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(未定稿)鬼さん考 8

2024-07-28 20:26:35 | 月鞠の会
三 超自然の鬼から実体を持つ鬼へ(仮題)


⑷ 『今昔物語集』の鬼説話を事件簿として読む

「事件簿として読む」とは、作中事実どうしの関係を中心に、さまざまな可能性を考慮しながら読んでいくという意味です。
まず、さまざまな可能性の、典型例を挙げておきます。

△27-12「於朱雀院、被取袋菓子語」。よく気をつけていたのに、菓子(果物)の入った容器(竹籠などの)を預かり、届ける途中で中身の菓子だけを盗られていたという話です。このお話は締め括りに、盗人がやったことなら少しを盗って、盗った痕があるだろう、跡形もなく丸ごと消えてしまっているからには鬼のしわざなのだ……という趣旨の文脈を成しています。しかし、注意深く読めば、どの時点のものを預かったかといえば、容器です。持ち運びをする者が、その容器のなかに菓子を容れるところを見たとまでは書かれていません。つまり、容器の中には、初めから何も入っていなかったかもしれません。
これなど、誰も盗った者などいない可能性、事件ごと捏造された可能性が高く、鬼のしわざと決めつけられていれば、私たちは、なるほどそうかと思って読むしかありません。

次に挙げる5件はどうでしょう。

△27-15「産女行南山科、値鬼逃語」。赤ん坊を見て、食べてしまいたいほど愛くるしいと感じるのはごく一般的な感じ方で、父無し子を密かに産んだ女のうしろめたさから、親切な老女を鬼と疑った可能性が高いだろうと思うのです。
△27-16「正親大夫、□(欠字)若時値鬼語」。あいびき中のカップルが、そこを廃屋と思いこまされていただけで、実際、落ちぶれ果てた貴族の棲みかだったかもしれないのです。このような場所で落ち合う二人は、道ならぬ恋でしょう。女はその後、病気になり、廃屋に棲む鬼が祟ったように暗示されていますが、女は、人目をはばかるうしろめたさから、病んでいったのかもしれないのです。
△27-8「於内裏松原、鬼、成人形噉女語」。女が、人気のない場所へ、誘われて男についていったら、なかなか戻ってこない。女は、手と足ばかりが離れてそこにある、殺された状態で発見されました。若い女の体がバラバラにされて、全部が見つからない。文字どおり、獣肉を得るようにその肉を得ることが目的で女に近づき、一部を持ち去っていても、不思議ではありません。まじないと加持祈祷で解決する、非科学の時代です。禁断の肉食祭祀が古代よりありました。若い女の人肉に薬効を期待したり呪術的な意味合いを付したりしても、なんの不思議もないでしょう。
△27-9「参官朝庁弁、為鬼被噉語」。下級官僚が、勤務中に殺害されるという恐ろしい事件が発生しました。自分が殺害されるに至った経緯が現場に書き遺されていたとありますが、読者にその内容は明示されません。
○27-17「東人、宿川原院被取妻語」。京見物に上ってきた旅の夫婦の妻が、廃屋に寝泊まりするところ、手が伸びて来て妻を捕らえ、扉が開かなくなりました。妻は、発見されたときには外傷もなく死んでいました。鬼のしわざとされる不審死ですが、超自然現象でしょうか。
じつは、これらの5件のすべてに、人気のない不案内な場所への立ち入りが戒められています。
邪悪な鬼が超自然の鬼であるとした場合、その悪行を封じるのは神仏の験力でありましょう。そのとき教訓は、神仏をいっそう敬い恐れよと呼びかけるでしょう。しかし、これらの説話では、「人気のない場所へは立ち入るな」と、人々に、主体的で具体的な実行策をとるよう呼びかけています。防御策の呼びかけが、神秘主義に拠らないのは、これらの説話に出現した鬼が、超自然の鬼ではなく現実の人間である可能性を、『今昔物語集』の編纂者が、見ていたからでありましょう。

超自然の霊験譚として収められている説話にも、微妙なものがあります。

●17-43「籠鞍馬寺遁羅刹鬼難僧語」には、鞍馬寺に籠っていた修行僧が、女の鬼に襲われ、毘沙門天を念じ奉ると、その霊験で鬼の上に倒木、夜が明けて鬼の死を確認したと記されます。しかし、超自然の鬼の死を、確認できたりするものでしょうか。それは、確認できる死体があったということ。つまり、人間だったかもしれないのです。校注によると、本文中にある〈「此レ只ノ女ニ非ジ。鬼也メリ」ト疑ヒテ〉は、出典には無い描写。少なくとも『今昔物語集』では、近づいてきた女を鬼と疑って、先に攻撃を仕掛けたのは僧なのでした。鬼の死体は人間の女の死体であったと示唆したかったのかもしれません。

