久しぶりに、平日のJR電車に乗った。朝の出勤時間と、夕べの帰宅時間を通勤電車の車内で過ごし、この春社会に出たばかりの会社員と思しき人たちの服装を見て驚いた。
男女共に黒のスーツ、全員がひとつ企業の社員かと思った。表情は若々しいが、誰もが黒一色の服装は地味というより異様である。4月の駅構内や乗り物の中は、まさに世に出たばかりの、フレッシュな新人たちが目立つ。
時代を担う初々しい青年男女の姿は眩しく頼もしくもある。しかし、彼らの通勤服はいただけない。男性は揃いも揃って黒のスーツ。ネクタイを外しているから、冠婚葬祭の帰りかと見紛う。女性も黒のスーツに長髪を後ろで一つに束ね、まるで戦時の若い未亡人のよう。齢相応の華やかさなど微塵もない。
いったい、この国はどうしてこのようになってしまったのか。先月まで、彼ら彼女らが過ごしていた大学のキャンパスには、様々なカジュアルウェアの学生が溢れていたはずだ。そこでは、皆が服装にとらわれず、自分好みの服を着て青春を謳歌していたのではないか。
月が変わればガラリと変わる落差と変容ぶりを、異常と思わない社会に慄然とする。私が社会に出た昭和の40年代は、新人は皆好みの地色のスーツで通勤していた。ビジネススーツだから、明度彩度は抑えていても、服地そのものは有彩だった。黒は日常の色でなく仕事で着用することはなかった。 新人の女性たちも、会社では制服だが、それぞれが個性を発揮できるファッションで通勤していた。
いつからこうなってしまったのだろう。戦後の昭和の時代とは明らかに違う。平成の社会に、何かが起きていたに違いない。社会の支配層に、黒色(モノカラー)を好む人々の比率が増え始めていたのだろうか?
いったい何処の誰が、新人たちに黒服を無言で強制しているのか?それとも、新人たちが空気を読んだ結果だろうか?上に倣えなのか右へ倣えなのか。若者たちは強制でなく自発と答えるに違いない。社会が暗黙裡に多様性を否定し、画一化の方向に進んでいるに違いない。
それはかつて誤って通った道である。
黒服以外は異端として疎外される圧力が、若者たちに働いているのだろうか?
こうも画一化に従順で雷同する若者が年々学窓から巣立っていることを、私は迂闊にも見逃していた。今や日本の若者は、服装に関する自由を放棄したのであろうか?それは誰の為か?たぶん、自分の為と言う返事が返って来るだろう。
服装は人にとって最も容易な個性表現の手段のであり、その人の人格が顕れる。個性に応じた服装をしないで、自己表現できるほど、日本人は目色・髪色に個人差がない。顔に個性が表れないからこそ、日本人には、個性を服装で意識的に強調する必要がある。
先進国ではあり得ない、旧い軍服を模倣したような中学・高校の制服の廃絶を願っている私には、現下の社会で起きている現象は、流れを逆流させるものに見える。その拠って来たるところを考えると、暗澹たる思いに捉われる。この国には明らかに、旧い時代への回帰を願う階層が、存外各界各層に存在するようだ。