道々の枝折

好奇心の趣くままに、見たこと・聞いたこと・思ったこと・為たこと、そして考えたこと・・・

祖霊信仰

2020年10月24日 | 人文考察

私の家の宗旨は、浄土真宗本願寺派である。数十年前、お寺の住持が亡くなり、その子息が跡を継いで間もない頃、墓地への出入り口に「わしは墓の中には居らぬぞ」という貼り紙が張り出されていた。それまで見たこともない掲示物だったから、インパクトがあった。墓参の都度、その言葉の印象が濃くなっていった。

オッチョコチョイの私は、「そうか、浄土真宗では祖霊は墓にいないと考えるのか」と理解した。遺骨は墓に納めても祖霊は存在しない。霊というものはない。したがって祖霊を崇拝しない。仏が在るのみということだろうか。

祖先崇拝は人類に共通する形而上的な習俗で、必然的に祖霊信仰を生む。祖霊信仰は自己愛の延長上にあるものだから、それに囚われている限り、人々は幸福になれないと宗教家は見る。祖霊信仰を脱することは、自らを自己愛から解放することとされる。淫祠邪教は別として、あらゆる宗教は、この自縄自縛の源の自己愛から、人間を解放することを目指してきた。

祖霊信仰を脱するには、自己愛という強力な自己保存欲求(本能)を統御しなければならない。イエスキリストは神への愛を説き、自己愛を神への愛へ昇華する教理を導きだした。

私は40歳を過ぎて信仰を求め、キリスト教(プロテスタント)の教会で求道していたので、祖霊信仰の色濃い日本仏教の中に、それに近い考えをもつ宗派があることに、新鮮な愕きを感じた。

インドに始まり、中国大陸から朝鮮半島を経て日本に伝来した仏教は、その時既に経由地で土着の宗教と習合し、祖霊信仰の習俗に染まっていた。また、自然崇拝に始まる日本の神祇信仰(神道)も、習俗として祖霊崇拝を強く帯びていた。新来の仏教は、土着の神祇信仰と、祖霊信仰という共通項で、宗教的価値感を共有する。仏教と神道とは、それに依って神仏習合の礎を築き、その後は相互に発展を遂げた。

日本の仏教は、深く祖霊信仰の習俗と結びついている。理法より習俗が優越する宗教的風土は、日本だけでなく、中国・朝鮮も同様である。西欧のキリスト教にも、謝肉祭やクリスマスなどに、キリストが排除したかった土着の習俗の名残が見られる。

しかし、キリスト教・ユダヤ教・イスラム教を概観すればわかるように、世界の有力な一神教は祖霊信仰を認めない。偶像崇拝も祖霊信仰の変形と見て許さない。

自己愛との訣別によってしか人間の救済を図れないとするこれら一神教の信仰者は、原理に忠実従順に見えるが、実はキリスト教を除き、厳しい戒律によって宗教的強制を受けている。人間が祖霊信仰を脱しきれないのは、それが自然な人の情に逆らうからであるが、その情を認めない厳しさが一神教にはある。過酷な風土と社会が生んだ宗教ならではの厳格さである。

日本の仏教は、伝来の始めより祖霊信仰と習合していた。ひとり鎌倉時代に生きた親鸞のみが、その師の法然の影響により、他の宗派と歴然とした違いを見せる浄土真宗を開いた。親鸞とその弟子たちは、当時の仏教界からは、異端と見做された。

私は未だに無信仰で、それに忸怩たる思いを抱いている。科学と歴史の浅薄な知識が、宗教に対する猜疑心を育て、信仰への障壁と成っている。それこそが自己愛であり、我ながら哀れな身と痛感するが、半世紀かけても信仰をもてないでいるのは、確信犯の部類だろう。










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3 コメント

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Unknown (yo-サン)
2020-10-24 14:12:12
>私は未だに無宗教であるが、それには忸怩たる思いを抱いている。猜疑心の強さが信仰を妨げている。それこそが自己愛である。我ながら哀れな身と痛感するが、半世紀かけても、信仰をもてないでいるのはある意味確信犯かもしれない。

いかにも左様かと存します。
しかしながら、仏教は学問ではなく実践ですなぁ。
失礼しました。
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Unknown (tekedon638)
2020-10-24 16:48:11
コメント有難うございます。
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Unknown (こちウワ男)
2020-10-31 00:06:43
我がファミリーも浄土真宗ですが、私は無宗教です。あえていえば「龍馬教」(笑)。しかしながら、勉強になりました。
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