出典からの改変ということでは、次の2件も気になります。

△20-37「耽財、娘為鬼被噉悔語」の出典は、『日本霊異記』の中巻33縁。出典では、殺害された娘が主体となって、その「過去の怨」の報として殺害されたと説明しています。『今昔物語集』では、題名が「たからにふけりて、むすめをおにのためにくはれてくいること」となっているように、親の物欲が原因となって、その娘を殺害されるという、親が主体の因果応報として説明しています。娘にも親にも、悪根といえるほどの悪業を見出だせないからこそ、このように相違するのであって、両書とも、本説話を仏教説話と仕立てながらも、殺されるほどの因果関係を説明しきれていないのでした。この説話で超自然的に感じられるのは、財物が獣骨に変わり果てていたくだりです。しかし、翌朝まで車に乗せたままだったのだから、よく見ていなかったことがわかります。つまり、犯人は、初めから獣骨だったのを財物のように見せかけていたと、とらえることができます。

×27-7「在原業平中将女被噉鬼語」の出典は、『伊勢物語』第6段。出典では、〈鬼一口に食ひてけり。〉と表現しつつも、そのすぐ後で、女は〈二条の后の、いとこの女御の御もとに、仕うまつるやうにてゐ給へりける〉、実在の姫君であり、その姫君が追手によって連れ戻されたことを鬼というのだと種明かしをします。『今昔物語集』でも、在原業平と題名に示すうえは、鬼の出現などなかったことは自明でありましょう。しかし『今昔物語集』では、次のような描写が付与されます。〈女ノ頭ノ限ト着タリケル衣共許(ばかり)残タリ。〉、そして人気のない不案内な場所への立ち入りを戒めるのです。こうしたあえての改変に、人気のない場所、荒れ果てた場所がどれほどに危険か、訴えているのでしょう。そのような場所での残虐な殺害事件が当時には横行していたと、思わせるふしがあります。

恐ろしい目に遭うのは、なぜかということ。非常に驚いたことやどうしようもないことを、鬼のしわざと考えようとした痕跡が、今昔では、自覚的に見られます。

そして私は、このように感じます。『今昔物語集』では、鬼と人間の境目が、とても紛らわしいと。

たとえば、鬼と老いの紛らわしさは、現代人にとっても同じようなものかもしれません。
○27-22「漁師母、成鬼擬噉女語」では、兄弟が猟をしているときに、突然木の上から手が伸びてき、髻をとって引き上げようとしました。兄弟は、これを鬼のしわざと思ってその腕を射切りました。家に戻ると、足腰も立たなくなっていた老母がうめいており、なんとその鬼は老母だったのでした。老母は、腕を切られて我が子につかみかかり、まもなく亡くなります。『今昔物語集』では、あまりにも年老いると鬼になると結んでいます。
現代でも、足腰が弱っているのに突然行方がわからなくなり、とんでもない遠い場所で発見されるお年寄りの数は、無くなりません。穏やかな気性で生涯を過ごしてきた人が、年老いて、我が子につかみかかる暴力性を発揮するというのも、世間一般に聴かれる話です。そして、他人の身の上であれば、よくあることと冷ややかに見て、自分だけはなるまい、健康でありたいと、人間ですから、願ってしまいます。
この老母は、いまでいう認知症の進んだ状態であったことでしょう。
『今昔物語集』は、このような老いの姿が、特に珍しくはないことがわかっていながら、鬼と呼ばわります。老いに直面する世代の読者は、これを、他人事ではないと感受するでしょう。

鬼と人間は、ある意味での凄まじさにおいて、しばしば、逆転します。
○20-7「染殿后、為天宮、被嬈乱語」では、染殿后にはげしい愛欲心を起こした聖が、いきなり腰にしがみついて、后をレイプしようとしました。聖は投獄されてから、入滅し鬼となる決意をします。究極の修法を使うことで願いを果たそうと考えたのです。その願いはかない、聖は愛欲の鬼となって后のもとに通い、后を虜にします。
この説話の教訓は、女は法師に近づいてはいけないというものです。しかし、女から聖に近づいたという展開は、どこにもありません。なぜ、ストーリーと食い違う教訓が添えられているのでしょう。
愛欲を遂げるために聖は、段階的になってゆきます。邪魔立てするものは容赦なく呪い殺しました。その迷いのなさが直線的で、まさしく鬼の恐ろしさではありますが、男の愛欲の、純粋さということでもあるでしょう。
その一方で、染殿后の内面は、一切描かれていないのです。その前振りとして、物の怪の憑きやすさが示されます。鬼が現れ性技が始まれば、どこででも、公衆の面前であっても、スイッチを押したら歓喜に悶えて、スイッチを切ったら何事も無かったように安寧へと戻っていくのです。后に、恋の道をゆく者の慚愧はありません。投獄され、鬼となった聖でさえ、自死において慚愧を表現しているというのに、后には、それが無い。この種の切り替えが異常視されないのは、日常を保つために必要だからでしょうか。ふつうの女って、じつは鬼より凄まじいのだと思わされます。だとすれば、論を俟たずに女は入るなという禁忌の素朴さは、いたましさでもあるでしょう。


