づいてきた女を鬼と疑って、先に攻撃を仕掛けたのは僧なのでした。鬼の死体は人間の女の死体であったと示唆したかったのかもしれません。
出典からの改変ということでは、次の2件も気になります。
△20-37「耽財、娘為鬼被噉悔語」の出典は、『日本霊異記』の中巻33縁。出典では、殺害された娘が主体となって、その「過去の怨」の報として殺害されたと説明しています。『今昔物語集』では、題名が「たからにふけりて、むすめをおにのためにくはれてくいること」となっているように、親の物欲が原因となって、その娘を殺害されるという、親が主体の因果応報として説明しています。娘にも親にも、悪根といえるほどの悪業を見出だせないからこそ、このように相違するのであって、両書とも、本説話を仏教説話と仕立てながらも、殺されるほどの因果関係を説明しきれていないのでした。この説話で超自然的に感じられるのは、財物が獣骨に変わり果てていたくだりです。しかし、翌朝まで車に乗せたままだったのだから、よく見ていなかったことがわかります。つまり、犯人は、初めから獣骨だったのを財物のように見せかけていたと、とらえることができます。
×27-7「在原業平中将女被噉鬼語」の出典は、『伊勢物語』第6段。出典では、〈鬼一口に食ひてけり。〉と表現しつつも、そのすぐ後で、女は〈二条の后の、いとこの女御の御もとに、仕うまつるやうにてゐ給へりける〉、実在の姫君であり、その姫君が追手によって連れ戻されたことを鬼というのだと種明かしをします。『今昔物語集』でも、在原業平と題名に示すうえは、鬼の出現などなかったことは自明でありましょう。しかし『今昔物語集』では、次のような描写が付与されます。〈女ノ頭ノ限ト着タリケル衣共許(ばかり)残タリ。〉、そして人気のない不案内な場所への立ち入りを戒めるのです。こうしたあえての改変に、人気のない場所、荒れ果てた場所がどれほどに危険か、訴えているのでしょう。そのような場所での残虐な殺害事件が当時には横行していたと、思わせるふしがあります。
恐ろしい目に遭うのは、なぜかということ。非常に驚いたことやどうしようもないことを、鬼のしわざと考えようとした痕跡が、今昔では、自覚的に見られます。
そして私は、このように感じます。『今昔物語集』では、鬼と人間の境目が、とても紛らわしいと。
たとえば、鬼と老いの紛らわしさは、現代人にとっても同じようなものかもしれません。
○27-22「漁師母、成鬼擬噉女語」では、兄弟が猟をしているときに、突然木の上から手が伸びてき、髻をとって引き上げようとしました。兄弟は、これを鬼のしわざと思ってその腕を射切りました。家に戻ると、足腰も立たなくなっていた老母がうめいており、なんとその鬼は老母だったのでした。老母は、腕を切られて我が子につかみかかり、まもなく亡くなります。『今昔物語集』では、あまりにも年老いると鬼になると結んでいます。
現代でも、足腰が弱っているのに突然行方がわからなくなり、とんでもない遠い場所で発見されるお年寄りの数は、無くなりません。穏やかな気性で生涯を過ごしてきた人が、年老いて、我が子につかみかかる暴力性を発揮するというのも、世間一般に聴かれる話です。そして、他人の身の上であれば、よくあることと冷ややかに見て、自分だけはなるまい、健康でありたいと、人間ですから、願ってしまいます。
この老母は、いまでいう認知症の進んだ状態であったことでしょう。
『今昔物語集』は、このような老いの姿が、特に珍しくはないことがわかっていながら、鬼と呼ばわります。老いに直面する世代の読者は、これを、他人事ではないと感受するでしょう。
鬼と人間は、ある意味での凄まじさにおいて、しばしば、逆転します。
○20-7「染殿后、為天宮、被嬈乱語」では、染殿后にはげしい愛欲心を起こした聖が、いきなり腰にしがみついて、后をレイプしようとしました。聖は投獄されてから、入滅し鬼となる決意をします。究極の修法を使うことで願いを果たそうと考えたのです。その願いはかない、聖は愛欲の鬼となって后のもとに通い、后を虜にします。
