道々の枝折

好奇心の趣くままに、見たこと・聞いたこと・思ったこと・為たこと、そして考えたこと・・・

テレビ時代の終焉

2019年01月10日 | 随想

テレビ放送が4K8Kと喧しい。

テレビジョン放送は、ハードの技術が進歩革新するに反して、肝腎のコンテンツすなわち番組の質が劣化する背離現象を呈してきた。スーパーハイビジョンの登場で、さらに番組、報道、ドラマ、エンターテインメント、スポーツ中継の質が低下するのではないかと危惧している。

今や地上波テレビ番組の質の劣化は、目を覆うばかりだ。商業広告の主流が、旧来のテレビ媒体からインターネット媒体に重心を移しつつある現在、それは加速しているように感じられる。

スポンサーが離れる売上が落ちる番組原価を下げる番組の質が劣化する視聴率が下がるスポンサーが離れる、という悪循環が始まっているのではないか。スマホを所有し活用している人たちの、テレビ番組を見る時間は減る一方である。

テレビ放送の開始から66年、テレビが成熟の極に達した時期もあった。だがメディアとしての活力は、一貫して失われつつあったのだ。人間が老化を免れないように。

若い媒体インターネットが、善かれ悪しかれ斬新性に溢れているのに対して、放送法と電波監理審議会の下で制約の多いテレビ局は、メディアとしての自主性を保てない。政府の意向を汲むに忙しく、視聴者の求めているものを的確に捉えられない。番組から、斬新性、意外性、批判性、要するに面白さが、年々減衰している。

公共放送に至っては、スポンサーが契約者であることを忘れ、戦前に回帰したかのような報道統制と、民放模倣のバラエティ番組や、相変わらずのご当地巡り番組でお茶を濁し、事実の正確な報知は、もはや気象予報だけになってしまった。

一方で、民放テレビ局・芸能プロダクション・広告代理店などの映像メディア産業は、半世紀の間に資本を蓄積して巨大になり、高度な情報企業に育った。強固な結束によって企業横断的な独占が、業界を支配しているように見える。それに比べると、直接番組をつくる制作会社は、事業の性質と受注の競合とから、資本を集積するには至らなかった。そこに創造的な人材が集まっているにも拘らず、彼らの活躍の場は広がってはいない。

内容の深いドラマが次第に減り、客観性、公平性、探求性に欠ける報道番組が目立つようになってきた。無能なキャスターと無知で軽薄なコメンテーターが毎日登場するワイドショーが、テレビを一段と劣化させた。さらに低コストで視聴率を稼げるお笑い・クイズなどの低俗準芸能番組が氾濫している。コストパフォーマンス重視の番組づくりは、今や常態となっている。

免許事業のテレビ放送は、生まれたときから寡占的な座にあった。自由競争を経て、切磋琢磨して企業地位を築いたものではない。政治権力の意向のもとに生まれたときから権力に保護され、支配されてきた。その極はNHKである。

評論家の大宅壮一氏が、いち早くテレビによる一億総白痴化を警告した1961年以来、テレビはそれを意識して改善を図る方向に向かわなかった。傲りのあるところ、必ず退廃があるのは今も昔も変わらない。

テレビ番組のマーケティングは、番組の商品価値を視聴率で表し、スポンサー企業から番組を受注する。製品=番組をつくるのは、テレビ局の制作部門だが、実際は、コストダウンのために制作の仕事は制作会社に丸投げされている。局のプロデューサーがひとり制作スタッフに参画していれば、用は足りるらしい。かつての建設業界の丸投げの仕組みに似る。他産業と同様、アウトソーシングは一次二次と多段的に下降し、それに伴って下段の下請けへの発注価額は下がり、それと反対に制作スタッフの労働は過重になる。

今やテレビ業界は、ほぼ独占状態にある大手広告代理店に支配されている。脚本家や放送作家を選び、芸能プロダクションを通じて俳優を選び、制作下請会社のプロデューサーやディレクターを選び、番組企画を作成する。今や番組企画は広告代理店の主導で立案されているのが実情だ。

この企画をスポンサー企業に売り込むのは、テレビ局ではなく広告代理店である。番組はスポンサー企業の広告宣伝のためのものであるから当然だ。そもそもスポンサーなる言葉は、広告業界の用語である。

日本の広告業界は、超寡占状態にあって、力関係は、スポンサーを押さえている広告代理店が、放映権を握るテレビ局より強い。したがって、広告代理店の利益が優先される。

局側は、限られた価額で番組制作をするよう強制されれば、自社での制作を止め、下請けを利用するしかない。番組の制作コストのほとんどが人件費で、省力化はできない性質のものだから、合理化によるコスト低減はできない。

テレビは大宅壮一氏の指摘したとおり、生まれた時から通俗に流れる性質をもっている。本質的にジャーナリズムたり得ない。映像をつくり、放映するには、多額の資金と設備、大勢の人手を必要とする。民放局は他産業同様、収益性を最優先しなければならない。もう質の高い良心的な番組は、二度とつくれないのだろう。

映像は編集の過程で事実を誇大にも矮小にも操作できる。事実の歪曲には、テレビが一番効果的で、その政治的プロパガンダの能力は政権に高く評価されている。今後、産業広告での需要が減退するに従って、人心収攬や政策推進の、場合によっては得票のツールとして、政権とテレビとの親密度はいっそう高まるだろう。そしてますます、テレビの低俗化とテレビ離れは、進行するのだろう。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 低体温症 | トップ | 偏好食品 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