sympathy と empathy という英単語があります。sympathyの接頭語sym は(ともに)でpathyは(感情)、日本語の同情に該るようです。empathyの接頭語emには(中へ)の意味があり、共感に該当する語と考えられています。
empathyには感情移入のニュアンスが濃いということでしょう。
しかし感情移入はドイツ語の翻訳語ですから、私たち日本人にはピタッと認識できません。
「他人の不幸をかわいそうに思う」のが sympathy、一方「他人の感情を理解して分かち合う」のが empathyという説明があります。似たような体験があると感情移入がし易いのは、良く経験するところです。
私は共感性が薄いのか、empathyの語感を実感できません。感情は極めて個性的なものですから、それを他人がどこまで理解して分かち合うことができるのか?疑問を排除できません。理解して分かろうとしても、それが当を得ているかどうか、正直言って自信が無いのです。
いかにも分かったように共感を口にする人がいますが、どうも胡散臭さを感じてしまいます。
人はそんなに共感力があるものかどうか?私たちはどうもempathyには縁遠いように思えます。
森鴎外は随筆「当流比較言語学」で、「国民にその感情がないと、それに該当する言語はない」と言っています。言葉と感情は一体のものだから、社会の人々が共有していない心情には、それを示す言葉は当然生まれるはずもありません。
どうやら私たちは、sympathyよりempathyに距離感があるように思います。英語の歴史においても、sympathyが古くからあり、empathyは新しく加わった概念であるように聞いています。後から生まれた語の方が、高次の概念であろうことは分かります。
国際社会における諸問題への我が国政府の対応を見ていると、その自発性や主体性の無さが、欧米の国々の政府と際立って違うことが度々露呈されます。国家の方針・政策というより、外交担当者の気質にempathyが乏しいように思えてなりません。国内でも、政治や行政の隅々に、国民へのempathyが欠けていると感じることを、度々経験してます。為政者全般、ひいては私たち国民に共通する気質が、底に横たわっているように思えてなりませ。
言葉でこそ共感という単語を常用していますが、その中身の感情そのものが、薄く弱いと感じています。
国や民族によって、empathyに濃淡があるようです。
empathyの感情はsympathyの感情よりも高次の感情と考えると、わたしたちばかりで無く、empathyの感情が甚だ薄弱な民族や国家が存在していても不思議ではありません。
古代に中国から日本に入った惻隠の情という言葉は、いかにもempathyそのものといえそうな概念ですが、古代中国の古書に典拠をもつ故事成語で、教養ある階層の人々が遣った観念語であって庶民一般の生活語ではありません。その頃の彼の国の庶民は、我が邦同様empathyの感情は極めて薄かったと見ます。
日本語には、中国古典由来の漢語が、儒教と共に大量に入って来ています。故事を語源とする言葉は、皆どこに出しても恥ずかしくない立派な観念や概念ですが、往時の中国人一般の感情を表す生活用語、実用語とは思われません。
すなわち、中国から直接又は朝鮮半島を経て日本に伝わった故事成語というものは、森鴎外が比較対照した生活言語ではなく、思想家が編纂した古典を語源とする、文章を飾る為の衒学的な言葉であって、国民の感情から生まれたものではありません。
結論として、儒教の影響を受けた極東三国には、このempathyの心情が、篤くあるように見えて、その実甚だ薄いと見て良いと思います。
本家本元の中国の中華思想というものは、empathyの対局にある考えです。
empathyは、英語が流入して150年以上経った今日でも、明確に日本語で実感し難い言葉のように思います。明治に造語された漢語の感情移入では、いつまでもその語感を捉えることはできないでしょう。
もしかしたら私たちは、ユーラシア大陸の対極の地域に在る国々の人々よりも、共感の奥行きが浅いのかも知れません。情操に差があるのでしょうか?
かつて英語の「孤独」にLonelinessと Solitudeの違いがあることを教えられ、後者の孤独に深さを感じました。それと同様に共感にも深さの違いがあるようです。
人の幸福にも不幸にも、深度の違う共感を感じ分ける感受性を、私たちは具えていないのでしょうか?
それが民族としての属性に因るものなのか?文化に因るものなのか?私は後者と考えたいのですが・・・
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