この説話の教訓は、女は法師に近づいてはいけないというものです。しかし、女から聖に近づいたという展開は、どこにもありません。なぜ、ストーリーと食い違う教訓が添えられているのでしょう。
愛欲を遂げるために聖は、段階的になってゆきます。邪魔立てするものは容赦なく呪い殺しました。その迷いのなさが直線的で、まさしく鬼の恐ろしさではありますが、男の愛欲の、純粋さということでもあるでしょう。
その一方で、染殿后の内面は、一切描かれていないのです。その前振りとして、物の怪の憑きやすさが示されます。鬼が現れ性技が始まれば、どこででも、公衆の面前であっても、スイッチを押したら歓喜に悶えて、スイッチを切ったら何事も無かったように安寧へと戻っていくのです。后に、恋の道をゆく者の慚愧はありません。投獄され、鬼となった聖でさえ、自死において慚愧を表現しているというのに、后には、それが無い。この種の切り替えが異常視されないのは、日常を保つために必要だからでしょうか。ふつうの女って、じつは鬼より凄まじいのだと思わされます。だとすれば、論を俟たずに女は入るなという禁忌の素朴さは、いたましさでもあるでしょう。
さらに、鬼と人間の紛らわしさについて、○27-13「近江国安義橋鬼、噉人語」を見ていきます。
若い男たちの、勇ましいのが集まって、遊びつつ酒を飲みながら、安義橋には鬼が出るらしいぞと噂をしていました。鬼なぞいるものか、それなら俺が渡ってみせようと深くも思わず言い出して、その場で争いになり、男は、橋を渡ることになってしまいました。鬼は、橋の上で、妖艶な美女となって現れます。男は、その美女に魅かれてやみませんが、なんとかかかわらずに通り過ぎようとしたところ、美女は、恐ろしい鬼の姿になり、男は一目散に逃げました。しかし、男はすでに取り憑かれていました。その後、鬼は、男の弟に姿を化身して物忌を破らせ、男の家に入り込みました。男は、それが弟ではなく鬼と気づいて、鬼と上になり下になり、組み伏せ合います。男は妻に「枕許の太刀を取ってくれと頼みます。しかし妻の目には、その弟と男がじゃれ合っているようにしか見えず、取り合わずにいると、鬼が、男の首をふっと切り落としました。鬼は、うれしいという表情をして妻のほうを見返ります。そのとき、橋の上で追いかけてきたときの鬼の顔をしていたというのです。
教訓では、無用の争いから、勢いで橋へ向かったことを戒めています。
確かにそもそも、橋を渡ったりしなければ、鬼には遭わなかったでしょう。しかし、この鬼には、不思議があります。この鬼は、人間であり、現代でいうストーカーであったとして、なんの不思議もないのですが、男をこうまで執拗に狙う人間らしい理由が、見当たりません。唯一、男を仕留めて「うれしい」という表情をしたことを手がかりにすると、この鬼が求めたものは、支配しきることへの達成感でしょう。自分の領分である橋の上で、何もかも自分の思ったとおりに男を完全に魅了でき、自分の思ったとおりに男を奪えていたら、この執着心は、生まれなかったでしょう。いわば、男が逃げたから、鬼は、こうまでにする執着心を持ったのでしょう。
この鬼は、逃げられたことで男に執着心を持ち、その弟に化け、男を殺害し、その妻の心までを完膚なきまでに痛めつけ、男から、何もかもを奪いきったのです。
私はこの鬼が、もともと美女の姿をしていたということから、女性性のある一面について、誇張しつつ示唆しているといっていいように思います。
ここまでに、鬼とはいっても、もとは人間であった(であろう)鬼について、それぞれの説話を読みました。
そして、鬼と人間の境目の紛らわしさについても考えました。
〈実ノ鬼ナラムニハ、其ノ庭(その場)ニモ後也トモ平カニハ有ナムヤ。〉ーーでくわしたものが鬼であるなら、後々までただでは済まされない。
後年、世阿弥が「物まね条々」で、鬼とはとてつもなく恐ろしいものだという定義づけをしました。
『今昔物語集』の鬼には、その同時代の表現のなかの「鬼」には、その意味合いが、含まれていると見るべきでしょう。
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⑷ 『今昔物語集』の鬼説話を事件簿として読む
