歌人・辰巳泰子の公式ブログ

2019年4月1日以降、こちらが公式ページとなります。旧の公式ホームページはプロバイダのサービスが終了します。

そろそろお正月

2022-12-31 22:18:39 | 日常
今年一年、おつかれさまでした。

うまく作れたときの写真がどっかいったけど、そろそろお正月なので、料理写真をアップしておきます。ここ数年の、めでたいときにこしらえました。
単なる賑やかしなので、キャプションは無し。


   







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冬の花火

2022-12-27 23:08:05 | 日常

小紋さんは、花火がとても好きやった。
私も息子も、音に驚いて知ったけど、きょう、近くで花火があがってた。
誰もそれとは知らないで、あなたの祥月命日に、冬の花火があがってた。

小紋さん、天国から、地上の花火を見たのかな。

小紋さんが、亡くなる前に、九州の歌人として大きな賞をもらったことが、私はとてもうれしかった。

若き日、青春の戯画。

小紋潤よ。
あなたはきっと、あなたの息子のそばにいますね。




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赤まんまの覚え書き

2022-12-25 19:25:02 | 略歴
百首歌「赤まんまの覚え歌」については、当ブログ2012年11月22日頃の記事参照。
長歌の部分の保存先は、現在不明。
「月鞠」上でリリースしているので、必ずデータはあります。
このお正月休みに、公開記事に戻して、
できれば、そう遠くない未来に、なんらかの形で商業出版できるといいのですが……。




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鬼さんノートその4(など)

2022-12-25 14:22:11 | 月鞠の会
とりかかれるところから、とりかかっておきますね。
この蓄積で、まとまったものになっていくので……。

百首歌「『ホテルカリフォルニア』を聴きながら」(仮題)は、Twitterで非公開ライブになるかもです。
ならないかもだけれど……。

野次馬さんは、弾きたいので、怪しいひとの新規フォローは、一度ブロックしてからブロックを取り消すというやり方で、フォローを外していくかもしれません。
いろいろあったので、ご新規をいったん疑いますが、お許しください。

百首歌ライブ、かつて、さんざんやりましたね。
ずっと追っかけてくれているひと、ありがとうございます。
Twitterは140字なので、長歌で百首歌ライブをしたときだけは、困ったわ。
「赤まんまの覚え歌」ですけれど、いまは公開していません。
人生で、あと1冊しか歌集を持てないとすれば、「赤まんまの覚え歌」をリリースしたい……。
「赤まんまの覚え歌」は、長歌で料理レシピを書き、反歌でまとめたものです。

さて、「鬼さんノート」、つづきです。

日本文学として高く評価されている梅原猛『水底の歌』は、日本史学では否定されているんですね。
おなじ手法であれば、創作物としてあるべきではないですか。
そして、創作物でも、『平家物語』などは、史料価値の高いものです。

自分の古典研究は、必ずしも壮大である必要はなく、若い人がそうだなぁと思って、次の世代へつないでくれていいものにしたいです。
やはり、一つ一つのエピソードを身近にとらえられるように、部立の設計された『鬼の研究』が、私の手本です。

梅原学への批判を知ることで、自分の立つべきところが見えてくるかもしれません。
私が梅原学の影響を受けていないかといえば、とっても根深く受けている。たとえば、自分が書きつけている「鬼さんノート」には、怨霊観、鎮護国家思想もまた視野に入ってくるのですが、梅原学では、法隆寺の建立からになります。梅原学を疑った場合、天満宮の建立。歌人、菅原道真からということになります。この違いは大きいぞ……。

私が学んだ若き日には、梅原学を日本史的にも疑わず、文士諸士から、教わることが多かった。日本史的な視座を、必ず持っておきたい。

いまいえることとしては、昭和時代の文芸研究のメインストリームは、近代をいったん否定するところから始まっている。それは、太平洋戦争につながっていった、近代思想の悪弊ともいうべきものへの、アンチテーゼでもありました。

そこで、梅原学は大きな意味を持ったと認識しています。

と、ここでいったん投稿しておきます。




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俊成、白を切る!

2022-12-13 17:53:12 | 月鞠の会
古典和歌でも現代短歌でも、事実はどうだったかにのみ焦点を定めると、鑑賞は、成立しなくなる。鑑賞の作法は、事実とは切り離して、作者の構築した言葉の世界に遊ぶことにある。対して研究は、背景となった事実関係のほうに向かっていきやすい。

そうなると、水に油ですね。

虚構の世界を拡げてくれた新古今の功績は、やはり大きい。
背景や事実関係の研究は、鑑賞を深めるためにこそ欲しい。
それが鑑賞を侵食するのではなく、作者の飛躍を功績として認める方向に向いてほしい。

