道々の枝折

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発想というもの

2022年11月24日 | 随想
世の中には、発想の豊かな人がいる反面、発想の乏しい人もいる。
発想力は天賦のもので、後天的に発想力を強化したりどうこうできないものだが、社会生活の上ではあまり重要視されて来なかった。

実社会で発想が重視されないのは、人の発想は多様すぎて分類も整理もできず、客観的に評価できないことにある。発想は各個バラバラに個人の中に留まっていて、社会生活に直接係ることがないからだろう。発想は個人の中で組織化されなければ創造に結びつかない。

社会生活というものは定例化された制度や慣例のもとで成り立っているので、新規の発想=着想が求められることは殆どない。統治機構は前例踏襲が基本だから、個人の発想を調和を掻き乱すものと見てそれを嫌う。特に儒教的権威社会のわが国では、その傾向が強かった。

発想は,きわめて個人的なものである。個性を個性たらしめているものこそ、その人の発想である。発想の違いが、他者との違いを明確にする

私たちの発想というものは、シーケンスを保って適宜順序よく湧いてくるのが望ましい。多様な発想が一度に噴出すると、収拾がつかず,理路を整えその発想を人にわかり易く説明することができなくなる。

発想が過剰に湧き出る人は、概ねスピーチや手紙が苦手である。発想が乏しい人の方が、比較的演説は上手く書簡は簡潔で分かり易い。
発想が整理され、意見や見解そして施策や思想として広く周りの人々に認知される時、その人の発想は社会的に意義をもつものになる。

学習に勤しむ段階の中等学校までは、発想はあまり重んじられない。形の定まらない、表に現れない発想よりも、形に成り成績に現れる学習や履修が、遥かに大切である。発想は努力を要しないが,学習は努力を要する。努力を要するものに評価を置くのは教育機関として当然である。

学習の目安、偏差値というものは、学習したことの再現性の高低で決まる。それには発想力・構成力・創造力より、記憶力・連想力・応用力がモノを言う。

発想学習とは、オリジナリティという面で極めて対照的である。
発想は個人の頭の中から生まれるもの。学習は多くの専門家の研究の成果を借用することである。どれだけ的確に理解し活用できるとしても、学習者本人のオリジナルなものではない。

拙劣でも自前で通すか?優れた借り物を活用するか?生産性から言えば後者がスマートで常識的だが、それが個人の中で常態化するのは考えものだ。人は生涯学習しているわけにはいかない。充電の後はそのエネルギーを放電して仕事をしなければならない。学習の成果は、社会に還元してはじめて有用のものとなる。

偏差値と発想力とは両立しない。偏差値が高いと発想力は低下し、偏差値が低いと発想力は活発である。相反関係にあるということだろうか?
偏差値が低いと発想が豊かになる理由は、知識が発想を妨げないからだろう。発想が豊かだと学習の妨げになるから、偏差値は下がるのは避けられない。学校が発想を歓迎しない理由のひとつである。学校に創造力を育むことを期待するのは、根本的に無理がある。中等学校までは、創造力を育てる場所ではない。
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