さらに、鬼と人間の紛らわしさについて、○27-13「近江国安義橋鬼、噉人語」を見ていきます。
若い男たちの、勇ましいのが集まって、遊びつつ酒を飲みながら、安義橋には鬼が出るらしいぞと噂をしていました。鬼なぞいるものか、それなら俺が渡ってみせようと深くも思わず言い出して、その場で争いになり、男は、橋を渡ることになってしまいました。鬼は、橋の上で、妖艶な美女となって現れます。男は、その美女に魅かれてやみませんが、なんとかかかわらずに通り過ぎようとしたところ、美女は、恐ろしい鬼の姿になり、男は一目散に逃げました。しかし、男はすでに取り憑かれていました。その後、鬼は、男の弟に姿を化身して物忌を破らせ、男の家に入り込みました。男は、それが弟ではなく鬼と気づいて、鬼と上になり下になり、組み伏せ合います。男は妻に「枕許の太刀を取ってくれと頼みます。しかし妻の目には、その弟と男がじゃれ合っているようにしか見えず、取り合わずにいると、鬼が、男の首をふっと切り落としました。鬼は、うれしいという表情をして妻のほうを見返ります。そのとき、橋の上で追いかけてきたときの鬼の顔をしていたというのです。
教訓では、無用の争いから、勢いで橋へ向かったことを戒めています。
確かにそもそも、橋を渡ったりしなければ、鬼には遭わなかったでしょう。しかし、この鬼には、不思議があります。この鬼は、人間であり、現代でいうストーカーであったとして、なんの不思議もないのですが、男をこうまで執拗に狙う人間らしい理由が、見当たりません。唯一、男を仕留めて「うれしい」という表情をしたことを手がかりにすると、この鬼が求めたものは、支配しきることへの達成感でしょう。自分の領分である橋の上で、何もかも自分の思ったとおりに男を完全に魅了でき、自分の思ったとおりに男を奪えていたら、この執着心は、生まれなかったでしょう。いわば、男が逃げたから、鬼は、こうまでにする執着心を持ったのでしょう。
この鬼は、逃げられたことで男に執着心を持ち、その弟に化け、男を殺害し、その妻の心までを完膚なきまでに痛めつけ、男から、何もかもを奪いきったのです。
私はこの鬼が、もともと美女の姿をしていたということから、女性性のある一面について、誇張しつつ示唆しているといっていいように思います。


ここまでに、鬼とはいっても、もとは人間であった(であろう)鬼について、それぞれの説話を読みました。
そして、鬼と人間の境目の紛らわしさについても考えました。
〈実ノ鬼ナラムニハ、其ノ庭(その場)ニモ後也トモ平カニハ有ナムヤ。〉ーーでくわしたものが鬼であるなら、後々までただでは済まされない。
後年、世阿弥が「物まね条々」で、鬼とはとてつもなく恐ろしいものだという定義づけをしました。
『今昔物語集』の鬼には、その同時代の表現のなかの「鬼」には、その意味合いが、含まれていると見るべきでしょう。








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(未定稿)鬼さん考 7

2024-07-23 23:24:09 | 月鞠の会
三 超自然の鬼から実体を持つ鬼へ(仮題)


⑵ 『今昔物語集』の鬼説話を分析する

『今昔物語集』(新日本古典文学大系『今昔物語集』校注:小峯和明)を読んでいて、興味深い言葉に出くわしました。平安時代末期に成立したとされる『今昔物語集』全31 巻は1000 話以上の短編を収録しますが、説話自体の収録数だけではなく、『日本説話索引』(清文堂 説話と説話文学の会編)の見出し語「鬼(おに)」に示される出典の件数においても、突出しています。
鬼説話が多いのは、分母の大きなことが第一の理由でしょうが、解説に〈中国では道教がひろまり、仏法と拮抗しあい、融合しあう長い歴史があった。日本の神仏習合と隔離の動向にも近い。道教独自の冥界や他界があった。〉〈道仏混交の要素がきわめてはっきり現れている。〉などと述べられるように、道教と混交した内容が多いことも、理由の一つでしょう。
加えて、「鬼(おに)」という言葉の表す内容が、必ずしも異界の属でなくなってきたこともまた、理由の一つに挙げられるのではないでしょうか。
本朝部の鬼説話は、総じて43話。
本朝部に記載される鬼は、冥途や異界にとどまらず、私たちの日常生活にも、突如として出現します。
そこで、この43の例話が、どういった場所、どういった具体物、どういった思想に関係しているのかを見ました。
手順としては、43例について、まず、登場する鬼と関連する具体物を調べる【予備調査】をおこないました。これは、鬼出現のきっかけをつかむためです。このとき、後述する観点①~⑨の重複を許しました。