私は、「恋の正体」の第3部を鑑賞として他の部から切り離して、よかったと思っています。第3部に限らず、鑑賞については、全体として事実関係を希求する書き方になっていません。
固有の事実関係ではなく、時代史のみを踏まえました。
そうせざるを得なかったのは、私の、物心両面の研究力の限界によります。
しかし、限界ほど、世界を決めてくれるものはない。

失笑物かもしれないと思いながら、「恋の正体」冒頭部に取り上げた「六百番歌合」の「女房」の歌は、自分が執筆した時点では、開催者の良経の作だというところまで、調べをつけきれなかったんです。
研究者の間では、自明のことだと、後で知りました。

ただ、それが字面のとおり、女房の作であるはずがないのは、わかっていました。
なぜなら、参加者を見たときに不自然であり、つまり、事実として「女房」の作なのではなく、これは虚構。
なんらかの事情で、作者が伏せてあるのだと……。

その察しをつけられるのは、同様の配慮を、現代歌人の歌会でもいたすからです。
参加者が多くないとき、自作なのに批評するよう指名されることが、ままあるのです。
そしたら、白を切って批評します。
誰の作か、わかっていても、批評者は全員、なかでも判詞を述べる役割の人は、白を切る。
これが、現代でも作法なのです。
批評の中立と鑑賞を守るための、作法なのです。

俊成が白を切って、女房(作者が伏せてあるということ)の作として判詞を述べたのは、鑑賞のために他なりません。
しかもそれが、優れた鑑賞であれば、その判詞を、千年の後の世に受け取る私たちも、白を切るほうに乗らないと、つまらないことになります。

だってね、研究者は、これ何ていってますか?
良経は九条家の実力者だから、歌壇政治に俊成が権勢を保つには、良経の作品を褒めないわけにいかないって、いうんですよ?
事情に通じていようと、それもまた、想像の域を出ないことですよね。

このような態度の研究者は、初めから、鑑賞を投げ出しているではありませんか。
だけれど、多いでしょう……。
鑑賞ではなく、政談にもっていってしまう、研究者。

と、このように、それが誰であるか、あくまでも調べをつけるほうにいったら、その時点での自分の器量では、事実関係にひっぱられて、あるべき鑑賞の作法を損なう気がしました。
であるならば、ここは、調べをつけきれなくても、俊成が、白を切るほうに乗ればいい。

研究者……つまり、事実関係がすでに分かっている人の失笑を買うとしても、自分に無理に同じ土俵に立つことはないんです。
実作者としての鑑賞力を、最大限に発揮すればよい。

だって、私は、俊成とおなじ、歌人なのだもの。
実作者なのだもの。
創作において、虚構性が担保するものを投げうって、当代の公序良俗において断罪される読まれ方、事実関係をのみ追及される読まれ方と闘ってきたんです。

それにね、私たち……。

千年も昔の、歌壇政治に首を突っ込むぐらいなら、いまの、この世の中を、しっかり受け止めたほうがいいと私は思います。

補足しますが、事実関係は、鑑賞のためにあったほうがいいものです。
研究を否定しているのではなく、事実関係がわかって、たとえば西行に妻子があったとわかって、より深められるということです。
そして、もし、和歌を味わうのに必ず事実関係が必要であれば、西行の独身論によって樹立された鑑賞が、すべて棄却されることになってしまいますね。
でも、そうではありませんよね。
西行の独身論は、そうであってほしいと願った、和歌を愛するひとの情熱の一部でもあります。
研究史は、日々更新されて、研究者にも周知のなかった新事実が、後で発掘されたりもします。

鑑賞を、第一義に置くことは、研究が後世において止揚される、その可能性をひらくのではないでしょうか。





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梨の匂い

2022-12-08 22:38:05 | 月鞠の会
洋梨の自家製リキュールを試飲しながら、この匂いの奥にある、妖しいノートはなんだろうと、ずっとひっかかっていました。
なぜか、病院の処置室や臓腑のきりきりする感じを、思い出すんです。

それは、羊水の匂い。
お産が差し迫って、血と混ざって裾を濡らす、血ではないものの匂い。
子宮のなかで、赤ちゃんを包んでいた水。

洋梨の汁って、羊水の匂いがします。

私は多分、このお題で、次の百首歌を書くでしょう。






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鬼さんノートその3

2022-12-04 21:07:18 | 月鞠の会
クィア批評という、批評文芸の一ジャンルがあります。古典の研究者が、その時代なりの偏見……時代が進み、いまとなっては偏見を、当時の常識として受け入れて、たとえば貞操についての価値観がまんま、対象作品への評価に結びついているようなときに、私たちは、それを、取り払って読まねばならない。


古典の鬼は、概ねヒトに重ねてある。しかし私は、現代へつながるところの「鬼」と呼ばれたものを、世間、戦争や偏見や差別を生みだすデバイスと見立てたい。

鬼とヒトを重ね合わせて偏見や差別のない世の中を構想するなら、そこには、エンパシーが必要だ。エンパシーとは、たとえ立場が違っても、その身になって、その目線になって、物事を見てみることである。