「事件簿として読む」とは、作中事実どうしの関係を中心に、さまざまな可能性を考慮しながら読んでいくという意味です。
まず、さまざまな可能性の、典型例を挙げておきます。
△27-12「於朱雀院、被取袋菓子語」。よく気をつけていたのに、菓子(果物)の入った容器(竹籠などの)を預かり、届ける途中で中身の菓子だけを盗られていたという話です。このお話は締め括りに、盗人がやったことなら少しを盗って、盗った痕があるだろう、跡形もなく丸ごと消えてしまっているからには鬼のしわざなのだ……という趣旨の文脈を成しています。しかし、注意深く読めば、どの時点のものを預かったかといえば、容器です。持ち運びをする者が、その容器のなかに菓子を容れるところを見たとまでは書かれていません。つまり、容器の中には、初めから何も入っていなかったかもしれません。
これなど、誰も盗った者などいない可能性、事件ごと捏造された可能性が高く、鬼のしわざと決めつけられていれば、私たちは、なるほどそうかと思って読むしかありません。
次に挙げる5件はどうでしょう。
△27-15「産女行南山科、値鬼逃語」。赤ん坊を見て、食べてしまいたいほど愛くるしいと感じるのはごく一般的な感じ方で、父無し子を密かに産んだ女のうしろめたさから、親切な老女を鬼と疑った可能性が高いだろうと思うのです。
△27-16「正親大夫、□(欠字)若時値鬼語」。あいびき中のカップルが、そこを廃屋と思いこまされていただけで、実際、落ちぶれ果てた貴族の棲みかだったかもしれないのです。このような場所で落ち合う二人は、道ならぬ恋でしょう。女はその後、病気になり、廃屋に棲む鬼が祟ったように暗示されていますが、女は、人目をはばかるうしろめたさから、病んでいったのかもしれないのです。
△27-8「於内裏松原、鬼、成人形噉女語」。女が、人気のない場所へ、誘われて男についていったら、なかなか戻ってこない。女は、手と足ばかりが離れてそこにある、殺された状態で発見されました。若い女の体がバラバラにされて、全部が見つからない。文字どおり、獣肉を得るようにその肉を得ることが目的で女に近づき、一部を持ち去っていても、不思議ではありません。まじないと加持祈祷で解決する、非科学の時代です。禁断の肉食祭祀が古代よりありました。若い女の人肉に薬効を期待したり呪術的な意味合いを付したりしても、なんの不思議もないでしょう。
△27-9「参官朝庁弁、為鬼被噉語」。下級官僚が、勤務中に殺害されるという恐ろしい事件が発生しました。自分が殺害されるに至った経緯が現場に書き遺されていたとありますが、読者にその内容は明示されません。
○27-17「東人、宿川原院被取妻語」。京見物に上ってきた旅の夫婦の妻が、廃屋に寝泊まりするところ、手が伸びて来て妻を捕らえ、扉が開かなくなりました。妻は、発見されたときには外傷もなく死んでいました。鬼のしわざとされる不審死ですが、超自然現象でしょうか。
じつは、これらの5件のすべてに、人気のない不案内な場所への立ち入りが戒められています。
邪悪な鬼が超自然の鬼であるとした場合、その悪行を封じるのは神仏の験力でありましょう。そのとき教訓は、神仏をいっそう敬い恐れよと呼びかけるでしょう。しかし、これらの説話では、「人気のない場所へは立ち入るな」と、人々に、主体的で具体的な実行策をとるよう呼びかけています。防御策の呼びかけが、神秘主義に拠らないのは、これらの説話に出現した鬼が、超自然の鬼ではなく現実の人間である可能性を、『今昔物語集』の編纂者が、見ていたからでありましょう。
超自然の霊験譚として収められている説話にも、微妙なものがあります。
●17-43「籠鞍馬寺遁羅刹鬼難僧語」には、鞍馬寺に籠っていた修行僧が、女の鬼に襲われ、毘沙門天を念じ奉ると、その霊験で鬼の上に倒木、夜が明けて鬼の死を確認したと記されます。しかし、超自然の鬼の死を、確認できたりするものでしょうか。それは、確認できる死体があったということ。つまり、人間だったかもしれないのです。校注によると、本文中にある〈「此レ只ノ女ニ非ジ。鬼也メリ」ト疑ヒテ〉は、出典には無い描写。少なくとも『今昔物語集』では、近づいてきた女を鬼と疑って、先に攻撃を仕掛けたのは僧なのでした。鬼の死体は人間の女の死体であったと示唆したかったのかもしれません。