【予備調査】
①死、葬式、冥途に関係する鬼…13件/②疫病に関係する鬼…2件/③廃屋、古寺、橋などの境界に関係する鬼…11件/④発光をともなう鬼…2件/⑤雷、蛇など水系に関係する鬼…2件/⑥百鬼夜行など集団の鬼…3件/⑦実在の人間に由来すると考えられる鬼…12件/⑧魂魄。…1件/⑨/火、火花、鍛冶に関係する鬼…3件

たとえば『日本霊異記』では、ごく現実的にとらえられるできごとでも、あくまでも神仏による霊異として事物を解釈してありました。しかし、『今昔物語集』では、怪異、霊験譚として示される話のほかに、鬼だと思いこんだものの正体を超自然と言い切れなかったり、それが日常の事物に過ぎなかったりする話が、相当数にのぼります。【予備調査】の観点⑦「実在の人間に由来すると考えられる鬼」がこれに該当し、43例中の12件で全体の27%。そのうえ、霊験譚や怪異のように印象づけがなされる例話のなかにも、人間によるしわざとして十分説明しうるストーリーが、含まれていました。

①は、本国の中国で「鬼(キ)」の語が死霊を表すものであることから、古代の日本でも冥界とのつながりが意識されていたことを受けて、観点として設けました。

②『日本霊異記』上巻第3縁では、疫病で亡くなった奴が悪霊となって寺に祟ります。それからくだって、身分の高い人や才能の優れた人物であれば怨霊となり得ると一般には考えられ、平安時代には御霊信仰といって、疫病が流行すれば祈祷をおこなっています。ここから何か出てくるかと思ったのですが、疫病に関係する鬼は、わずかに2例で、いずれも、鬼(おに)が疫病を引き起こすという直接の文脈とはなっていませんでした。病気をもたらすものの多くは「もの」、すなわち物の怪として認識されていたことを踏まえると、『今昔物語集』の編纂された頃には、「もの」と「おに」の切り分けがずっと進んでいたということでしょうか。具体例を挙げれば、20-7「染殿后、為天宮被嬈乱語」において、染殿后の病気は「もの」のしわざでした。その「もの」を祓う神通力のあった徳の高い聖が、自身の内面に催した后への愛欲から、極めて強力な「おに」となります。ここから、今昔の扱おうとしていた「おに」が、「もの」とは、別の次元に扱われていたことが、うかがえます。

③の廃屋、古寺、橋などは、市井の人の棲まない地場。日常と非日常の境界です。特に橋は、甚だ凶悪なる鬼の出現地であり、27-13「近江国安義橋鬼、噉人語」は、渡辺綱による鬼(茨木童子)退治の原話ともされています。茨木童子は後述する酒呑童子の配下の鬼であり、この後の時代、鎌倉や室町時代に造形される鬼説話の舞台となる地や、土台となるストーリーが含まれていることを見込んで、観点に加えました。この観点は、教訓に直結しています。③にかかる11件のうち8件までに、無用の争いから鬼の出る場所へ至ったことを戒める教訓、人気のない不案内な場所への立ち入りを戒める教訓が付されていることは、注目に値します。詳しくは後述しますが、何事も神仏次第との前提ではなく、人々が、主体的に行動することを前提としているからです。

④は、遺体のリンが発光するという科学的な説明を、現代ではつけられるとしても、当時としては超自然の現象であり、畏怖の対象だったことと、『抱朴子』に鬼神は光るとの記述があるため、観点として設けました。

⑤拙考で前述したように、古代より、雷や降雨に鬼説話が関係していたので、観点として設けました。ここでは滝つぼに大量の蛇、鳩槃荼鬼(くはんだき)と名乗る鬼神が登場し、谷から上がれなくなった日蔵上人を肩にかけて助けますが、加害はしません。今昔で蛇神は本朝部より震旦部に見られ、鳩槃荼鬼は、吉野山中の瀧に由来する水神でしょうか。

⑦の観点では、17-43「籠鞍馬寺遁羅刹鬼難僧語」、20-7「染殿后、為天宮被嬈乱語」、20-37「耽財、娘為鬼被噉悔語」、27-8「於内裏松原、鬼、成人形噉女語」、27-9「参官朝庁弁、為鬼被噉語」、27-12「於朱雀院、被取袋菓子語」、27-15「産女行南山科、値鬼逃語」、27-22「漁師母、成鬼擬噉女語」の各話が該当します。そのようにとらえた理由を、次に述べます。