エンパシーとは、身内との一体感、共感を表すシンパシーとは別物だ。このことを私は英検の教材(私の現代社会の知識の新しいところは、概ね英語教材で学んだ)で知った。それから、いくつかの現代評論を読み、若い世代には、この言葉が浸透していくかもしれない、そうであってほしいと思った。

身内になら、それは、たやすく共感として発動しうる、ある種の情動は、たいていの場合、利害関係を客観的にとらえようとはしない。身内びいきとなって、二極対立を生みだし、止揚する契機を逃してしまう。

それはたとえば、ウクライナかロシアか、そのどちらに共感するかを争って、無関係の国に着弾してしまったミサイルが、無関係の国の無関係の人々を殺めてしまっても、いっこうにピンと来ないことに似ている。

無関心なのです。その無関心が、誰かを鬼に仕立てつづけなければ成り立たない構図のもとではないですか。

山上容疑者は、テロという行為を、誰かから頼まれたわけではない。テロを手段に使ったので、その意味でのテロリストだが、殺害に及んだ銃撃の一瞬は、彼にとり、人生の特殊な一瞬だったはずだ。決して繰り返すとは思われない。

特定の政治思想によって、その行為を称賛する人々がある。テロを、普遍的な手段として認めているのは、そうした人々の共有する世間である。そしてまた、右であろうと左であろうと、それぞれの世間に帰属する一人一人には、親もあれば子もあって、慈愛に満ちた家庭を築いてもいるだろう。このどこに、鬼なるものが存在するだろう。それなのに、右も左も、相手を滅ぼすための暴力を、それぞれの立場から肯定している。そして、相手の唱える暴力に至っては、許せないという。そのような世間は、それぞれに、共通の仮想敵を持つことで成り立っている。

山上容疑者に「でかした」という声は、戦争で親を殺された少年にゲリラ兵として訓練し人殺しをさせるのと同じ感性だ。テロリストになりたくて誰がなろうか。

容疑者の動機は、「平穏な家庭を破壊された恨み」であった。テロをおこなって、彼の家庭を取り戻せてはいない。にもかかわらず、テロという行為を称賛する人々は、山上容疑者への共感を装って、山上容疑者への無関心を、じつは、表現してしまっている。

「でかした」と言っていいのは、彼が、悔悛の情を催して、自身が、平穏な家庭を取り戻す、本来の一歩を踏み出したときのはずである。また、そのときでしかないのである。

鬼になりたくて、誰がなろうか。私たちは、まず、ここに立たなければならない。

カオス、混沌に商機をみる人がいる。戦争の構図で金儲けをする人々だ。新機軸を打ちだしているかに見えて、これがうまくいくと、商機を作り出すためにカオスをも作り出そうとするようになる。第一次世界大戦で日本は儲けた。これに味をしめて、太平洋戦争の土台ができた。戦争に乗じれば儲かると見込んだ資本家たちが、戦争を肯定するようになったからだ。

生物兵器や毒や武器を、作りたくて売りたくて、儲けたくてたまらない人々がいる。

私たちは、いま、ここにいる。

この、現在地点の「今ここ」が、人間性を回復するために立つべき場所と、エンパシーのあるべき場所と、どれほどかけ離れていることだろう。


私は、古典に回帰する。

「夢十夜」に、漱石は書いた。運慶は、木を削って仏を作ったのではない。木のなかから、仏を取り出したのだと。

たとえ立場が違っても、その身になって、その目線になって、物事を見ることのできる、思考のあり方を、哲学を、必ず古典の世界から、取り出してみせる。




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近況報告(再告知あり)

2022-12-04 15:29:36 | 日常
家族の新生活サポートが一段落しました。

なにぶんにも時間が経ってしまいました。古い投稿は、もう後ろへ行ってしまったので、当座、「鬼さんノート」は、始めのものから連番をふり、新規投稿していくつもりです。

歌人として、いわゆるプロデビューから数えても、三十年以上の月日が経ちます。『紅い花』は、いまも若い人に読まれています。

リキュールの話もいったん終わりです。鬼さんノートをつづけなければ!

最後に、再告知。

ただいま発売中の、角川「短歌」12月号に、文章を書いています。中級以上の実作者向け、レクチャー記事ですが、表現者としての精神論を書きました。

発売中ですので、ただいま書店で入手できますので、ご購読ください。

すでにご購読の皆さん、ありがとうございます。

お金ないひとは、図書館で注文してね……小声でいうけど、借りて読んでもいいよ……名指しで愛してね。

やはり、歌人としての表現物にあたってほしいし、表現物を愛されたいのです。





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