出典からの改変ということでは、次の2件も気になります。
△20-37「耽財、娘為鬼被噉悔語」の出典は、『日本霊異記』の中巻33縁。出典では、殺害された娘が主体となって、その「過去の怨」の報として殺害されたと説明しています。『今昔物語集』では、題名が「たからにふけりて、むすめをおにのためにくはれてくいること」となっているように、親の物欲が原因となって、その娘を殺害されるという、親が主体の因果応報として説明しています。娘にも親にも、悪根といえるほどの悪業を見出だせないからこそ、このように相違するのであって、両書とも、本説話を仏教説話と仕立てながらも、殺されるほどの因果関係を説明しきれていないのでした。この説話で超自然的に感じられるのは、財物が獣骨に変わり果てていたくだりです。しかし、翌朝まで車に乗せたままだったのだから、よく見ていなかったことがわかります。つまり、犯人は、初めから獣骨だったのを財物のように見せかけていたと、とらえることができます。
×27-7「在原業平中将女被噉鬼語」の出典は、『伊勢物語』第6段。出典では、〈鬼一口に食ひてけり。〉と表現しつつも、そのすぐ後で、女は〈二条の后の、いとこの女御の御もとに、仕うまつるやうにてゐ給へりける〉、実在の姫君であり、その姫君が追手によって連れ戻されたことを鬼というのだと種明かしをします。『今昔物語集』でも、在原業平と題名に示すうえは、鬼の出現などなかったことは自明でありましょう。しかし『今昔物語集』では、次のような描写が付与されます。〈女ノ頭ノ限ト着タリケル衣共許(ばかり)残タリ。〉、そして人気のない不案内な場所への立ち入りを戒めるのです。こうしたあえての改変に、人気のない場所、荒れ果てた場所がどれほどに危険か、訴えているのでしょう。そのような場所での残虐な殺害事件が当時には横行していたと、思わせるふしがあります。
恐ろしい目に遭うのは、なぜかということ。非常に驚いたことやどうしようもないことを、鬼のしわざと考えようとした痕跡が、今昔では、自覚的に見られます。
そして私は、このように感じます。『今昔物語集』では、鬼と人間の境目が、とても紛らわしいと。
たとえば、鬼と老いの紛らわしさは、現代人にとっても同じようなものかもしれません。
○27-22「漁師母、成鬼擬噉女語」では、兄弟が猟をしているときに、突然木の上から手が伸びてき、髻をとって引き上げようとしました。兄弟は、これを鬼のしわざと思ってその腕を射切りました。家に戻ると、足腰も立たなくなっていた老母がうめいており、なんとその鬼は老母だったのでした。老母は、腕を切られて我が子につかみかかり、まもなく亡くなります。『今昔物語集』では、あまりにも年老いると鬼になると結んでいます。
現代でも、足腰が弱っているのに突然行方がわからなくなり、とんでもない遠い場所で発見されるお年寄りの数は、無くなりません。穏やかな気性で生涯を過ごしてきた人が、年老いて、我が子につかみかかる暴力性を発揮するというのも、世間一般に聴かれる話です。そして、他人の身の上であれば、よくあることと冷ややかに見て、自分だけはなるまい、健康でありたいと、人間ですから、願ってしまいます。
この老母は、いまでいう認知症の進んだ状態であったことでしょう。
『今昔物語集』は、このような老いの姿が、特に珍しくはないことがわかっていながら、鬼と呼ばわります。老いに直面する世代の読者は、これを、他人事ではないと感受するでしょう。
鬼と人間は、ある意味での凄まじさにおいて、しばしば、逆転します。
○20-7「染殿后、為天宮、被嬈乱語」では、染殿后にはげしい愛欲心を起こした聖が、いきなり腰にしがみついて、后をレイプしようとしました。聖は投獄されてから、入滅し鬼となる決意をします。究極の修法を使うことで願いを果たそうと考えたのです。その願いはかない、聖は愛欲の鬼となって后のもとに通い、后を虜にします。