⑧の、魂魄思想については、拙考にて前述しました。

⑥⑨は、金工産業と鬼伝説が関係するという説(『鬼伝説の研究 金工史の視点から』若尾五雄著 大和書房)があるため、観点として設けました。12-28「肥後国書生、免羅刹難語」の女鬼の口から出る光は、火花を想起させます。14-42「依尊勝陀羅尼験力、遁鬼難語」、16-32「隠形男、依六角堂観音助顕身語」ではいずれも、百鬼夜行らしき鬼の集団が、火を燃やしながらガヤガヤとやってきます。特に後者では、鬼たちのかけた呪いを解く動作として、童子が姫を槌で打ち、姫はその憑き物が落ち、男は呪いが解けて、姿が見えるようになります。昔の人々は、溶鉱炉の炎や鍛冶の火花に、異界や呪術的な畏怖を感じていたのでしょうか。


【予備調査】で見当をつけたこれらのことを踏まえつつ、【思想性による分類】をおこないました。これは、鬼が、編纂者にとって、または鬼自身にとって、何を訴えるために登場するのかを見るためです。特には、霊験譚や神秘主義によるところの説話か、超自然現象に拠らない(人間のしわざとして説明のつく)説話かどうかを見るためです。このとき、後述する●○△×の印は、重複できないものとしました。


【思想性による分類】
●印…17例。仏教的な意味合いが強い鬼説話。
まず、鬼出現に際して、超自然的な現象を持つものも、無いものも含めて、仏教的な意味合いであるかどうかを見ました。仏教的な意味合いの強度は、規範意識の高さとほぼ比例すると考えたためです。
仏教の教義は、戒があるなどして規範意識が強く、国教として、古代から政治に活用されています。ですので、仏教色が強いということは、形而上事物への畏怖、信心の惹起を、どんなことよりも優先するでしょう。●印は、具体的には、種々の民間信仰の要素の濃い説話であっても、仏教との習合が意図されている場合は、仏教説話としてカウントしています。たとえば、31-27「兄弟二人、殖萱草紫菀語」の鬼は、『俊頼髄脳』(前出)を出典とし、道教の魂魄思想を体現しますが、『俊頼髄脳』では鬼の持てる感情を「あはれび」と表記したのに対し、今昔では、仏教語「慈悲」に置き換えています。このような場合、仏教との習合があると見なしました。

○印…13例。超自然現象の描出がある鬼説話。
次いで、鬼出現に際して、仏教色の薄いものでも、超自然的な現象を持つものについて○印を付けました。規範意識に裏打ちされた宗教的な畏怖を前提としなくとも、超自然現象が明確に発生しているのであれば、説話自体に、何らかの霊的畏怖を惹起する意図があると考えたからです。そして、種々の民間信仰をバックヤードに持つ説話であっても、超自然現象の発生しない場合には、出現した鬼に、何らかの実体が持たれる可能性があると考えました。

△印…6例。人為的な事件として説明ができる鬼説話。超自然現象については「認識の相違」などとして排除しうる。

×…7例。鬼のいない鬼説話。超自然現象が発生せず、鬼について言及されるが、鬼と思しき存在が登場しない。もしくは他出典の同一説話において、鬼のいない鬼説話であることが明白である。

以上のことから、●印または○印の付けられる説話中の「鬼」は、宗教的規範を示すための架空もしくは想像上の存在ととらえることができ、これらの登場する鬼説話を、「超自然の鬼説話」とすることができます。そして、その一方で、△印の説話を「実体を持つ鬼説話」、×印の説話を「鬼のいない鬼説話」と考えることが可能です。ただし、27-14「従東国人、値鬼語」については、③には該当するものの、途中から欠文しており、上記●○△×印での分類を不明としました。



【結果と着眼点】――43例の鬼説話について
以下に、43例の鬼説話を、『今昔物語集』での配列順に示したところへ、【予備調査】(①~⑨)及び【思想性による分類】(●○△×印)と突き合わせ、内容のうえで着眼した点を記しました。各話末尾の「←」以下は、新日本古典文学大系『今昔物語集』(校注:小峯和明)の脚注から、出典ないし源泉を示すものとして一部を転記しています。


●12-28「肥後国書生、免羅刹難語」③④⑨……女・巨人・目が光る。口から雷のような光を出す。鬼は、まず馬を食らい、書生は観音を念じて助かる。「妙」の一字が現れ、法華経の「妙」の一字が朽ち残って鬼から人を助けること千人に成ったという。

●14-35「極楽寺僧、誦仁王経施霊験語」②……誰の目にも留まらなかった僧の仁王経が熱病の悪鬼を払った。人の祈りは清い汚いに依らない。

●14-42「依尊勝陀羅尼験力、遁鬼難語」⑥⑨……大臣の子でいつまでも童子姿で女性のもとに通う男が、百鬼夜行にあたったが、阿闍梨が尊勝陀羅尼を書いてくれたのを衣の頸にかけていたので助かった。

