道々の枝折

好奇心の趣くままに、見たこと・聞いたこと・思ったこと・為たこと、そして考えたこと・・・

短所の裏側

2020年01月17日 | 随想
自分で言うのも気がひけるが、こどもの頃から今日まで、執着心というものが乏しい。数年、数十年がかりで目標を達成するとか、歳月をかけて事を成し遂げるというような、意欲の継続を必要とする事柄に向いていない。コツコツ修業を積んで練達し、免許皆伝に至る世界には、とんと不向きな人間だった。

粘着性が乏しい気質、一言でいえば欲がない、根気がないということになるだろう。
その反面、新規のものとか珍しいもの、興味を惹くものへの関心と意欲は高く、我ながら呆れるほどに熱中する。余りに集中するからそれは長続きせず、目新しい時期を過ぎると、関心は急速に衰え意欲は萎む。飽きっぽいということである。

幼児の頃からそうだったから、生まれつきのものだろう。小学校時代の通信簿には、いつも熱しやすく冷めやすいと書かれていた。いかなる訓練・薫陶を受けようとも、この気質は頑として矯正できなかった。

ほとんど欠陥としか思えないこの気質にも、それなりの取り柄があることに気づき始めたのは、業を廃める年齢に近づいた頃だった。

人生は遅疑逡巡を許されない選択の連続である。物事に対して適切な選択をするには、「見切る」「思い切る」「割り切る」ことが肝腎だったように思う。

見切り・思い切り・割り切りの「三切り」は、物事を決断をする上での要件である。私の短所の裏には、これがあったらしいおかげで、何とか人生の岐路を過たず、危機を脱して来られたと思う。不運不幸には常に見舞われて来たが、無事に済んだことを天に感謝している。

おそらく人には、ある方向から見て短所に見えても、逆方向から見ればそれが長所であることもあるのだろう。別の言い方をすれば、短所を長所に生かす適用術のようなものが天与で具わっているのではないか。長所もまたその裏に短所となる可能性を秘めているのかもしれない。

世の中をつぶさに観察していると、私たちには、それぞれの属性の長短を均し、平準化する目に見えない働きが及んでいるように思う。天の配剤は、万人に均等公平に供えられているのだろう。




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