この説話の教訓は、女は法師に近づいてはいけないというものです。しかし、女から聖に近づいたという展開は、どこにもありません。なぜ、ストーリーと食い違う教訓が添えられているのでしょう。
愛欲を遂げるために聖は、段階的になってゆきます。邪魔立てするものは容赦なく呪い殺しました。その迷いのなさが直線的で、まさしく鬼の恐ろしさではありますが、男の愛欲の、純粋さということでもあるでしょう。
その一方で、染殿后の内面は、一切描かれていないのです。その前振りとして、物の怪の憑きやすさが示されます。鬼が現れ性技が始まれば、どこででも、公衆の面前であっても、スイッチを押したら歓喜に悶えて、スイッチを切ったら何事も無かったように安寧へと戻っていくのです。后に、恋の道をゆく者の慚愧はありません。投獄され、鬼となった聖でさえ、自死において慚愧を表現しているというのに、后には、それが無い。この種の切り替えが異常視されないのは、日常を保つために必要だからでしょうか。ふつうの女って、じつは鬼より凄まじいのだと思わされます。だとすれば、論を俟たずに女は入るなという禁忌の素朴さは、いたましさでもあるでしょう。
さらに、鬼と人間の紛らわしさについて、○27-13「近江国安義橋鬼、噉人語」を見ていきます。
若い男たちの、勇ましいのが集まって、遊びつつ酒を飲みながら、安義橋には鬼が出るらしいぞと噂をしていました。鬼なぞいるものか、それなら俺が渡ってみせようと深くも思わず言い出して、その場で争いになり、男は、橋を渡ることになってしまいました。鬼は、橋の上で、妖艶な美女となって現れます。男は、その美女に魅かれてやみませんが、なんとかかかわらずに通り過ぎようとしたところ、美女は、恐ろしい鬼の姿になり、男は一目散に逃げました。しかし、男はすでに取り憑かれていました。その後、鬼は、男の弟に姿を化身して物忌を破らせ、男の家に入り込みました。男は、それが弟ではなく鬼と気づいて、鬼と上になり下になり、組み伏せ合います。男は妻に「枕許の太刀を取ってくれと頼みます。しかし妻の目には、その弟と男がじゃれ合っているようにしか見えず、取り合わずにいると、鬼が、男の首をふっと切り落としました。鬼は、うれしいという表情をして妻のほうを見返ります。そのとき、橋の上で追いかけてきたときの鬼の顔をしていたというのです。
教訓では、無用の争いから、勢いで橋へ向かったことを戒めています。
確かにそもそも、橋を渡ったりしなければ、鬼には遭わなかったでしょう。しかし、この鬼には、不思議があります。この鬼は、人間であり、現代でいうストーカーであったとして、なんの不思議もないのですが、男をこうまで執拗に狙う人間らしい理由が、見当たりません。唯一、男を仕留めて「うれしい」という表情をしたことを手がかりにすると、この鬼が求めたものは、支配しきることへの達成感でしょう。自分の領分である橋の上で、何もかも自分の思ったとおりに男を完全に魅了でき、自分の思ったとおりに男を奪えていたら、この執着心は、生まれなかったでしょう。いわば、男が逃げたから、鬼は、こうまでにする執着心を持ったのでしょう。
この鬼は、逃げられたことで男に執着心を持ち、その弟に化け、男を殺害し、その妻の心までを完膚なきまでに痛めつけ、男から、何もかもを奪いきったのです。
私はこの鬼が、もともと美女の姿をしていたということから、女性性のある一面について、誇張しつつ示唆しているといっていいように思います。
ここまでに、鬼とはいっても、もとは人間であった(であろう)鬼について、それぞれの説話を読みました。
そして、鬼と人間の境目の紛らわしさについても考えました。
〈実ノ鬼ナラムニハ、其ノ庭(その場)ニモ後也トモ平カニハ有ナムヤ。〉ーーでくわしたものが鬼であるなら、後々までただでは済まされない。
後年、世阿弥が「物まね条々」で、鬼とはとてつもなく恐ろしいものだという定義づけをしました。
『今昔物語集』の鬼には、その同時代の表現のなかの「鬼」には、その意味合いが、含まれていると見るべきでしょう。
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