●14-43「依千手陀羅尼験力、遁蛇難語」⑤……日蔵上人が、谷から上がれなくなったところを鳩槃荼鬼(くはんだき)と名乗る鬼神に助けられた。それから行くと、滝つぼに三熱の苦のある蛇が水に打たれて出たり入ったりしている。どんなに苦しいことがあるのだろうと悲しくなって蛇たちのために千手陀羅尼を誦んだ。

●15-4「薬師寺済源僧都、往生語」①……よく仏に仕えたが寺に借りた米を返していなかったので、死ぬときに地獄の使いの鬼が来た。

●15-46「長門国阿武大夫、往生兜率語」①……殺生を業としていたが持経者のおかげで蘇生し、その後善行を重ねて兜率天に往生した。

○16-32「隠形男、依六角堂観音助顕身語」⑥⑨(文中に「槌で打つ」も出てくる)……男は鬼どもの集団からつばをかけられ姿が見えなくなった。牛飼いの姿をした童が男を憑き物に苦しむ姫のところへ連れていき、姫を槌で打つ。その後、男も姫君も病気にならなかった。

●16-36「醍醐僧蓮秀、仕観音得活語」①……三途の川の奪衣婆。←法華験記・中・70

●17-6「地蔵菩薩、値火難自堂語」⑦……毘沙門天に踏まれた天邪鬼。←散逸地蔵菩薩霊験記

●17-25「養造地蔵仏師得活人語」①……病気になって死んだが仏師を養ったことが善根となり蘇生する。

●17-26「買亀放男、依地蔵助得活[語]」①……売り物の布を代価に亀を買って放生した男が、地蔵菩薩の導きにより、蘇生する。冥界で慈悲をかけた女と現世で再会を果たす。←散逸地蔵菩薩霊験記

●17-42「於但馬国古寺毘沙門、伏牛頭鬼助僧語」③←法華験記・中・57

●17-43「籠鞍馬寺遁羅刹鬼難僧語」⑦……女の形をした羅刹鬼に鞍馬寺に籠る修行僧が襲われる。毘沙門天を念じると木が倒れてきて鬼は死ぬ。翌朝、死体を確認する。←散逸鞍馬寺縁起

●17-47「生江世経、仕吉祥天女得富貴語」……吉祥天女の使いの鬼。恐ろしい姿をしているが、しゅだしゅだと呼べば答えて無限に米の湧き出る袋をくれる。

●19-28「僧蓮円、修不軽行救死母苦語①……悪行が積もって死んだ母の後生を、常不軽菩薩の行をもって弔う。母の首を袖に受けて泣く。母もまた泣く。

○20-7「染殿后、為天宮被嬈乱語」⑦……后についた物の怪を祈祷で落とすも后に愛欲の心をおこし、自ら命を絶ち、鬼となることで后との愛欲生活をほしいままにする。

●20-15、摂津国殺牛人依放生力従冥途還語」①……鬼神を祀るために牛を供物にしていた人が、死後の世界で牛たちによって膾にされるところ、生前に放生供養をしていたため蘇生が決まる。

○20-18「讃岐国女行冥途、其魂還付他身語」①……死神の鬼が疫病神への供物を食べる。対象者に身代わりを差し出させたが閻魔王を騙すことはできず、。身代わりはもう荼毘に付されてしまったため、対象者の体に身代わりの魂を入れての蘇生となる。←日本霊異記・中・25

●20-19「橘ノ磐島、賂使不至冥途語」①②……大安寺の寺の金を元手に交易中、死神に狙われる。寺を利する途中であることから猶予を受け、鬼を饗応する。牛食、誦経、身代わりの供出を所望され、身代わりが殺されてついに死を免れる。←日本霊異記・中・24

△20-37「耽財、娘為鬼被噉悔語」⑦……財を積まれて娘の結婚を許すが、初夜に娘は頭一つ、指一本を残して食われる。←日本霊異記・中・33では「過去の怨」。

○24-16「安倍晴明、随忠行習道語」⑥……天文博士で陰陽師、安倍晴明の伝記的な内容。幼い頃、陰陽師賀茂忠行に、霊鬼を見る才能を買われて教えを受け、さまざまな方術を使いこなすようになる。

○24-24「玄象琵琶、為鬼被取語」……見えないが琵琶の名器玄奘を弾く鬼。音色がどこまでもついてくる。

×27-7「在原業平中将女被噉鬼語」⑤③⑦……色好みの在原業平がやんごとなき姫君を盗み出し、荒れ果てた山荘に隠しておこうとするが、雷が鳴る。太刀を抜いて雷鳴を鎮めようとするあいだに、女はバラバラに殺害されていた。←『伊勢物語』第6段。出典では〈鬼一口に食ひてけり。〉今昔では〈女ノ頭ノ限ト着タリケル衣共許(ばかり)残タリ。〉と、出典にはないバラバラ殺人の残虐な描写が付される。人気のない不案内な場所への立ち入りを戒める。

