人生は短い。少年老い易く学成り難し。したがって、早く目標を定めて、脇目もふらず目的に向かってまっしぐらに進まなければならない。道草を食っている暇はない、と人は云う。
果たしてそうだろうか?人生は自分ひとりの意思と判断で成り立っているものではない。人の一生において、偶然がもたらす成効や失敗の数は、予期した必然的成果を常に上回る。自分で律することができる事柄は思いの外少なく、自らコントロールできないことの方がはるかに大きい。短命だった英国の作家ロバート・ルイス・スチブンソンは、怠慢の効用について、随筆の中で詳しく書いている。
またヘルマン・ヘッセは「見いだすとは、自由であること、心を開いていること、目標を持たぬことである」と云っている。目標を持たない自由で開かれた心でないと、見いだせないものがあると教えている。
好奇心に充ち満ちていた子供時代は、程度の差こそあれ、誰もが学校の行き帰りに道草を食った経験がある筈だ。道草は楽しいから、家や学校で禁じられても罷められなかった。子供時代は未知との遭遇の連続だ。それを愉しむように用意されている。経験を増して世界を拡げる最も大切な時期である。学習では学べないものを知り体得する適期なのだ。塾や習い事の教室をかけもちしている時ではない。
好奇心を満足させることは、物事を探求する意欲を育てる。したがって、大人は、思春期になる前の子供に道草を大いに奨励しなければならない。決して叱ってはならない。
しかし子供達の多くは長ずるに及んで、価値の幅を狭め、親、学校、社会の価値感に迎合し、それらを重んずるようになる。それらの価値が、自分と家族の幸福に必要欠くべからざるものであって、自己の保存欲求や存在証明にも合致していると考えるからだ。事実は、自分自身にとって楽しいと感ずる仕事以外に、それらを満足させるものはないのだが・・・。
そこに、社会(親、学校)の要請と自分自身の自発的欲求との間にギャップが生じる。そのギャップを埋めるものは、世の中に隈なく準備されている気晴らし事であって、飲酒、ギャンブルから趣味道楽まで、実に多種多様な気晴らしが満ち溢れている。大人の気晴らしが危険なこと、子供の道草の比ではない。
自然と偶然がもたらす無差別爆撃や自他の欲望や衝動の坩堝の中で、比較的統御し易い短期の目標達成を積み重ねつつ最終目標に到達するためには、その目標の達成に資するコトやモノ以外は、すべて捨て去るか無視するかの人生態度が不可欠になる。その成果として、目出度く目標は達成される。
だが得るものが大きければ大きいほど、その代償としての犠牲も大きい。獲得したものの裏には、喪失したものがピッタリと貼り付いているのである。失ったものは、目に触れず意識されなかっただけのことだ。得たものは自己の価値観が認めたものだが、失ったものは価値感の埒外にあるため、人は失ったものを惜しいとは思わない。
失ったものの価値にまったく気付くことなく人生を全うできたら、それはそれで幸福な一生というべきだろう。もう少し視野が広く、価値観の多様な人は、薄々失ったものの価値に気付いているが、それをあらためて詳しく知ろうとはしない。知ったところで人生にやり直しは効かないのだから。
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