△27-8「於内裏松原、鬼、成人形噉女語」③⑦……三人いた女の一人が男との恋の語らいに引かれていった。戻ってこないので見に行く足と手が離れたところにバラバラにされて殺されていた。人気のない不案内な場所への立ち入りを戒める。←三代実録仁和三年八月十七日条

△27-9「参官朝庁弁、為鬼被噉語」⑦……早朝、宮ノ司での勤務中に、血みどろになった頭と持ち物だけを残して殺されていた。△人気のない不案内な場所への立ち入りを戒める。

△27-12「於朱雀院、被取袋菓子語」⑦……菓子(果物)の入った箱の中身の菓子だけを盗られる。特に霊的な現象は起こらない。完全犯罪か。

○27-13「近江国安義橋鬼、噉人語」③……橋の上に妖艶な美女となって現れ、男に取り憑き、その後、弟に姿を化身して物忌を破らせ、ついに男を殺害する。食い殺した達成感に、うれしいという表情をしたとき、橋の上にいたときの鬼の顔をしていた。無用の争いから、勢いで至ってしまったことを戒める。

(27-14「従東国人、値鬼語」③……途中から欠文につき詳細不明)

△27-15「産女行南山科、値鬼逃語」③⑦……宮仕えの若い女が父親のわからない子を妊娠し、山沿いの廃屋に産み棄てようとする。現れた老女の手引きにより、無事に出産、老女が赤ん坊を「ああ、おいしそう」というのを耳にしたため、この老女を鬼と疑い、逃げ出す。特に霊的な現象はない。人気のない不案内な場所への立ち入りを戒める。

△27-16「正親大夫、□(欠字)若時値鬼語」③⑦……正親大夫が宮仕えの女と廃屋であいびき中、廃屋に現れた女の童と女房に出ていけといわれる。この女房が廃屋に棲む鬼ととらえられる。女はその後、病気になるが、廃屋に棲みつく者との因果関係は不明。人気のない不案内な場所への立ち入りを戒める。

○27-17「東人、宿川原院被取妻語」③……伸びてきた手に妻が引き込まれて戸が開かない。斧で戸を破ると妻は、無傷のまま吸い殺されたかのように息絶えていた。人気のない不案内な場所への立ち入りを戒める。

○27-18「鬼、現板来人家殺人語」……板状の鬼。飛行し、帯刀しない侍を殺害した。

○27-19「鬼、現油瓶形殺人語」……油瓶状の鬼が踊り上がり、ある家に鍵の穴より侵入するのを藤原実資が目撃。その家の、病気になっていた娘が死んだ。

○27-22「漁師母、成鬼擬噉女語」⑦……猟師の兄弟が木の上で鹿を待ち伏せていると老人の手が伸びてきたので切った。その正体は立ち居もままならぬ老母であり、片腕を切られた老母はうめいて、子らにつかみかかろうとする。痛ましく年をとりすぎると鬼になる。

○27-23「播磨国、鬼来人家被射語」①……陰陽師が鬼が家にやって来ると予言する。その出現は、〈然様ノ鬼神ハ、横様ノ非道ノ道ヲバ行カヌ也。只、直シキ道ノ道ヲ行ク也〉であるという。鬼は現れ、家の者が、「同じ死ぬならいっそ射よう」と射たら、鬼は消えた。

○27-35「有光来死人傍野猪、被殺語」①④……鬼ではなく猪だった。当時としては超自然現象にあたる遺体の発光があるが、鬼のいない鬼説話とも見られる。 〈死人ノ所ニハ必ズ鬼有リト云フニ、然カ臥シタリケム心、極テ難有シ。野猪ト思ル時ニコソ心安ケレ、其ノ前ハ、只鬼トコソ可思ケレ。〉

×27-36「於播磨国印南野、殺野猪語」①③……鬼ではなく猪だった。 〈葬送ノ所ニ必ズ鬼有ルナリ。人気のない不案内な場所への立ち入りを戒める。

×27-44「通鈴鹿山三人、入宿不知堂語」③……鬼が出ると噂の古い堂で鬼を待っていただ出てこず、狐の類が化かそうとした。〈実ノ鬼ナラムニハ、其ノ庭(その場)ニモ後也トモ平カニハ有ナムヤ。

×28-28「尼共、入山食茸舞語」⑦……木こりが山中で尼たちの舞うのを見て、天狗か鬼神のしわざかと思ったが、尼たちは毒きのこに当たっていた。

×28-29「中納言紀長谷雄家顕狗語」……犬が敷地内に侵入し築垣に尿するのを陰陽師に占わせる。陰陽師は、鬼が出ると予言する。しかるべき日、物忌を忘れてしまい鬼が出るはずだったが、また犬が来て、鬼は出なかった。〈実ノ鬼ニ非ネドモ、現ニ人ノ目ニ鬼ト見ユレバ、鬼トハ占ヒケル也。〉という合理化においてまとめられる。

×28-35「右近馬場殿上人種合語」⑦……種合の勝負がつかないうちに舞を出したために咎められる。舞人は捕まると思って、鬼のような舞の面を付けたまま逃げた。

×28-44「近江国篠原入墓穴男語」③⑦……廃屋で雨宿りしていた男が気配を感じ、鬼出現かと恐れたが、別の男が同じように雨宿りをしていただけだった。

●31-27「兄弟二人、殖萱草紫菀語」⑧……兄弟の親を想う心の深さに、墓の中から「我レハ汝ガ祖ノ骸ヲ守ル鬼也。」と声がし、忘れたくないと願う弟に予知能力を授ける。←『俊頼髄脳』「忘れ草かきもしみみに植ゑたれど鬼のしこ草なほおひにけり」の和歌説話が出典。


この結果を見ると、『今昔物語集』での並び順がおおむね、【思想性の分類】の●→○→△→×印のようになっていることがわかります。このことは、『今昔物語集』本朝部の鬼説話が、宗教的な規範意識の高いものから低いものへ、編纂者によって、意識的に配列されていることを表します。そして、△×印の割合の多さを考えたとき、鬼のいない鬼説話を収録することに、編纂者は、何らかの意義を見出していたことが推察されます。


⑶ 「鬼のいない鬼説話」からわかること

鬼のいない鬼説話において、『今昔物語集』の編纂者は、意外に饒舌です。たとえば、27-35「有光来死人傍野猪、被殺語」の結論部、またつづく27-36「於播磨国印南野、殺野猪語」には、次のようにあります。


  〈死人ノ所ニハ必ズ鬼有リト云フニ、然カ臥シタリケム心、極テ難有シ。野猪ト思ル時ニコソ心安ケレ、其ノ前ハ、只鬼トコソ可思ケレ。〉(27-35)
  〈葬送ノ所ニ必ズ鬼有ルナリ。〉(27-36)


どちらも鬼出現と思って対象を仕留めたら、屍肉を漁りにきた猪だったという話ですが、「死人のところに必ず鬼がいる」「葬送のところに必ず鬼がいる」という言葉に、当時の人々の見方・考え方が示されています。
おもしろいものです。人々は厄介な問題、そのものを前に、このようなまとめ方をしないし、できません。まのあたりにする恐怖するばかりでしょう。厄介な実在が手を離れたとき、その〇〇について、うわさしつつ共有しつつ、このようなものだとして、一般化が進められます。こうした一般化をプロセスに持つほど、鬼出現は、死、葬式、死後の世界に、古代からの伝統として関係していたのでしょう。そして鬼たちは、誰かが亡くなるたびに、その出現を人々に意識させていたのでしょう。
①の例、つまり死、葬式、冥途に関係する鬼の例が、突出するはずです。

27-44「通鈴鹿山三人、入宿不知堂語」も、鬼のいない鬼説話です。ここで編纂者は〈実ノ鬼ナラムニハ、其ノ庭(その場)ニモ後也トモ平カニハ有ナムヤ。〉と述べています。
本当の鬼であったなら、その後にもただでは済まされない。――ここに挙げた43例のうち、その「ただでは済まされない」本物の鬼のさまは、たとえば○印のついた27-13「近江国安義橋鬼、噉人語」や20-7「染殿后、為天宮被嬈乱語」に出現する鬼の、執拗さに見てとれるでしょうか。これら2件については後述します。

いずれにせよ、鬼のいない鬼説話からわかることは、『今昔物語集』の編纂者が、「本物の鬼」とそうでない鬼がいると、考えていたということです。
では、『今昔物語集』の編纂者は、どういった鬼が「本物の鬼」で、どういった鬼が、そうでない鬼だと考えていたのでしょうか。
そこで、超自然のできごとのように見せかけて、本当は、人間のしわざではないかと思える話が、とても気になってきます。さきに「心の鬼」について触れましたが、紫式部は、世間に大流行していたエクソシストの図会を目にしながら、「祟りではなくて疑心暗鬼に駆られているだけでは?」と見抜いていました。
鬼のいない鬼説話に、厄介事が一般化されるプロセスを示されるように、人間のしわざであることを鬼のせいにしておくという、持って行きようのうちには、解決の困難な物事に直面したときの当時の人々の合理化のあり方が、示されていそうです。





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